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鬼と天狗  作者: 篠川翠
第三章 常州騒乱
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凱旋(6)

「――先日、思い立って藩士らの諸元帳を調べたところ、藤田芳之助の名が消されておった。あれは、お主の差し金だな?」

 鳴海も聞いたことのないほどの恐ろしい声色で、丹波が牽制を仕掛けてきた。やはり、丹波は先回りして調べていたのか。郡代らの席の下座で、新十郎が顔を強張らせているのが、視界の端に入った。

「今一度申し上げまする。この件につきましては、常州に赴いた拙者や日野様、与兵衛様に一任されております。拙者は、『芳之助を始末せよ』との命に従い、かの者の籍を我が藩から抹消させ申した。既に藩籍がない者の縁者を処分して、どうなりましょう」

 鳴海のきっぱりとした物言いに、束の間丹波が黙り込んだ。どうやら、誰が主命を下したのか、思い当たったようである。だが、それで引き下がる丹波ではない。

「水戸藩の諸生党は、未だ天狗党の追求の手を緩めておらぬ。それは、幕閣の方々のご意思でもあろう。公儀に背くか」

 傍らで、志摩が息を殺しているのが感じ取られる。ごくり、と志摩の喉仏が上下する音が聞こえた。

「然と存じております。ですが、肝心なことを丹波様はお忘れでございましょう」

「儂が何を忘れておると申すのだ」

「御公儀から、『藤田芳之助という者及び縁者について処分せよ』という命令を、丹波様は頂いておられるのでしょうか」 

 しん、と水を打ったように座が静まり返った。

 鳴海には確信があった。この件については、丹波の独断で動いているに違いない。仮に棚倉藩から丹波の元へ報告が届けられていたとしても、既に鳴海が八槻宿で、芳之助の犯したことについての詫びを入れている。あれから一月以上も経った今になって、棚倉藩や領地を接している塙代官所が、芳之助の所業について問責してくるはずがないのだった。恐らく、水戸藩の市川らの苛政の噂を耳にした丹波が、先走っただけだろう。だがそれに乗じて丹波が藩内の尊攘派への取締を強化すれば、今度こそ二本松藩は水戸藩の二の舞いになりかねない。鳴海は、すうっと息を吸い込んだ。

「恐れながら、丹波様は些か幕閣らや水戸藩の動きに、囚われ過ぎでございませぬか。このまま過ちを犯し、我が藩が水戸藩の二の舞となっても宜しいと、お思いでございますまい?」

 すっと、丹波が鳴海から視線を逸らした。首だけを巡らせ、背後を振り返る。その視線の先には、源太左衛門がいた。源太左衛門が目を開き、落ち着いた様子で丹波を見つめ返した。

「拙者も、鳴海殿と同じ意見でござる。拙者や鳴海殿はただ戦ってきただけではござらぬ。かの藩の双方の憎悪の深さや、それを互いにぶつけ合い、民らを傷つける有り様も(つぶさ)に見て参った。己が予断で民を戦火に巻き込むことこそ、本末転倒でござろう」

 源太左衛門の言葉には、実際に水戸藩の政争を目の当たりにしてきた凄みがあった。だが、まだ納得できないのだろう。丹波は、未だ鳴海の前から引き下がろうとしない。

 いい加減、鳴海も焦れてきた。何か言葉を続けようとした、その時――。

「……大谷鳴海。そなたには、来年、子が生まれるそうだな」

 刹那、何を言われたものか、わからなかった。だが、再び歪められた丹波の口元に気づいた途端、鳴海は全身の血が逆流するのを感じた。

 りんと我が子を盾に、自分を脅すつもりか。

 反射的に左腰の辺りに手を泳がせた。そのまま鯉口を切ってしまいたい衝動を、辛うじて抑える。かちゃり、と金属同士が触れ合う音が、静まり返った大広間に響いた。 

丹波殿(●●●)は、彦十郎家を取り潰されると申されるか」

 鳴海が低声で凄む声に、丹波が息を飲むのが見えた。鳴海がこれほどあからさまに丹波に敵意を向けたことは、かつてなかった。鳴海の全身から迸り出る殺気に押されて、誰も口を開けないでいる。

 どれほどの時間が経ったのか――。

「丹波。それ位で、大概に致せ」

 不意に、頭上から長国公の柔らかな声が降ってきた。その顔は、一見いつも通りである。だが、微かに疲れが見えた。

「……御前でありながら、誠に御無礼仕りましてございます」

 丹波が体の向きを変え、公に深々と低頭平身した。はっと我に返り、鳴海もそれに倣う。公の前でとんだ醜態を晒したものだと、鳴海も今になって全身が震え始めた。そんな鳴海をちらりと見ると、公がため息を吐き出した。

「鳴海、源太左衛門。そなたらにも、少し話がある。与兵衛は……不快の為に臥せっているのだったな」

 公は、代わりに座っている志摩に視線を向けて微笑んだ。だが、そこで言葉を切ったところを見ると、志摩を同席させる気ないらしい。

 鳴海は、思わず源太左衛門に視線を向けた。鳴海が公直々に呼び出されるなど、まずない。だが、源太左衛門は軽く肯いてみせただけだった。

「畏まりまして、候」

 まさか公の命令には背けない。そんな鳴海にお構いなしに、公は側にいた小姓に、「先程命じておいた支度は、出来ておるか」と小声で尋ねている。

 整っております、という小姓の声に、長国公が肯いた。

「芳之助の件については、追って余が直々に沙汰を下す。それまで少し頭を冷やせ、丹波」

 公の口調は穏やかだが、その声色には有無を言わせぬ響きがあった。

 はっ、と丹波が再び頭を下げた。それを潮に、ようやく空気が動き始め、三々五々に散っていく。だが、志摩は未だ鳴海の方を心配そうに見つめて、ぐずぐずとしていた。

 公から何を言い渡されるのかは若干心配であるが、源太左衛門も一緒であれば、左程心配はいらないだろう。鳴海は、志摩に「先に下城されよ」と肯いてみせた。



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