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ナズナはエイシェンの前に立つと、ジッと彼を見上げた。
カリナンの民は、山岳部族に比べると小柄で、ナズナは随分と首を持ち上げないと彼と目線が合わない。
恐々と言った様子でナズナを見返すエイシェンに、笑いかけ、手を取る。
「帰ろう、エイシェン」
風が強く吹いて、花の香りが鼻孔をくすぐる。エイシェンが、この里の為に、ナズナの母の為にと咲かせた花々の香りだ。
エイシェンはナズナの言葉に目を見開いたまま動かない。微かに唇を震わせたけれど、何も発しない。発せないでいた。
帰る。どこへ?
そう訊きたいのに、明確な答えを聞いてしまうのが怖いとも思う。
手を取って、まるで共にエイシェンの家に行こうとしているように思えるのは、ただの勘違いだろうか。
「帰ろう」
それがナズナの精一杯だった。
今の彼女の語彙力では、先ほどレンリと話した内容を詳しくエイシェンに説明するのは無理だ。
端的に、エイシェンと共にまた山岳部族の、あの集落へ帰りたいのだと伝えるにはこれしか思い浮かばなかった。
カリナンを襲った賊を殲滅し、首謀者を探し出して復讐するレンリを一人にするのは心配だが、戦う力が無いナズナがついて行っても足手まといになるのは目に見えている。
生き残った他の皆はここから離れた隣町に身を寄せているらしい。
そこに行く事も考えた。いや、そうしようと思っていた。
レンリにナズナの本心を言い当てられるまで。
「あの男の人が好きなんでしょう?」
自覚はとっくにしていた。だけど認めたくなかった事実を、さっき再会したばかりの少女に見破られてしまった。
エイシェンを好きになったって、ずっと一緒に生きていく事なんて出来ないと思っていたから。
「カリナンはもう、集落として機能するさせるのは無理だ。人が、死に過ぎた。ここは始まりの地にしよう。残った皆が新たな生を歩むための。センランでも、他の街でもいい。西国だっていい。カリナンの血を絶やさないように」
他民族の中に混じって生きろと。
ナズナは、エイシェンと共にいていいのだとレンリは言う。
その可能性を、ナズナはほんの少しも信じはしなかったのに。そうなったならと夢想するかのように思いを馳せた事は幾度もあるけれど。
本当に良いの? 目で問うと、レンリは笑いながら頷いた。
「長の娘が言うんだから、疑わないでよ」
カリナンは、これまで長きにわたって血が薄まらないようにと他と隔絶したこの森の中で隠れ潜んで生活してきた。
そういうものなのだと、疑いもなく物心ついたころからインプットされていたナズナは思いつきもしない考えだものだから、如何なる状況においても村に戻らなければと、生き残った者達でこれから生きて行かなければと、それ以外の道を選んではいけないと、誰に言われたわけでもなく信じ込んでいた。
けれどレンリの言う通り、状況が変わった。血が流れ過ぎた。小さな集落だったカリナンの大半が命を落とした。特に男はほとんどいない。
生き残ったのは、賊から逃れた女達だろう。
「今皆はセンランの町にるけど落ち着いたらそれぞれ好きにしていいって伝えてある。だけど私は、誰かにここを守って欲しいとも思う。きちんと弔ってあげて欲しいし。けどそれは、ここに縛り付けようっていうんじゃない。山の上からでもここに来られる道があるんでしょ?」
なら、そこから、たまにここに墓参りに来てくれたらいいと、レンリは笑って言った。
突然提示された未来を、ナズナはすぐに飲み込めなかった。
ポカンとするナズナを見て、レンリは苦笑する。
「あのお兄さんも、ナズナ姉と離れるのは嫌なんじゃないかな」
少し離れた所で見守るエイシェンを一瞥する。
初めて会ったばかりのレンリに彼の感情の機微を正確に読み取る事は出来ないが、ナズナを見つめるその表情に憐憫と寂寥が映し出されているような気がした。
「帰る場所を間違えないで。ナズナ姉が隣に居たいと思う人を見過ごさないで」
そう言われたらもう、有り得ないと消したはずの選択肢からもう目を逸らす事は出来ない。
黙り込んだエイシェンを見つめていても、ちゃんとナズナが言わんとした意図が伝わったのか、エイシェンの反応を見ているだけでは分からない。
