婚約破棄された令嬢ですが、殿下が死んだので帰れません
「リディア・フェルナー。お前との婚約を破棄する」
王城の舞踏会で、第一王子エドガーはそう言った。
拍手は起こらなかったが、沈黙は十分に拍手の代わりになった。
貴族というのは器用だ。
他人の不幸を見ても、上品な顔で紅茶の温度だけを気にしていられる。
私はグラスを置いた。
「理由を伺っても?」
王子の隣には、栗色の髪の少女がいた。
最近やたらと見かける、平民出身の聖女候補――セシル。
なるほど。
そういう筋書きか。
「君はセシルに嫌がらせをしていた。階段から突き落とし、教材を隠し、毒を盛ろうとした」
ずいぶん忙しい女だな、私は。
「それは大変ですね」
「否定しないのか!」
「しても、皆さまはお好きな結論を選ぶでしょう」
会場の視線が刺さる。
私は昔から、この瞬間が嫌いではなかった。
人間は、自分が正義の側に立っていると思い込んだ時、一番醜くなる。
美しいドレスより、そちらのほうがよほど見応えがある。
「……好きにしろ」
王子は苛立ったように言った。
たぶん彼は、泣き崩れる悪役令嬢を期待していたのだろう。
残念でした。
私は一礼した。
「では、失礼いたします」
その時だった。
背後で、何かが割れる音がした。
続いて、短い悲鳴。
振り返る。
王子エドガーが、床に倒れていた。
胸を押さえ、顔を歪めている。
その足元には、砕けたワイングラス。
赤い液体。
毒。
誰かが叫んだ。
誰かが走った。
誰かが「医者を!」と、たぶん意味のないことを叫んだ。
私はその場から動かなかった。
王子は数秒だけ苦しみ、それから静かになった。
死とは驚くほどあっけない。
特に、さっきまで偉そうだった人間ほど。
会場が凍りつく。
そして当然のように、全員が私を見た。
そうなると思った。
婚約破棄された直後。
毒殺された王子。
現場にいた悪役令嬢。
素晴らしい。
推理小説なら、あまりに露骨すぎて編集に怒られる。
「……リディア嬢」
声をかけたのは、王宮付きの魔術師、ノア・ヴァレンだった。
黒髪。
細い目。
いつも少し笑っているように見える男。
私は彼が嫌いだった。
探偵役というものは、大抵感じが悪い。
「あなたではありませんね」
「光栄です」
「ですが、犯人をご存じでしょう」
断定だった。
周囲がざわめく。
私はため息をついた。
「なぜそう思うのです?」
「あなたは今、一度も驚いていない」
鋭い。
でも、それだけだ。
「驚きましたよ。王子殿下がこんなに簡単に死ぬとは」
「それも本音でしょうが」
ノアは笑った。
本当に嫌な男だ。
「毒はグラスに仕込まれていた。しかし、給仕の経路に不審はない。となれば、犯人はこの会場の誰か。しかも王子が自ら警戒しない相手」
家族。
友人。
恋人。
あるいは。
「聖女候補」
私が言うと、セシルが息を呑んだ。
会場の空気が変わる。
彼女は震えていた。
怯えた小動物のように。
けれど私は知っていた。
小動物ほど、時にきれいに噛みつく。
「ち、違います!」
「では、聞きます。あなたは今朝、王子殿下と二人で会っていましたね」
「それは……」
「王子はあなたを選ぶつもりではなかった」
沈黙。
それが答えだった。
エドガーは愚かだったが、政治は理解していた。
公爵家の娘である私を切ることは、王位継承に傷をつける。
彼はセシルに夢中だったが、結婚する気はなかった。
だから舞踏会で私を断罪し、
“正義の王子”を演じたあと、
頃合いを見て私を戻すつもりだった。
ひどい男だ。
だが、そういう男は珍しくない。
「あなたは、自分が捨てられると知った」
セシルの目に涙が浮かぶ。
「違う……私は、ただ……」
「愛していた?」
残酷な質問だ。
だが真実は、たいてい残酷な形をしている。
彼女は泣きながら頷いた。
「……あの人は、私を選ぶって」
「選ばなかった」
私は言った。
「だから殺した」
長い沈黙。
そして彼女は、壊れたように笑った。
「あの人が悪いのよ」
誰も何も言わない。
「だって、期待させたじゃない! 優しくして、未来があるみたいに!」
涙と笑いは、案外よく似ている。
「私、信じたのに」
彼女は床に崩れ落ちた。
終わりだった。
あまりに普通の話。
呪いも陰謀もない。
ただ、ありふれた勘違いと、少しの毒。
人は恋で死ぬ。
比喩ではなく。
ノアが小さく息を吐いた。
「これであなたの疑いは晴れました」
「ええ」
私は頷く。
「ですが、一つ訂正を」
「何を?」
私は死んだ王子を見下ろした。
少しだけ、可哀想だと思った。
少しだけ。
「私は最初から、犯人を知っていたわけではありません」
「ほう」
「ただ」
私は笑った。
「殿下が誰かに殺されるなら、それは当然だと思っていただけです」
ノアは、初めてちゃんと笑った。
最低ですね、という顔だった。
同感だ。
窓の外では、夜が静かだった。
明日になれば新聞は騒ぎ、
社交界は新しい噂を食べる。
悪役令嬢は無実となり、
聖女候補は牢へ入り、
王子は美しい棺に入る。
世界はきちんと回る。
誰かが死んだくらいでは、驚くほど何も変わらない。
私は新しいグラスを取り、ワインを注いだ。
ぬるかった。
少しだけ、安心した。




