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鬼と天狗  作者: 篠川翠
第三章 常州騒乱
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凱旋(4)

 その日の夕刻、山田家の慎ましやかな夕餉に招かれた鳴海は、二人に秘事を打ち明けた。案の定というべきか。和左衛門は、たちまち渋面を作った。

「――無理を申されますな、鳴海殿。あの者の一切の痕跡を、消してほしいなどと」

 両腕を組んでこちらを睨みつけるその姿は、以前の鳴海であれば、目をそらして有耶無耶にしていただろう。いや、そもそも和左衛門に近づこうともしなかったに違いない。だが、藩士にまつわる行政上の記録を消してもらうには、どうしても地方の長である和左衛門の協力が必要だった。同じ郡代でも、羽木に頼めば丹波に筒抜けになるだろうし、常州で共に兵を率いた間柄ではあっても、郡代としての植木の方策については、よく知らない。後で丹波から問責されるにしても、いっそ丹波と敵対する和左衛門に頭を下げる方が、この場合は望ましかった。

「そこを曲げて、御願い奉る」

 鳴海は深々と、腰を折った。その姿に、今度は新十郎がため息をつく。

「全く出来ぬことはございませぬが……。丹波様からきっと追求されますぞ」

 ぐっと、鳴海は息を呑み込んだ。結局どの道、家老筋からその問題について詮議されるのは、分かっている。

「新十郎の申す通りでござる、鳴海殿。あれで丹波殿は、なかなか良い性格をしておられる。それこそ些事に亘ることまで、己の目で確かめねばならぬご性分だ。まして、今は水戸の騒乱の影響に、神経を尖らせておられる最中でござろう」

 和左衛門が、深々と嘆息した。鳴海にも、丹波が水戸の動きに未だ神経を尖らせているのは理解できる。何せ、天狗党は未だ一橋慶喜を頼りとしており、その動向を諸藩が固唾を飲んで見守っている最中だ。

 和左衛門の返答に窮している鳴海をちらりと見た新十郎が、静かに尋ねた。

「どうかまことの御存念を、お話いただけませぬか。でなければ、我々も鳴海殿の御依頼をお受け致しかねまする」

 束の間、迷いが生じた。だが、新十郎の言う事は道理である。しばし沈黙を保った後、鳴海は絞り出すように、言葉を選んだ。

「――己がこの地にあった痕跡を消すことで救いたい者を救えるならば、それで良いと、あの者は申しておりました」

 鳴海の言葉に、和左衛門が両腕を組んで瞑目し、天井を見上げた。その目元や口元が、微かに震えている。鳴海は、さらに言葉を重ねた。

「確かにあの者の申出通りの始末とすれば、未だこの地に残っているはずの妻女は、自由の身となりましょう。それだけではござらぬ。結城藩の日向守様から伝えられた話によれば、一度高崎藩で捕えられた折には、『旧水戸藩士の者』と説明していたそうでございます。その説明との整合も取れ、万が一幕府からの追求を受けたとしても、その(ことわり)を持ち出せ申す」

 鳴海の出した「日向守様」の名前に、新十郎の目がやや見開かれた。聡い新十郎のことである。かつて天狗党らの所業として聞いた「上州領内を荒らし回っていた乱妨者」の一人が、芳之助であったことに気づいたのだろう。

「ふむ……」

 新十郎も、額に手を当てて考え込んでいる。やがて――。

「……確かにその論法であれば、我が藩に危害が及ぶことが避けられるか……」

 和左衛門が、渋々というように肯いた。

「あの者を斯様(かよう)にまで追い詰めたのは、我らにも責任の一端がございましょう。あの者がしたことは決して許されないでしょうが、せめて末期の願いくらいは叶えてやるのが、人の道かと存じまする」

 その言葉に、新十郎が足元に視線を落とした。二年前の脱藩騒動の折に、鳴海と共に芳之助を追放したのは、新十郎である。鳴海の懊悩は、新十郎ならば理解できるはずだった。

「人の道、と申されるか」

 ふと、和左衛門が笑った。鳴海が和左衛門に眼差しを向けると、思いの外、その表情は柔らかい。

「鬼鳴海と評される御方から、そのような言葉を聞くとは思いませんでしたな」

「……拙者は、左様な非人情ではないつもりでござる」

 憮然と和左衛門に返す鳴海に、新十郎がふっと笑った。

「それはよく存じ上げておりまする。鳴海殿が本当に非人情な御方であれば、二年前、かの者を斬り捨て御免になさっておられたでしょう」  

 それは新十郎の過剰評価だとも思ったが、鳴海は黙っていた。あのときはまだ詰番に昇格したばかりで、守山藩の三浦平八郎とその背後にある水戸藩の影に、怯えていただけである。だが、今の自分ならば、異なる処断を下すのではないか。

「……よろしい。鳴海殿の申し出を、お受け致そう」

 和左衛門の言葉に、鳴海ははっと顔を上げた。それに構わず、和左衛門は淡々と続けた。

「あの者を追い詰めたのは、鳴海殿や新十郎だけではございますまい。我ら尊攘派も、かの者の丹波様の専横に対する敵愾心を、煽ったこともござった。それも、かの者の脱藩の動機となったやもしれぬ」

 和左衛門が、深々と息を吸い込む。束の間、沈黙が流れた。

「――いずれにせよ、我が藩の者らは誰一人、芳之助を引き留めようとしなかったことに、違いはござらぬ」

 そう述べると、和左衛門はふっと遠くを見つめるような表情を作った。その表情を、新十郎が静かに見つめている。やがて――。

「この度の丹波殿の御勘気の火の粉は、鳴海殿に降りかかることになりましょう。そのお覚悟も、決めておられるのでしょうな?」

「無論でござる」

 和左衛門父子にこの話を持ってきたときから、それは覚悟していた。肯き返した鳴海の決死の表情がおかしかったのか、和左衛門が口元を上げる。

「鳴海殿がそこまでお覚悟を決められておるのであれば、我等も協力を惜しまぬ。良いな、新十郎。明日にでも、上手いこと処理せよ」

「承知致しました、義父上」

 ほっとしたように、新十郎も深々と肯いた。

「いずれ、大広間で詮議がござろう。そのときには、鳴海殿のお手並みをじっくりと拝見致しまする」

 そう述べると、和左衛門は鳴海にようやく笑顔を向けた。



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