だから、今度は空いた方の手を持ち上げて、指差す。山の方を。
「一緒に……?」
そう呟いたのはエイシェンだった。信じられないと彼の瞳が語っていた。何時だって言葉以上に彼の感情をナズナに教えてくれる美しい瑠璃色が。
エイシェンが驚くのは無理もない。
あんなにも里に帰るのだと喚いていたくせに、カリナンに戻って来た途端、今度はエイシェンと居ると言い出したのだ。
舌の根も乾かぬうちにあっさりと自身の想いを覆したナズナに呆れただろうか。勝手ばかり言って愛想がつきただろうか。
エイシェンが何も言わないから、ナズナはどんどんと不安になって来る。
もしかして、ナズナがエイシェンと共に居たいと思うのは迷惑だろうか。
「エイシェ――」
拒絶される恐ろしさに耐え兼ねて、ナズナが口を開いたのとほぼ同時に、腕を引かれた。
「ああ、帰ろう。俺と」
転げるようにエイシェンの胸に飛び込んだナズナを、彼は難なく受け止めると、強く強く抱きしめた。
もう、ナズナが何を言おうとも逃がす気はないと語っているかのようだった。
どのくらい経ってからか、エイシェンは僅かにナズナを閉じ込めていた腕の力を緩めた。
そしてそっと彼女に額を寄せ、自然に、それが当然であるように口づける。
ナズナもまた、彼からの口付けを拒むことなく受け入れた。
何度となくお互いの唇を感じてから漸く少しだけ顔を離して、それでも至近距離で見つめ合う。
もうどちらからも、「どうして」という問いは発せられなかった。
ナズナにもエイシェンにも迷いは無い。
自分の気持ちを見せる事を恐れないし、相手の心の在処が分からず怯える事もない。
エイシェンは何かを思いついたように表情を変え、ナズナから離れた。
荒れはてた村に彼が植えた花々の中から一輪を手折ると、ナズナの髪に差し入れた。
黄色の可愛らしい花だった。
「ナズナ。――――」
名を呼ばれ、ナズナが未だ理解出来ない事を彼は言った。
なんと言ったのかは分からない。だけど、エイシェンがどういった意味の事を言ったのかは理解出来た。
分かってしまった。だって、瑠璃色の美しい瞳が、何よりもエイシェンの想いを雄弁に語っていたから。
そして、ナズナは思い出していた。
一輪の花を差し出される、その意味を。
『この集落には告白の際に花を渡すのが伝統なんだそうです。まず自分が相手の特徴となる色の花を身に付けるのは「私はあなたに染まるくらい好きです」という意味で、真っ白な花を渡すのは「誰にも染まっていないあなたの心を私に染めて下さい」みたいな意味だったかなぁ』
『それで、受け取ってもらえたら交際の了承。今度は白い花を受け取った方から同じように相手の色の花を贈ると、それは結婚の申し込みらしいです』
以前、ナズナはエイシェンに白い花を渡していた。
その時にはあの集落の伝統なんてナズナは知らなかったし、殆どヤナに嵌められたようなものだったが、事実としてナズナはエイシェンに染まってしまうくらいに想っている。
そして白い花を受け取ったエイシェンから、今度は黄色の花を手渡された。
ナズナの茶金の髪に近い色の花を。
愛しいと、隠そうともせずに真っ直ぐに伝えてくる瑠璃色の瞳から、どうして視線を逸らす事が出来るだろう。
エイシェンが先程言った言葉がちゃんと聞き取れなかったのが悔しくてたまらない。彼はきっと、結婚しようとそのような事を言ってくれたに違いないのだ。
だけどナズナはすぐに考えを切り替えた。
エイシェンの集落の言葉をちゃんと覚えよう。そしてもう一度言ってもらおう。
先になってもいい。だってこれからずっと二人は一緒にいるのだから。時間はたっぷりある。
ナズナは震える手で髪に差し入れられた花にそっと触れ、感極まって涙が溢れそうになったまま、エイシェンを見つめながらゆっくりと頷いた。
そして今度はナズナからエイシェンの首に抱き着き、背を伸ばして口づけた。
***
「ナズナ!」
低い、よく通る声に振り返ったナズナの視界の中に、どこか慌てた様子で駆け寄ってくるエイシェンの姿があった。
立ち上がり、服に付着した土を払いのけながら彼を待つ。
呑気に自分を待つナズナに、エイシェンはムッと顔を顰めた。彼の不機嫌の理由を察したナズナは、悪戯っ子のように笑う。
