婚約破棄された令嬢ですが、幽霊より生者のほうが面倒です
幽霊というものを、私はあまり信じていない。
死者は静かだ。
本当に厄介なのは、たいてい生きている人間のほうである。
にもかかわらず、人は妙に幽霊を好む。
「まだそこにいる」と思いたがるからだろう。
愛情というのは不便だ。
無くなったあとまで、勝手に残り続ける。
「出るんです!」
侍女は半泣きだった。
「本当に、夜になると廊下を歩く音が……!」
私は紅茶を置いた。
最近のフェルナー邸は妙に騒がしい。
王子が死に、
母が死に、
ついでに宮廷魔術師まで半分ほど死にかけた。
屋敷としてかなり縁起が悪い。
「誰が?」
「奥様です!」
母だった。
なるほど。
死んでもなお迷惑らしい。
「夜中にドレスの裾が見えた者もおりますし、閉じたはずの部屋から声も……!」
「内容は?」
「“姿勢を正しなさい”と……」
私は少し黙った。
嫌なリアリティだった。
*
「つまり、母の幽霊騒ぎですか」
私は王宮図書館で言った。
ノアは本を閉じる。
顔色はまだ悪い。
死に損なった人間の色だった。
「ええ。最近、フェルナー邸の使用人が次々辞めているそうですね」
「死者より給料のほうを心配してほしいものです」
「現実的だ」
「幽霊よりは」
ノアが少し笑う。
最近、この男は前よりちゃんと笑うようになった。
少しだけ人間らしくなった気がする。
残念だ。
探偵役は、もう少し気味が悪いほうが面白い。
「で?」
私は脚を組む。
「あなたは、幽霊を信じるんですか」
「職業柄、“見た”と言う人間はよく見ます」
「便利ですね。死人は反論しませんから」
「あなたのお母上なら反論しそうですが」
確かに。
死後まで小言を言いそうな人だった。
私は少し考える。
そして嫌な予感がした。
「……母の私室、誰か入りました?」
「どうしてそう思うんです?」
「幽霊話は、だいたい隠し事の近くで増えるからです」
ノアが目を細めた。
図星らしい。
*
母の私室は、まだ死んだ日のままだった。
香水。
化粧台。
整いすぎた部屋。
几帳面な人間の部屋は、
時々、死体より冷たい。
「荒らされた形跡はありません」
ノアが言う。
「ええ。でも」
私は机を見る。
引き出し。
鍵穴。
微妙に傷がついている。
「誰かが開けようとした」
「中身は?」
私は鍵を回した。
古い帳簿。
手紙。
それから、一冊の日記。
珍しい。
母は記録魔だったが、
感情を書く人ではなかった。
私はページをめくる。
そこには、
妙に弱々しい字が並んでいた。
『ルークは優しい子だ』
弟の名だった。
『優しすぎる』
私は黙る。
ノアも何も言わない。
賢い。
沈黙というのは、
死者への礼儀としてかなり優秀だ。
さらにページをめくる。
『あの子は、壊れる』
『だから、先に嫌われておくべきだと思った』
部屋が静かになる。
最悪だった。
死人は時々、
死んでから急に人間らしくなる。
反則だと思う。
「あなたのお母上は」
ノアが口を開く。
「息子を守ろうとしていた?」
「たぶん」
私は本を閉じた。
気分が悪い。
理解できてしまったからだ。
母は弟を愛していた。
愛し方が致命的に下手だっただけで。
「では幽霊騒ぎは?」
「誰かがこの日記を探していた」
私は言う。
「母の本音が書いてあるから」
ノアが頷く。
「つまり、知られたくない人間がいる」
その時。
廊下で物音がした。
小さい音。
だが、
隠れる気配の音だった。
私は扉を開ける。
侍女だった。
若い。
震えている。
「あ……」
分かりやすい反応だ。
人は秘密を抱えると、
急に呼吸が下手になる。
「あなたね」
私が言うと、
侍女は泣きそうな顔になった。
「ち、違うんです……!」
「幽霊役をしていたのは」
沈黙。
そして彼女は崩れるみたいに座り込んだ。
「だって……!」
涙声だった。
「奥様が怖かったから……!」
なるほど。
「死んだあとくらい、怖がられていたほうが自然だと思った?」
彼女は頷く。
少しだけ笑ってしまった。
母らしい。
使用人にまで、
綺麗に恐れられている。
「でも日記を探していた理由は別ですね」
侍女が顔を上げる。
私はため息をついた。
「あなた、読んだでしょう」
『ルークは優しい子だ』
『壊れる』
「弟に見せたかったんですか」
侍女は泣きながら頷いた。
「あの方、ずっと自分は愛されてなかったって……!」
ああ。
本当に面倒だ。
家族というのは、
死んだあとまで誤解が長い。
「見せればよかったのに」
ノアが静かに言う。
侍女は首を振った。
「怖かったんです……! もし違ったらって……!」
人は時々、
真実そのものより、
“希望が間違っている可能性”を恐れる。
かなり弱い生き物だ。
でも、
嫌いではない。
私は日記を閉じた。
窓の外では雪が降っている。
世界は静かだった。
死者は喋らない。
だが、
残された人間は、
勝手に意味を探し続ける。
そのせいで時々、
幽霊より面倒になる。
「で」
ノアがこちらを見る。
「日記はどうします?」
私は少し考えた。
本当に少しだけ。
「弟に渡します」
「優しいですね」
「いいえ」
私は肩をすくめる。
「死人の後始末です」
ノアが笑った。
悔しいが、
最近この男は、
生きている顔をするようになった。




