第108話 今日の獲物は、川の底
木の竜は、朝になっても同じ顔で眠っていた。
低い切り株へ置いてもらってから、一晩が過ぎている。俺は屋根の下で首を起こし、畳まれた小さな翼を眺めた。横になっている間は見えなかった腹の線まで、丁寧に削ってある。
見ているうちに、俺の腹が鳴った。
ちょうど道具袋を運んできたトーヴェンが足を止め、口元を緩める。
「そいつを見ていても、腹は膨れんぞ。今朝はまだ出ていなかったんだな」
『ああ。目を開けたら見える場所に置いてくれと言ったのは俺だが、つい眺めていた』
「作った方には、嬉しい話だな。こっちはリュストと屋根の仕事をしている。出かけるなら、戻ってから見てくれ」
『昼を過ぎるまでには帰るつもりだ。東の川の方で、何か探してくる』
トーヴェンが頷き、家々の方へ歩いていった。
俺も寝床を離れ、空き地の外へ出る。屋根の支柱を尾で払わないよう、一度首を回してから身体を起こした。
家が出来て、人が増えた。以前のように、思い立った場所で翼を広げるわけにはいかない。草地の先まで歩いて地面を蹴ると、背後から木槌の音が聞こえ始めた。
◇
朝の川には、白い靄が残っていた。
森の上から水面へ目を向けると、曲がり角ごとに色が違う。浅い場所は石まで透け、崖の陰では底の見えない濃い緑になっている。
鹿を探すつもりで来たのだが、その深い淵のそばに、見覚えのある翼があった。
片方の端が欠けている。
ガルは水際の岩に立ち、首を低くして川を覗いていた。俺の影が水へ掛かると顔を上げたが、すぐには飛ばず、短く鳴いてこちらを見ている。
『ガル、今日は魚を探しているのか。俺も朝飯がまだなんだ』
声とともに親しみを送ると、落ち着いた感覚が返った。俺は淵から少し離れた河原へ降り、翼の風が収まってから近づいた。
ガルは俺を確かめ、また水面へ首を向けた。
その視線の先で、小さな波紋が幾つも重なっている。岩の下から魚が出てきたらしく、銀色の腹が一瞬だけ見えた。
俺も前脚を水へ入れたが、魚は触れるより先に散った。
爪の周りで水が跳ね、浅いところにいたものまで石の陰へ隠れていく。前脚を止めたまま見ていると、隣の岩からガルが首を伸ばし、別の魚をくわえ上げた。
口の横で、尾が二度ほど跳ねた。
『俺が魚を追い出して、お前が食っているように見えるな』
ガルは返事の代わりに魚を飲み込んだ。
俺の方へ向けた感覚には、気まずさなど少しもなかった。それが可笑しくて、川の中から前脚を抜き、岸の石へ置き直した。
しばらく動かずに待ってみる。
目の前の浅瀬へ魚が戻りかけたとき、淵の奥で、水が大きく揺れた。
魚の群れが、一斉に下流へ走った。
ガルの首が上がる。さっきまでの食事の気分に、鋭い警戒が混じった。
俺も水の底へ目を凝らした。
沈んだ木だと思っていたものの端が、緑色の水の下でゆっくり曲がった。石のそばを長いものが通り、広い頭がこちらへ向く。
俺は川から半歩下がり、ガルとの間を空けた。
『小さい魚を追っていたのは、俺たちだけじゃないらしい』
水面に、二本の長い髭が現れた。
◇
鯰に似ていた。
ただし、川で釣れる大きさではない。水が透ける浅い場所へ頭が出るだけで、俺の前脚を二本並べたほどの幅がある。口の縁には短い牙が並び、背中の隆起が水面を割って続いていた。
人間なら六、七歩で歩けそうな長さの、太い胴が続いていた。
岩の真下で水が膨らみ、ガルが足場を蹴った。翼を広げて上へ逃れるのと、大魚が水面へ口を突き上げるのは、ほとんど同時だった。
岩の縁で、顎が硬い音を立てた。
