5.心を穿つ、有無を言わぬ悪意。
記憶に刻まれた深い傷跡。
思い出したくもない忌まわしい過去。
ソレはいまだに重荷となり文乃の心を重くしていた...。
文乃「え、そんな!そんなはず...」
社長「彼が証言しているんだ!なぜこんなことになるまで放っておいた!?責任者としての自覚はないのか!?!!」
先輩「ほんま使えん奴や!せっかく任せてやっとったいうんに。」
文乃「でも、あれは先輩が監査して...」
先輩「でもじゃないわ!言い訳すんなや!人のせいにするんか!」
社長「潔く認めることもできんのか?内容は彼から詳細に聞いている。何より、お前は皆の意見も言うことも聞かなくて、好き勝手なことをしているそうじゃないか。社会人としての資質を疑われると思わんか?」
文乃「え...?え?(...何が起きてるの?私、みんなにそんなふうに思われてるの...?)」
文乃は困惑し、状況を理解できず、狼狽えながら立ち竦む。
先輩「ほんまいけん!こいつはいけん!!」
目の前の男は、勢いのまま、感情のままに吐き付ける...
おぞましい目付きをしながら...。
...
....
.....
.....まだまだ若手だった頃のある日。
文乃は先輩の補佐という形でプロジェクトに携わっていた。
補佐とはいうが、実態は一から十まで、総合管理、段取、現場作業、書類作成、出荷リストの作成、現物の確認と集合、連絡先との都合合わせ、代理店へのフライトの発注、等々ほぼ全ての業務を一手に行っていた。
それでも文乃は、任された仕事に向き合い、一生懸命にこなし、期限内に何とか間に合わせていたのだが.....。
この先輩というのが、所謂、だいたいの会社に一人はいると思われる曲者枠の奴だった。
特徴を挙げると、
新人には気さくで、とても話しかけやすいキャラをしている。
外面も良く、浪費体質で気前良く奢るので、会社外の若手からの評判はすこぶる良い。
とても人に好かれる性格をしている....かの様に見えるが、それは誤りである。
本質的な彼は、卑屈で弱い物いじめを是とする非常に醜悪で、姑息狭量な人間だった。
その彼は、新人が会社に慣れてくる頃から豹変する。
それまで飲み物を持ってきたり、夜に食事を奢ってあげたりと甲斐甲斐しく世話をするのだが、それはただの精神的な囲い込みであった。
ある時より急に語調が荒くなり、奢ってあげた事や、自分の方が仕事が出来ることを盾にマウントを取るようになり、
散々世話になっといて!、だの、お前に何ができるんや!?、等の、見下したような発言を繰り出すようになる。
まだまだ若手の者達は、豹変した態度に面喰らい、急な態度の変化に思考が追いつかず、自分が間違っているのかと思い込み始め、素直に従い出す。
が、
それで大人しく対応していると更にそれはエスカレートしていく。
気付けば手下を扱う主人の様な態度になり、小間使いをさせだし、自分は何もせず、(見栄えの良い、美味しいところだけ自分がやる)頭を使う所やキツイ仕事、下準備等を全てこなさせ、収穫は自分だけでする、というような仕組みが出来上がっている。
しかし、
彼の態度に頭にきた気の強い人間が、彼を一喝すると、途端に態度が180°チェンジし、主人の様な態度から、ヘコヘコとコメツキバッタの様な卑屈な態度へと変貌する。
それが例え後輩であろうと。
まさに強気を助け、弱きを挫く....、
あまりの浅ましさに、...見ていて非常に見苦しい。
もちろん気の強い、人を食えるような人間だけが、その現状を変えられるわけであって、気の弱い人間や相手を立てたり優先する人、要領の良くない人には先の態度が更に増長していき、歯止めが効かなくなってゆく。
このような姑息で陰険な性格、性質は、取引先の社長さん連中には見破られており、密かに蔑まれ、体良く利用されているが、年に1〜2度ぐらいしか会わない普段の顔を知らないお客さん連中にはその媚びた姿勢は、人格者と勘違いされて人気がある。
私はこの頃、殆どの仕事を覚えて一人でこなせる様になっていた。だが会社的にはまだ信用が蓄積しておらず、誰かの補佐以上のことは出来なかった。
そこでプロジェクトが立ち上がった際に、奴の補佐に付けられる事になってしまったのだ。
しかし奴は、能力の伸びて来た私が気に入らないのか、はたまた、誘いを断り、媚びも売らない私の態度に腹を立てているのか、
それとも、ただただ浅ましく狭量な本質が原因か...。
..事あるごとに私の進捗の邪魔をして来た。
奴自身は、ほとんどプロジェクト関連の仕事に手をつけず、監査と称して私の全ての作業にケチを付け始めた。
私の行う全てに対して、ことごとくに手を止めさせ、思考を乱させる...。
最初は厳しいな、くらいにしか思わなかったのだが、
いくら何でも指摘箇所が多く、あまりにもケチが多すぎたので、疲れ果てた私はある時、うっかりと手直しをしていない書類を奴に渡した。
その時の言葉が.
