第七話
天音シオン。
白銀の髪に、透き通るような青い瞳。
誰もが思わず振り返るほどの整った美貌を持つ少女は、転入初日の朝から、神凪学園をひどく騒がせていた。
理由は単純だ。
彼女は、Sランク相当の実力者だった。それも、ただの候補生ではない。
海外の異能研究機関が、その危険性を認めつつも畏敬を込めて評価する、特異な異能の持ち主。
その名は――【絶対不可侵】。
あらゆる外部からの干渉を徹底的に拒絶する、防御特化型の異能。
物理的な攻撃はもちろん、炎や雷といった異能の奔流も、空間干渉も、さらには精神干渉すらも、彼女の肉体に届くことはない。
攻撃を受け止めるのではない。
「攻撃が彼女に届く」という事実そのものを、世界から拒絶する。
理論上、彼女を傷つけることは不可能なはずだった。少なくとも、これまで彼女を検査してきた高名な研究者たちは、揃ってそう結論づけていた。
そんな少女が――。
「ねえ、永遠くん」
授業開始前の静かな教室で、彼女は剣理の隣に腰を下ろしていた。
「あなたって、本当に何でも斬れるの?」
「……何でも?」
「ええ。炎でも、雷でも、空間でも。形のないものでも、斬れる?」
「斬れるよ」
剣理は即答した。シオンは、わずかに目を丸くする。
「……どうして?」
「斬れるから」
「…………」
「斬れないものって、あるの?」
逆に問い返され、シオンはしばらく彼の横顔をじっと見つめていた。
冗談を言っているようには見えない。自分を大きく見せようとしているわけでもない。ただ、本気でそう信じ切っている。
それが伝わってきた瞬間、シオンの胸が激しく高鳴った。
「……ふふっ」
「何か面白いことあった?」
「ううん。あなた、思っていた以上にすごい人なのね」
「そうかな」
「ええ、とっても」
シオンは嬉しそうに、花がほころぶように笑った。
そして、彼の机に両手を突き、ぐっと顔を近づける。
「じゃあ、お願いがあるの」
「何?」
「私を、斬ってくれない?」
その瞬間、教室の空気が凍りついた。
周囲で雑談していた生徒たちが、一斉に動きを止め、二人を振り返る。
――今、彼女は何と言った?
――自分を斬ってほしい?
――転入初日の美少女が、学園最強候補の男子生徒に……?
「……えっと」
剣理は、少しだけ困ったように眉を下げた。
「それって、痛くない?」
「痛くないと思うわ」
「そうなんだ」
「だから、お願い」
シオンの青い瞳には、嘘偽りのない真剣な光が宿っていた。
「私を斬ってほしいの」
剣理は考えた。
目の前の少女は、自分に「斬ってほしい」と願っている。
なぜだろう。普通、自ら進んで斬られたい人間などいない。少なくとも、彼の狭い世界では聞いたことがなかった。
「……どうして?」
尋ねる彼に、シオンはふと視線を足元へと落とした。
「私ね、生まれてから一度も、傷ついたことがないの」
「へえ」
「転んでも、ぶつかっても、何も起きない。刃物で切ろうとしても、炎で焼こうとしても、私には何も届かない」
彼女は自分の白磁のような手のひらを見つめた。
「最初は嬉しかったわ。誰も私を傷つけられない。何が起きても安全。両親も、周囲の人たちも、私のことを特別だと言ってくれた」
その声は、どこか穏やかだった。
けれど――。
「でも、いつからか……怖くなったの」
シオンは顔を上げ、まっすぐに剣理を見た。
「私、何をしても傷つかないの。どんなに強い攻撃を受けても、何も感じない。誰かに抱きしめられても、相手が私に触れているという感覚すら、だんだん曖昧になっていく……」
「……?」
「私の異能は外からの干渉を拒絶する。だから私は誰にも傷つけられない。けれど――」
彼女は、寂しそうに微笑んだ。
「誰かに、本当の意味で触れてもらえない気がするの」
剣理は黙って聞いていた。
「だから、知りたいの。私を斬れる人が、本当にこの世にいるのかどうか」
シオンは、すがるような、しかし強い光を帯びた瞳で彼を見つめる。
「そして、もしあなたが私を斬れるなら――」
彼女は、綺麗に、切なく微笑んだ。
「私も、ようやく『普通の人間』になれる気がするの」
剣理は、しばらく考え込んだ。
「普通の人間」がどういうものなのか、彼にはよくわからない。
けれど、目の前の少女が、それを心から望んでいることだけは分かった。
「……わかった」
剣理は、静かに頷いた。
「じゃあ、斬ってみようか」
シオンの瞳が、驚愕で見開かれた。
「……本当に?」
「うん。でも、怪我したらごめんね」
「……っ、ありがとう……!」
シオンは、まるで世界で一番美しいものを見つけたかのように、嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見ながら、剣理は少しだけ首をひねる。