水飛沫の向こうから、ガルの苛立ちが伝わってきた。傷はないようで、欠けた翼も力強く風を打っている。
大魚は、その影を追って身体を捻った。
尾に押された水が岸まで打ち寄せ、俺の足元の砂をさらう。さっきまで潜んでいた場所から出てきたせいで、胴の横に並ぶ硬い突起まで見えるようになった。
狙っているのは、ガルの脚だった。
水面近くを飛ぶ獲物が、逃げるために高度を上げる。届かなくなれば淵へ戻り、また待つ。そうやって、この川で食べてきたのだろう。
ガルが大きく回り込むと、大魚も頭の向きを変えた。
俺は水際の石へ前脚を掛けた。
ここで炎を吐けば、食べる前に焦がしてしまう。川へ飛び込んで追い回すより、浅い方へ出てきた身体を押さえる方が早かった。
『俺もそいつを狙う。近くへ降りるなら、俺の尾には気をつけてくれ』
言葉の細かなところまで通じるわけではない。だが、俺があの魚へ向けた食欲と、動こうとする意思には、ガルも気づいたらしい。
こちらへ一度顔を向けると、川の上流側へ回った。
俺が指示したのではなかった。
ガルは大魚の頭から距離を取り、翼を広げたまま水面すれすれを滑る。牙の並ぶ口がその後ろ脚へ向き、濃い緑の水から、さらに胴が現れた。
俺はそこへ踏み込んだ。
前脚の下で水が弾け、大魚の背へ爪が掛かった。硬い突起を避けて肩から体重を載せると、魚の身体が横へ捩れる。
振られた尾が、俺の脇腹へ当たった。
重い音はしたが、厚くなった鱗が裂けることはなかった。押さえていた脚も浮かない。俺は後ろ脚を踏ん張り、河原の方へ身体を引いた。
石が水底を擦り、濁りが広がる。
ガルはもう頭上へ上がっていた。大魚が口を開いても届かないところから回り、逃げようとする尾側へ降りる。
脚の爪が、太い胴を捉えた。
俺たちが同時に力を掛けると、大魚の腹が浅瀬へ乗り上げた。鱗のない皮が光を受け、口から水と小さな魚が吐き出される。
尾が跳ねる前に、俺は岸へ引きずり上げた。
水のない場所でも、胴が大きくうねった。俺は頭の後ろを押さえ直し、頭のすぐ後ろへ牙を掛けた。
抵抗が弱まるまで離さず、ようやく口を開けたときには、川の音が戻っていた。
ガルも爪を抜き、濡れた脚を岩へ置いた。
俺は口元の水を振り払い、大魚を見下ろした。
『魚を食うつもりで、朝からずいぶん濡れたな』
ガルは首を下げ、もう獲物へ口を寄せていた。
俺も笑って、尾の方へ回った。
◇
頭を取ろうとして揉めることはなかった。
ガルが先に食べ始めた場所を避け、俺は尾側を押さえて肉を裂いた。皮は厚かったが、その下の身は白く、川の魚らしい匂いがした。
ひと口食べてから切れたところを見ると、白い身の間にも脂が光っていた。
鹿の肉とは違い、噛むと柔らかくほどけていく。腹が減っていたせいもあるだろうが、口を離すのが惜しくなった。
向こう側で、ガルが喉を鳴らした。
頭の周りから肉を取るのに忙しく、こちらへ口を出す様子はない。俺も自分の前に残っている分へ首を下げた。
大きな骨が出てきたところで、ドラゴニアで火を起こすイーゼの姿を思い浮かべた。
――こんな魚なら、人間も煮て食べられそうだ。
俺は尾の近くに残っていた肉を噛み分け、血や泥のついていない平たい岩へ置いた。皆に食べてもらう分としては、それでも十分に大きい。
残りを食べてから川で口を洗い、ガルへ顔を向ける。
『俺は、これを持って帰る。お前がいなかったら、小さい魚を逃がして終わっていたかもしれないな』
こちらを見たガルから、満ち足りた感覚が返った。
