婚約破棄された令嬢ですが、探偵役が死にそうなので帰れません
雪が降っていた。
嫌な空だと思った。
雪というのは、世界を綺麗に見せる。
汚れも、血も、死体も、
だいたい白く覆ってしまう。
人間によく似ている。
見えなくなっただけのものを、
無かったことにしたがる。
私は窓辺で紅茶を飲んでいた。
フェルナー邸は静かだった。
母が死んでから、
使用人たちは必要以上に足音を消すようになった。
死者が出る家では、
生者は急に礼儀正しくなる。
不思議なものだ。
「お嬢様」
侍女が一礼する。
「王宮より使者が」
「また誰か死にました?」
「……まだ、生きておられるそうです」
それは珍しい。
私はカップを置いた。
「誰?」
「ノア・ヴァレン様です」
私は少しだけ沈黙した。
少しだけ。
本当に少しだけ。
*
王宮の医務室は薬品臭かった。
生き延びようとする場所は、
たいてい匂いがきつい。
ノアは寝台に横たわっていた。
顔色が悪い。
唇も白い。
死にかけというのは、
案外すぐ分かる。
人間は壊れる前、
妙に静かになるから。
「思ったより元気そうですね」
私が言うと、
ノアは薄く笑った。
「期待に添えず申し訳ない」
声が掠れている。
本当に死にそうだった。
少し困る。
「毒です」
側にいた宮廷医師が言った。
最近この国、毒が流行りすぎではないだろうか。
流行には敏感だが、もう少し別のものを選んでほしい。
「昨夜、魔術塔で倒れているところを発見されました。致死量には届いていませんが、継続摂取されていた可能性があります」
「継続?」
私はノアを見た。
「恨まれているんですね」
「仕事柄」
「性格もでしょう」
ノアが笑った。
笑う体力は残っているらしい。
安心した。
少しだけ。
「犯人の目星は?」
医師は首を振った。
「王宮は現在、極めて混乱しています。王子殿下の件もまだ尾を引いている」
当然だ。
王子が死に、
公爵夫人が死に、
今度は宮廷魔術師。
国としてだいぶ縁起が悪い。
「それで」
私はノアへ視線を戻した。
「あなたは誰に殺されかけたんです?」
ノアはしばらく黙っていた。
嫌な沈黙だった。
この男が黙る時は、だいたい面倒な真実がある。
「……分からないんです」
「あなたが?」
「ええ」
珍しい。
探偵役というのは、大抵なんでも知っている顔をしたがる生き物だ。
それが今、本当に困っている。
私は少し考えた。
そして理解した。
ああ。
これは。
「あなた、自分で誰かを壊しましたね」
ノアが目を細めた。
図星だ。
「心当たりが多すぎる」
「最低ですね」
「仕事ですから」
便利な言葉だ。
人は責任を押し付けられるものを見つけると、急に罪悪感が薄くなる。
仕事。
愛。
家族。
正義。
そのへんは昔から、
大量に人を殺している。
「誰です?」
私は聞いた。
「あなたが壊したのは」
ノアは天井を見上げた。
雪明かりが白い。
死人みたいな色だった。
「昔、一人の男を告発しました」
「犯罪者?」
「いいえ。善人でした」
私は黙る。
善人は厄介だ。
壊れる時、
ちゃんと壊れるから。
「彼は地方領主で、民に慕われていた。ですが横領の疑いがあった」
「疑いだけ?」
「証拠は偽造でした」
私は目を細める。
「あなたは見抜けなかった」
「ええ」
珍しく、ノアは笑わなかった。
「結果的に彼は失脚し、自害しました。家族も離散した」
部屋が静かになる。
医務室というのは嫌いだ。
沈黙がよく響く。
「では犯人は遺族」
「たぶん」
ノアは言った。
「ですが妙なんです」
「何が?」
「毒を盛る機会がない」
私はため息をついた。
その台詞、最近よく聞く。
「飲食物は?」
「すべて検分済みです」
「では日用品」
「調べました」
「魔術」
「痕跡なし」
完全犯罪ごっこか。
趣味が悪い。
私は寝台の横へ歩いた。
机。
薬瓶。
書類。
そして、
一冊の古びた本。
『死者との対話について』
私はそれを手に取った。
「趣味が悪いですね」
「研究書です」
「死者は黙っているから好きです。生者より誠実でしょう?」
私はページをめくる。
そこで止まった。
栞。
挟まれていたのは、
古い新聞記事だった。
そこには、
失脚した領主の名。
そして家族写真。
娘がいた。
黒髪。
細い目。
……ああ。
私は本を閉じた。
最悪だ。
「ノア」
「なんでしょう」
「あなた、誰かに似ていますねって言われません?」
「よく」
でしょうね。
人は案外、
似たものを繰り返す。
「犯人、分かりました」
医師が息を呑む。
ノアは私を見た。
「誰です?」
私は少し考えた。
答えは簡単だった。
簡単すぎて、
少し気分が悪い。
「あなた自身です」
沈黙。
雪が窓を叩く音だけがする。
「正確には」
私は新聞を机に置いた。
「あなたを恨む“娘”は最初から存在しない」
ノアの瞳がわずかに揺れる。
初めて見た。
この男が、
本当に動揺する顔。
「領主には娘などいませんでした」
私は記事を指で叩く。
「いるのは息子だけ」
静かだった。
死体より静かだった。
「では、誰が」
医師が呟く。
私はノアを見る。
この男は、
ずっと死にたがっていたのだ。
たぶん、
自分で思っているより前から。
「あなた、自分で毒を飲んでいますね」
長い沈黙。
それから。
ノアは、
小さく笑った。
認めるみたいに。
「……驚きませんか」
「いいえ」
私は椅子へ腰掛けた。
「人は、自分が許せない時が一番きれいに壊れます」
ノアは目を閉じた。
疲れた顔だった。
探偵役にも、
終わりは来るらしい。
少し安心した。
少しだけ。
「死にたいんですか」
私が聞くと、
ノアはしばらく黙った。
それから静かに言う。
「分かりません」
誠実な答えだった。
だから余計に、
感じが悪い。
私は立ち上がった。
「帰ります」
「見舞いの言葉は?」
「ありません」
私は扉へ向かう。
そして、
少しだけ振り返った。
雪はまだ降っていた。
世界を白く隠しながら。
「でも」
ノアがこちらを見る。
私は肩をすくめた。
「死ぬなら、事件を解決してからにしてください」
「なぜ?」
私は少し考えた。
本当に少しだけ。
「あなたがいないと、説明役が消えるので」
ノアは笑った。
今度はちゃんと。
悔しいが、
少しだけ、
生き返ったみたいな顔だった。