先輩「ふん、ま、よかろ。」
だ。
...ふざけるな、私は、手直しなどしていないぞ...。
何も見ていない、コイツは!
私に嫌がらせをしたいだけなのか?!コイツは!!
そのくだらない時間の浪費で何人に迷惑をかけていると思っているのだ!?
突き詰めれば会社に弓引く行為に他ならないのだぞ!!?
憤慨しながらもその時は何とかやり遂げ、先輩に締めをお願いし、出荷準備作業完了。
後は出荷の日取りの調整と、最終書類の取得だけで良く、手筈は整えてあるので簡単な作業だった。
残った簡単な作業、それは先輩がやると言うことで私は次のプロジェクトへと応援に入った。
これであとは、出荷日まで待つだけで良かった...。
...はずだった。
何と奴は出荷日の周知をせず、書類すら取得せず、フライト便を潰してしまったのだ。
応援先でもばたばたしていた私は、段取りを組み終え、任せた安心感と、出荷の予定日は翌週辺りが適正だと思っていたため、加えて先輩の顔も極力見たくなかったため、完全に思考から出荷のことが消えていた。
そして、出荷日
それは予定よりも大幅に前倒ししてあった。
早朝からけたたましく電話が鳴り響く。
何事かと、起きない頭で電話を取ると、怒号が響く。
社長だった。
早朝から現場に呼び出され、先輩と共に私を責め立てる。
まったく状況の理解出来ない私は、罵詈雑言を浴びせかけられながら、立ち尽くすばかりで何もできなかった。
そんな私を一人残し、二人は去って行く。
私は訳が分からず立ち尽くしたまま、大粒の涙をこぼしていた....。
何故、自分が責められているのかわからない。
現在の状況も把握できない。
怒りでも、苦しみでも、憎しみでも、悲しみでもない、
魂そのものを抉られた様な、理解の出来ない痛みと感情が私を包み込み...、茫然と立ち尽くす
私は虚無となり、ただ、ただ...、涙だけが零れ落ちていた......。
その日緊急集会でその件が取り沙汰される。
私はみんなの前で吊し上げを食らったが、出荷に造詣の深い部長が遠目からだが、普段からの私の仕事ぶりを見ていた事で助け船を出してくれた。
出荷の流れや段取りの都合上、私の過失は多いとは思えないと、部長が進言してくれた。
部長が庇ってくれた事で、最終的な責任は先輩と半々という事になった。
だが、フライトが中止になったという現実は、物は飛ばないのに輸送費がまるまると請求されるという事である。
結果として数百万単位の損害が出てしまう。
その問題は合併出荷となっていた他の業者にも波及し、多方面へと広がった...。
私は賠償こそさせられなかったものの、当分の間、部長付きの小間使いをする事となり、雑用のお荷物、と、上層部からの目は厳しいものとなった....。
......その時以来だ。
ただでさえ良い印象の無かった先輩を軽蔑と憎しみの目で見る様になったのは。
コイツのことは先輩としか思わなくなった。
コイツのことは何一つ信用しなくなった。
コイツの存在が不快過ぎて気分が悪くなることさえあった...。
...そして私は疲弊していった。
追い詰められ地の底を見た精神は痩せ細り、全ての自信も誇りも崩れ去り、空っぽのような空虚な意識が満たす抜け殻に近い生活を送る様になってしまう。
自分がどんな行動をしようと、変わらない、始まらない、どうせ壊れてしまう。
自分の力など、努力など、価値が無い、意味がない、私自身には存在意義など無い。
文乃は極限のマイナス思考へと転化してしまった。
後ろ向きな精神状態では。自身が存在していることでさえ、間違っている様な気分になっていく。
...
