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『序文』

「あの、すみません」


 廊下には数多くの学生の姿があった。その殆どの表情は、一日の授業を終えた開放感に由来するであろう活気に満ちていた。そんな賑やかさの只中にあって、はっきりと。鐘を鳴らす様な響きの声が、その音色とは対照的に穏やかな語調で言葉を紡ぐ。


「……んん?」


 知らぬ顔、知らぬ声の女子が自ら自分に話しかける事などそう有りはしない。たかを括っていた少年の足を止め、半身を向き直らせるには、凛としたその声は十二分なものであった。

 向き直った少年と、声の主たる少女の視線がかち合う。すかさず少女は軽く腰を折り、手前都合で呼び止めたことに対する謝意を示す。そして続け様、先刻と寸分違わぬ響きの音色を以ってして、言葉を続ける。

「不躾にごめんなさい、ハナフキシズカさんに取り継いで頂きたいのですが」

「ははぁ……ハナフキ、シズカさんねぇ…」

「はい」

少年が僅かばかり、訝しげな様子を見せる。見せた後、眼前の少女の姿を下から上、確認する様に見据えた。


 黒髪の少女だった。

 艶やかなセミロングを左側頭部やや下側で束ねたポニーテール。顔立ちは端正、凛々しい眉に柔らかな瞳が強く印象に残る顔立ちをしていた。

 ただ、少年の目を引いたのは、何より少女の表情だった。


 無表情と言えばそれまで。真顔に近しい表情には緊張も、不安の色もない。初対面の男性との会話に気負いする様子も無く。いっそ清々しい程堂々としたその姿にはしかし、感情の機微が欠けるように見えた。

 礼儀正しい学生の模範解答の様な風体と所作。或いはそれは、上質な模型の様な印象を少年に与えた。

「……ちなみにお嬢さん、そちらのシズカさんにはどういった御用向きでお尋ねになられてるのか、お教えくださったりする?」

 殊更戯けたように…或いはいっそ挑発するように、少年が軽口を叩く。だが、少女の口からは一貫して、実務的で簡潔な言葉だけが返される。

「少し、相談事を」

「いつからウチのクラスは悩みの窓口になったんだか。んなもん、親や教師の方が適任じゃねーの?」

 少年が肩を竦めてみせる。そんな彼の軽口に対しても、少女の言葉が揺れる気配は無かった。

「やや相談しにくい内容でして。噂を信じるなら、ハナフキさんにご相談するのが一番かと」

 少年が目を細める。

 少女の〝完璧〟さに相対した少年の胸中に降って沸いたのはしかし、感嘆とは程遠い〝なにか〟だった。判然としないその感情を、強いて言葉にするなら。


 ——違和感。

 

 見知らぬ少女の思い悩みを根掘り葉掘り詮索する事も憚られる。少年は極小さな溜息を一つ吐くだけで、彼女に対して感じた…漠然とした違和感の源泉を追求する事をしなかった。

 その代わり、というわけでもなかったのだろうが。少年の口から発せられたのは、今まさに現実として横たわる細やかな疑念だった。

「噂は楽しむもんで、信じるもんじゃねーよ。……ちなみにもう一つ聞くけどよ、お嬢さん。その噂話じゃぁ、例のシズカお嬢さんはどんな奴だって話になってんだ」

「……オカルトに詳しい、チンピラゴーストスイパーと」

「………」

 少年が頭を抱える。少女に、彼の機微が伝わる事はなく、発せられたのはあくまでも表面上の気遣いの言葉に留まる。

「……あの、大丈夫ですか」

「……頭の方は幸いな……お嬢さん、名前なんつったっけ?」

 気を取り直す。言葉を体現する様に、少年が抱え込んだ頭を放し、少女に問う。

「三組の合掌抄帷がっしょうとばりです」

 少年の目が、ほんの少し見開かれた。

「すんげー珍しい苗字だな。初めて聞いたぜ」

 極めてありふれた感想。極自然な世間話。

「よく言われます……と、それよりもそろそろハナフキさんを…」

 不利益とまでは言わないだろうが、目的遂行の為に必要とは思わなかったらしい少女…合掌抄帷の催促を、

「あーー、それなんだけどな、合掌さん。あんたさんの間違いを二つ、正してもいーかよ」

少年は、真っ向から制した。


「……どうぞ」


 見ていなかった訳ではない。ただ、重要だとも感じていなかった少年を、ここで初めて抄帷は真っ直ぐに見据えた。


「まず、頼む相手を間違ってる。どんな相談かは露と知らねーけど、霊能力者でも見識者でもねー人間に手綱握らせるなんて、ほとほと馬鹿げた話だ。悪い事ぁ言わねーから、止めとけよってのが、一つ」


 赤髪の少年だった。

 根本から毛先に掛けて淡さを醸すグラデーションの染髪。男性にしては極めて長い…恐らくは腰元まであるだろうそれを、頭の後ろでシニョンに結い上げていた。両耳には、ファッションと呼ぶには大き過ぎるフープピアス。切れ長で垂れ目がちなその目元には、薄らと隈があり、整っていると言って差し支えのない少年の印象を、「好青年」の枠組みから外す一助となっていた。


「……あと、『シジマ』だ」

「——え?」

 そして、浮かべられるのは、薄らと余裕を感じさせるイタズラっぽい笑み。その風体は悪人でもチンピラでもなく…強いて言語化するなら『悪ガキ』といった表現こそが相応しい様なものだった。

 言葉の意味を正確に理解出来なかったらしい、抄帷が短く疑問の声を発する。そんな彼女に向けて…飄々とした笑みはそのままに、

 

「静かの一字で、正しい読みは『シジマ』だ。…初めまして合掌さん、俺がシズカお嬢さん…花蕗静はなふきしじまだ」


少年…花蕗静は自らを名乗った。

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