どうして、この子はこんなに嬉しそうなのだろう。自分に斬られることが、そんなに喜ばしいことなのだろうか。
……まあ、本人が望んでいるのなら、いいのかもしれない。
剣理はそう結論づけ、この時点ではまだ知らなかった。
この少女との出会いが、自分の日常を、そして世界のあり方を少しずつ変えていくことになるのだということを。
*
昼休み。
神凪学園の第一演習場には、噂を聞きつけた数百人の生徒たちが詰めかけていた。
原因はもちろん、天音シオンである。
彼女が転入初日に永遠剣理へ「自分を斬ってほしい」と頼み込んだという情報は、瞬く間に学園中を駆け巡っていたのだ。
「おい、マジなのかよ!?」
「本当らしいぞ! 本人がクラスメイトの前で頼んだって!」
「いや無理だろ! 相手はあの【絶対不可侵】だぞ! 触れることすらできねぇよ!」
「でも、相手は永遠だぞ……?」
「ワンチャンあるかも……いや、あるのかよ!」
観客席が地鳴りのようなざわめきに包まれる。
円形舞台の中央。そこには静かに佇むシオンと、向かい合う剣理の姿があった。そして、その間には審判役を買って出た生徒会長・九条玲華が立っている。
「……本当にやるつもりなのね?」
玲華は、シオンを鋭く見据えて確認した。
「はい」
「相手は剣理よ。加減を間違えたら、あなたの異能がどうなるか……取り返しのつかないことになるかもしれないわ」
「大丈夫です」
シオンは揺るぎない笑みを浮かべた。
「私、ずっとこの日を待っていたんですから」
玲華は大きく息を吐き出すと、視線を剣理に移した。
「剣理。あなたも、あの子が何を望んでいるのか分かっているわね?」
「うん。斬ってほしいんだって」
「……そうね」
「だから、斬るよ」
「……本当に、あなたという人は……」
玲華は頭を押さえて天を仰いだ。だが、止めることはできない。シオン本人が強く望んでおり、剣理も引き受けた以上、彼女が割って入る理由はなかった。
玲華は覚悟を決め、審判の位置へと下がった。
「――そこまでよ。これより、天音シオンの異能検証を目的とした特別試合を開始する。危険と判断した場合、私の一存で即座に中断・介入するから覚悟しなさい」
シオンがこくりと頷く。剣理も小さく首肯した。
「では――試合、開始っ!」
*
剣理は、右手を開いた。
その掌から、淡い光とともに一本の刀身が滑り出る。
――【不屈の剣】。
絶対に折れない剣を一本だけ造り出す、彼の異能。
特別な魔力はない。炎も雷も纏わない。ただ「折れない」それだけの剣。
だが、剣理にとってはそれで十分すぎた。
「……じゃあ、いくね」
「はい」
シオンは両手をふわりと広げた。
彼女の全身を包むように、薄いオーラのような淡い光が浮かび上がる。
――異能【絶対不可侵】。
防御はすでに完了している。物理的な刃が彼女の皮膚に触れることはない。斬撃が届くこともない。そもそも「彼女を傷つける」という因果そのものが、この世界から拒絶される。それが彼女の絶対領域だった。
剣理は、一歩を踏み出した。
そして、ごく自然に、迷いなく剣を振るった。
たった一度の、ありふれた一振り。
刃がシオンの体躯へと向かう。
その瞬間――。
世界から音が消え、空間が音もなく「裂けた」。
シオンの周囲を何重にも守っていた絶対の光の膜が、まるで紙屑のように左右へと引き剥がされる。
防御の術式が、一刀のもとに断ち切られたのだ。
続いて。
彼女の制服の袖が、ほんの数ミリだけ綺麗に削ぎ落とされた。
さらに、肩口を流れていた白銀の髪が、数本だけはらりと宙を舞って床に落ちた。
それだけだった。
シオンの肌に傷はない。血の一滴すら流れていない。
だが――彼女の異能は、紛れもなく「斬られていた」。
「…………え?」
シオンは、呆然と自分の切れた袖を見つめた。
観客席が、完全に静まり返った。
息をする音すらない。あの九条玲華でさえ、目を見開いたまま言葉を失っていた。
剣理は、ゆっくりと剣を下ろした。
「……あれ?」
彼は不思議そうに首をかしげる。
「今のでよかったのかな」
「…………」
「もっと深く斬った方がよかった?」
「…………」
「天音?」
彼女は、ピクリとも動かなかった。
やがて、シオンの小さな唇が、微かに震え始めた。
「……斬れた」
それは、か細く、しかし世界で一番重い呟きだった。
ライセンスエラー等ではなく、正真正銘の事実として。
「私の異能が……斬られた……」
彼女はゆっくりと、自分の肩へと手を伸ばした。
指先が、自分の肌に触れる。
――触れている。
自分の体に、自分の手が、しっかりと届いている。
あまりにも当たり前のこと。けれど、彼女にとっては人生で初めて体験する奇跡だった。
今まで、彼女の異能はすべての干渉を拒絶し続けてきた。誰に触れられても、そこに「壁」があった。