...
文乃の部署
部署の同僚達「先輩酷くね?あれ自分の発注ミスだろ?イツカさんなすりつけられてたぜ。」
「アイツさ、社長と同い年で入社時期もほとんど一緒だろ。いっつもそばでおべっか使って持ち上げてるからよ、社長もなんだか気を許してんだよな。」
「マジ可哀想...。イツカさんあのプロジェクトの根幹のほとんど組み上げてたじゃん。アイツ最後の部分だけ取って、自分が日程チョンボしたくせに汚ねえよな。」
「いっつも社長に引っ付いては、耳元で従業員の悪い噂や調子の良いこと吹き込んでるらしいぜ。社長もバグり始めてるよな。」
「あぁ、先代は良かったなぁ。」
「だな、皆んなに慕われてたよな。お客さんにも、近所の人にもよ。俺もあの社長は好きだったよ。」
「それに引き換え今の社長は...。売り上げは伸びたけどやり口が強引すぎるんだよな。毎年仕事量増えてね?のくせ人件費は減らせが口癖だしよ。」
「まぁここで文句言ってても、結局何の意見もできねえんだけどなぁ。」
「イツカさんは生贄になったんだよなぁ。」
「俺らも同じ目に遭うかもしれないぜ...、目立たねー様にしねえとな。」
「イツカさんとも少し距離取らねえと、巻き込まれるぜ。首脳陣も先輩も、矛先が彼女に向かってるからな。」
「可哀想だけど仕方ねーよな。俺らだってやられたくないしな...。」
....
....
こうして畳み掛ける様に、同僚達は距離を置き遠巻きに眺めるようになり、私は向こう一年程の間、孤立した様な状態で細々と過ごした...。
この頃の私は、無気力、疑心暗鬼で鬱に近い状態となり、仕事も手につかず、そもそもさせても貰えず、もうどうなってもおかしくなかった...。
それから数年、
猫を飼い始めたり、親友の助けや、地道な成功体験を重ねていくことにより、少しずつ、どうにか自信と信頼を取り戻してゆく。
先輩とは時折少しは関わらなければならなかったが、こちらはハナから臨戦体制で臨む。
攻撃的な物言いを使い、相手を懐に寄せ付けない。
嫌悪感と、防衛体制と、拒絶反応を獲得したため、一切深入りはしなくなったし、事件のこともあるので関わらない理由も充分だった。
だが、それがまた気に入らないのだろう。
会う度に先輩は無駄に厳しい口調で話しかけ、無駄で余分で傲慢なアドバイスを投げ込んできて、それを無視され、不快な顔をさらに汚らしく歪ませて、無駄に不快感と嫌悪感を残して去って行く。
仕事に直接関係のあること以外、もう奴の言葉は耳には入らない。
人生の大切なリソースを、こんな愚物の為に使いたくないからだ。
そうしているうちに、あらためて会社的にも信頼の蓄積した私は、最終的には立ち直り、課長に就任する。
...........。
しかし、そこから先は中間管理職としての宿命、これまでとは違う、より面倒くさく煩雑な人間関係が始まってしまう。
私は首脳陣、先輩、同僚、後輩、全方位からのワガママに振り回されるようになり、ジワジワと確実に、疲弊してゆく事となる.....。
.....
....
...
文乃「あー....、なんか色々思い出しちゃったなぁ...。」
文乃「なーんでカフェに来てまでこんなつまんない事で思考力を割かれてるんだろ....。読みたい本も止まっちゃってたよ...。」
今の文乃は、漠然とした不安に苛まれ、気晴らしに外へ出ても何かが引っかかり気持ちの切り替えもなかなか出来ない状態でいた。
思い出したくもない記憶が鮮明に甦り、文乃の心の老廃物は溜まる一方で、限界は近づいていた。
そしてその時は、実に普通に、実に唐突に、訪れるのだった。
記憶が示すものは何なのか。
この記憶こそ、文乃の新しい扉を開く、一つの鍵であったのかも知れない...。