「ごめんね」
そして先に謝ってしまう。そうすればエイシェンは怒る事は出来ない。
だけど苦言は呈した。
「危ないから、山を下りる時は俺と一緒にって言ってるのに」
「頼まれてた薬の材料が無いの気付いて」
ナズナがエイシェンに見せた薬草は、山岳の集落付近では生息していないものだった。
近所の子供が、一体どこで何を口にしたのか、食あたりを起こしてしまってとても辛そうだった。母親に頼まれて薬を作ろうとしたのだが、材料が足りなかったのだ。
早く楽にしてあげたい。そう思って山を下りた。エイシェンは狩りで不在にしていた。
ナズナはくるりと周囲を見渡した。
風が木々の葉を揺らす音しか聞こえない、静かな森の中だ。あまり危険を感じはしないが、本当はそうじゃないとナズナも知っている。
ここは、ナズナとエイシェンが初めて出会った場所だった。
そういえば、狼の群れに襲われ傷ついたエイシェンを手当てしたあの時も、同じ薬草を取りにここまで来ていたのだったと思い出す。
エイシェンが心配するのも当然だろう。
あれから、季節が廻った。
アロン達の商隊がまた集落を訪れて、ナズナがエイシェンの傍らにいると知った時、彼は大笑いして嬉しそうにエイシェンの肩を何度も叩いたのだった。
ナズナは一生懸命言葉を覚えて、そしてヤナとラデクが恋人同士ではなく夫婦なのだという事実を知った。
他にも多くの事を知った。エイシャンの事も、たくさん。
でも言葉を理解していない内から分かっていた事も、ある。どれだけエイシャンがナズナを大事に思ってくれているかとか。
どれだけナズナがエイシェンを好きかとか。
彼女はカリナンの事をエイシェンにもその多くを語らなかった。エイシェンもまたナズナに根掘り葉掘り尋ねる事をしなかった。
それはエイシェンがナズナと共に在るのに、決して重要で必要なものではなかったからだ。
たまに語る、ナズナの両親や友人の他愛ない話から、彼女がどれだけ里の皆の事が好きだったのか、その思い出が大切なものなのか分ったらそれで良いと思った。
「もう、薬草摘みは終わった?」
「そうだね。これだけあれば暫くもつかな」
「じゃあ帰ろう」
エイシェンの差し出す手を、ナズナは迷いなく握る。強く握り返される事に戸惑いもない。
かつてエイシェンと出会って、すぐに別れた場所。
だけどもう、ナズナの帰る場所は以前とは違っていた。
少し顔を上げてエイシェンを見る。すると彼もナズナを見返して、美しい瑠璃色を穏やかに細めた。
「ナズナ」
エイシェンは歩きながら、空いた方の手で器用にナズナの髪に一輪の花を挿し入れた。
彼の髪と同じ色のものを。
ナズナは驚いてぱちくりと目を瞬かせた。
一体いつの間に摘んでいたのか。
惜しげなく伝えてくれるその気持ちに、ナズナは擽ったそうに笑って、エイシェンにそっと身を寄せた。
東西の国を分断するように大陸の中心に聳える連峰の東の麓は深い森に覆われている。
その森のどこかに、かつてカリナンという村があった。
賊の襲撃により壊滅させられた村は放棄され、将来に渡ってそこに村が再興される事は無かった。
生き残った村人達は、その素性を隠したまま各地にちりじりに別れ、細々とだがカリナンの血を絶やす事無く後世へ繋げる事にしたのだ。
一度は荒れ果てたカリナンの地は、時間を掛けてその姿を変えて行った。
一面を覆うのは色とりどりの花は命を落とした者達を弔うように力強く咲き誇っており、かつての凄惨さは知らぬ者が見れば全く想像出来ない程に美しい地に様変わりしていた。
「この地を守って欲しい」
そんな一人の少女の願いを、一組の夫婦は生涯に渡って叶え続けたのだった。
恐ろしく時間が掛かってしまいました。
元々レンリが主人公の話を考えていて、ナズナはその中で名前もない端役でした。何気なく番外編のような気持ちで考えた話だったので、敢えてキャラについて、世界観について深く掘り下げる事はしていません。それをするととんでもなく長くなるので…
二人の恋愛模様だけに焦点を当てて、出来るだけ簡潔に!を目指したつもりがこの体たらく。
兎にも角にも完結致しました。
未だ読んで下さる方がいるかは分りませんが…、ありがとうございました。