それが今、剣理の一振りによって鮮やかに切り離されたのだ。彼女の絶対的な拒絶が、ほんの一瞬だけ、破られた。
そして――。
「……あ」
シオンの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。一筋の雫が、すっと頬を伝う。
「……あったかい」
彼女は自分の両手で、自分の頬を包み込んだ。
操られるような涙の感触。指先に伝わってくる、確かな肌の温度。
今まで何の意味も持たなかったはずの世界のすべてが、急に鮮やかで、圧倒的な実感を伴って彼女に押し寄せてきた。
「私……ちゃんと……」
声が震え、涙が止まらない。
「……触れられるんだ……!」
彼女は、泣きながら、笑った。
そのあまりにも切なく、美しい笑顔を見て、剣理は少しだけ困ったように眉を寄せた。
「……えっと」
どうしよう。女の子が泣いている。自分が斬ったからだろうか。でも、本人はものすごく嬉しそうにも見える。どう接すればいいのか、剣理にはさっぱり分からなかった。なにせ彼は他人に興味がない。人の心の機微なんて分からないのだ。
だから、彼は精一杯の優しさを込めて、こう尋ねた。
「……あの、痛かった?」
シオンは顔を上げた。
涙で濡れた青い瞳が、まっすぐに剣理を見つめる。
「ううん……」
彼女は首を激しく横に振った。
「全然、痛くなかったわ」
「そっか。よかった」
剣理は、心底ほっとしたように息をついた。
その無防備で穏やかな笑顔を見た瞬間、シオンの胸の奥底で、何かが致命的に弾けた。
自分を斬った少年。
誰もが絶対に不可能だと信じていた壁を、まるで野原の花を摘むかのように何でもない顔で成し遂げた少年。
そして、自分が泣いている理由すら分からず、ただ純粋に自分の体を心配してくれた少年。
そのすべての要素が、彼女の心を一瞬で奪い去っていた。
「……永遠くん」
「ん?」
「私、あなたが好き」
「…………え?」
瞬間、静まり返っていた演習場が、文字通り爆発したような大歓声(悲鳴)に包まれた。
「はああああああっ!?」
「今、告白したぞおい!!」
「待て待て待て! 転入初日の授業のノリで告白ってどういうことだ!?」
「嘘だろ!? あの天音シオンが!?」
観客席のパニックをよそに、九条玲華は自分の額に手を当ててうなだれた。
「……どうしてこの学園の女子は、こうも直球すぎるのよ……」
周囲の喧騒など、シオンの耳には一切届いていなかった。
彼女は剣理のすぐ目の前まで歩み寄ると、その両手で、彼の温かい右手をそっと包み込んだ。
「……ありがとう」
「……うん?」
「あなたが、私を斬ってくれたから」
彼女は愛おしそうに微笑んだ。
「私、初めて自分が『この世界に生きている』って実感できたの」
剣理は自分の手に触れているシオンヌの指先を見つめた。
手を握られている。ただそれだけの出来事。
けれど、なぜか今のシオンに触れていると、胸の奥がほんの少しだけ温かくなるような気がした。
「……そっか」
剣理は、珍しく柔らかく微笑んだ。
「よかったね」
その言葉を聞いた瞬間、シオンは再び泣きそうになった。
この人は、自分の偉業を誇ろうともしない。自分がどれほど常識外れの奇跡を起こしたのか、分かっているのかすら怪しい。
それでも、彼は確かに自分を救ってくれた。
シオンは彼の手を握る力に、そっと熱を込めた。
「ねえ、永遠くん」
「何?」
「これから、ずっと私と一緒にいてくれる?」
「……え?」
「私、あなたのこと……もっともっと知りたいの」
剣理は少しだけ考えた。
ずっと一緒。それは友達ということだろうか。それなら別に、断る理由もない。
「……いいよ」
「……本当?」
「うん」
シオンの顔が、パッと太陽のように輝いた。
「ありがとう……!」
彼女は感極まったように、そのまま剣理の腕にぎゅっと抱きついた。
――その光景を、観客席の一角から見つめていた人物がいた。
「……へえ」
そこに立っていたのは、生徒会長・九条玲華だった。
彼女は美しい笑みを浮かべていた。――ただし、その瞳の奥は、凍てつくように一切笑っていなかった。
「……剣理」
「ん?」
「ちょっと、こっちに来なさい」
「……何で?」
「いいから」
「……はい」
剣理が素直に従おうとすると、シオンはすっと彼の腕にしがみついたまま、玲華へと視線を向けた。そして、これ以上ないほど勝ち誇ったような、それでいて艶やかな笑みを浮かべる。
「九条さん。私、永遠くんと『特別なお友達』になることになりましたから」
「……そう」
「これから、彼の隣は私がいただきますね」
「……ええ、そう。せいぜい頑張ることね」
二人の美少女の間で、目に見えないバチバチとした火花が盛大に散り始めた。
――なお、当の剣理は「お昼ご飯は何にしようかな」と別のことを考えており、その修羅場にはまったく気づいていなかった。




