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鬼と天狗  作者: 篠川翠
第三章 常州騒乱
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凱旋(8)

「……芳之助は、大橋宿の我が陣営を訪ねて参り、命乞いを致しました」

 成渡以外に誰にも言えなかった話を、鳴海はようやく吐露した。源太左衛門が、ちらりとこちらを見る。

「それで?お主は何と答えた」

 鳴海は目を瞑った。間違ってはいなかったと思う。だが、やはり酷い命令には違いなかった。

「……己が二本松の武士だと申すならば、腹を切れ。斯様に、芳之助に命じた次第でございます」

 源太左衛門が、視線を伏せた。

「……よくぞ、申し渡された」

 源太左衛門の言葉に、鳴海はそろそろと顔を上げた。続けて、公も深々とため息をついた。

「そなたらが祐吉の主命を受けていたのでは、是非もなかっただろう」

 実弟の幼名を呼ぶ長国公の眉の辺りに、微かな影が出来ている。

「御存知でございましたか」

「お主らが常州へ行っている間に、赤坂の結城藩邸から文を貰った。芳之助に死を以て償わせねば、幕閣らから二本松藩への疑いの目が向けられても、仕方がないとな」

 そこで、公は再び吐息を漏らした。

「祐吉の言い分は、道理であろう。だが……、鳴海には嫌な役回りをさせてしまったな。済まなかった」

 鳴海は、黙って首を振った。長国公もまた密かに、芳之助の命運に心を痛めておられたのか。それを知った上で、優しい御気性の公を責めるなど、出来るはずがない。

「己を責められまいぞ、鳴海殿。恐らく拙者であっても、お主の立場であれば、芳之助に切腹を命じたであろう」

 源太左衛門も、寂しげな笑いを浮かべている。

 それが上に立つ者の道理だ、と鳴海は思った。が、この寒々とした胸中を分かち合える相手は、ごくごく限られてくる。上に立つ者の孤独が、ひしひしと身に迫った。

「……芳之助は、己が二本松にいた痕跡を消すことで守るべきものを守れるならば、それで良いと申しておりました。それが、あの者の最期の言葉となった次第でございます」

 小声で、鳴海は呟いた。芳之助が守ろうとしたのは、妻だけではない。己がしてきた事について、二本松藩が幕府から叱責を受けぬようにと、あの者なりに考え抜いた末の懇願だった。眼の前の二人にだけは、それを伝えたかった。

 そうか、と源太左衛門が呟いた。その目が、微かに赤い。

「かの者の末期の願いとあらば、叶えてやっても差し支えあるまい。のう、源太左衛門」

 公の言葉に、源太左衛門がこくりと肯いた。

「拙者も、御公儀が芳之助の件を追求することはないと思いまする。事実……」

 そこで、源太左衛門は僅かに言い淀んだ。

「水戸辺から、市川殿らへの批判の声が上がり始めているとの報告も参っております。あの分であれば、水府は早晩……」

 鳴海は思わず身を固くした。既に鳴海は通常の番頭の任務に戻っているが、源太左衛門は今でも常州騒乱の後始末に携わっていたらしい。そして、源太左衛門の言葉からすると、市川らの強引なやり方に反発を覚える者も少なくない。市川らは早くも孤立を深めつつあるのだった。

 鳴海の強張りに気づいたか、源太左衛門が目だけで笑ってみせた。

「そなたはもう、通常の役回りに戻って良い。後は拙者に任せよ」

「ですが……」

 丹波が本気で水戸藩の騒擾に首を突っ込もうとすれば、また厄介なことになるのではないか。だが、源太左衛門は笑みを深めただけだった。

「藩内で孤立していたのは、芳之助だけではない。それは、お主も承知しておろう」

 その言葉に、鳴海は戸惑った。よもや、丹波に対する評価を、源太左衛門の口から聞くとは思いもよらなかった。

「拙者も殿も、お主より丹波殿との付き合いは長いのだ。丹波殿の御気性も十二分に承知しておる。だが、丹波殿なりに藩の行く末を思い、苦労を重ねてきた時間は、決して短いものではない。かのような御気性ではあるが、今、丹波殿を第二の市川殿とするは、愚行であろう。また、我が藩のためにもならぬ」

 源太左衛門の言葉からは、鳴海とは別の意味で、二度と藩内における孤立者を出さないという意志が、感じ取られた。

 藩において孤独だったのは、芳之助だけではない。源太左衛門の言葉は、鳴海に対する戒めでもあった。

 そっと公の様子を伺うと、静かに笑みを湛えている。どうやら公も、源太左衛門の方針に賛成のようだ。

「源太左衛門の意志を尊重してやるが良い、鳴海。私にとっては、そなたらも丹波も皆、股肱の臣だ。御式台の方策の行く末も定まらぬ今、どの家臣も失うわけにはいかぬ」

 声は優しいが、その奥底には秘められた芯が通っていた。かつて、日向守が鳴海に告げたように、長国公は心からどの家臣も慈しんでいる。だからこそ、自分たちは、その優しさに甘えることがあってはならないのだ。それはこれから先、再び訪れるかもしれない国難に立ち向かう際の、心得となっていくだろう。

「承知仕りましてございまする」

 鳴海は両名に、深々と頭を下げた。公と源太左衛門が、ひっそりと笑みを交わす。

「それにしても、冷えるな」

 公が、ふと洗心亭の外の方に視線を向けた。さらさらと、檜皮葺きの屋根に雪が降り積もる音が、耳に心地良い。三人はそれからしばらく、雪の降り積もる音色に耳を傾け続けた――。




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