腹が膨れたのは俺も同じだった。肩や脇へ付いた砂を水で落とし、持ち帰る肉をくわえる。
ガルは残った頭側へ脚を掛け、まだ食べていた。
食事中の相手を呼び立てるつもりはなかった。俺が広い河原から飛び立つと、彼は一度だけ首を上げ、それから獲物へ戻っていく。
今日は、こちらへついてこなかった。
俺も速度を落として待ったりせず、森の上へ出た。
◇
ドラゴニアへ戻ると、トーヴェンとリュストは家の脇で板を合わせていた。
俺は空き地の外へ降り、食べ物を扱う場所から少し離れた石の上へ肉を置いた。二人が気づいてこちらを見るまで、翼を畳んで待つ。
「魚を持って帰ったのか。川で捕れたにしては、大きいな」
リュストが刃物を鞘へ戻し、近づいてきた。
『東の淵にいた。ガルと一緒に捕ったんだ。俺たちは先に食べてきたが、これなら皆にも持って帰れそうだったから』
「これで、一匹分じゃないんだな」
『尾の方に残っていた肉だ。頭は、ガルが食っていた』
トーヴェンが自分の腕を広げ、石の上の肉と見比べた。
「木で作るには、尾だけでずいぶん材料がいる魚らしい。腹をすかせた竜が二頭いて、それでも残ったのか」
『俺も、最初は沈んだ木だと思ったよ。魚の方は、ガルを食おうとしたんだがな』
俺が答えると、二人は揃って川のある方を見た。
そのあとリュストがイーゼへ声を掛け、彼女も桶を持ってやってきた。白い身を確かめると、まず大きさに笑い、それから、すぐ使う分を切り分けるために家へ戻っていく。
俺は肉の載った石へ、もう一度目を向けた。
『皆で食べるには、多すぎるようなら言ってくれ。あとで俺が食べる分にしてもいい』
「このままでは鍋に入らんが、食べ切れないほどじゃないよ。皆で分けて、脂の多いところは焼いてみよう。脂があるから、火へ落としすぎないようにしないとね」
戻ってきたイーゼが、刃物を持った手で火の方を示した。
昼の支度には、まだ間に合ったらしい。
リュストが板を運び、トーヴェンは魚の骨が残っていないか確かめながら肉を分け始めた。俺は作業する人間へ影を落とさない場所へ伏せた。
待っているうちに、腹の底が温かくなってきた。
さっき十分に食べたはずなのに、鍋から匂いが上がると、つい鼻先を向けてしまう。
焼く方へ取り分けられた白い身が、熱い石の上で音を立てた。
◇
人間たちの昼飯には、魚の入った汁と、焼いた切り身が並んだ。
俺の前にも、小さな板が一枚置かれた。載っているのは、ひと口でなくなるほどの焼き魚だったが、わざわざ骨を抜いてくれている。
「持ってきた本人も、味を見ておくれ。川で食べたのとは違うだろうから」
イーゼに言われ、俺は板から魚を受け取った。
焼けた面には香ばしさがあり、身の奥には温かい汁が残っていた。塩は少しだったが、脂の味がはっきり分かる。
『生で食べた時も旨かったが、焼くと、また違うな。ガルにも食わせてみたくなる』
「次に来たとき、魚があったら焼いてみようか。今から呼びに行っていると、こっちが食べ終わってしまうよ」
『今日はあいつも腹いっぱいだろう。頭の方まで、ずっと食っていたからな』
俺が答えると、近くで聞いていたリュストが笑った。
家の戸口では、その子が椀の中の魚を匙で追っている。身が崩れて掬いにくいらしく、母親に手を添えてもらっていた。
トーヴェンは自分の分を食べながら、まだ魚の大きさが気になっているようだった。
「明日、ルーエで息子に話したら、本物を見たかったと言うだろうな。口の大きさを聞かれるのは、もう分かる」
『俺の前脚を並べたくらいはあった。それより、小さな魚が逃げた話をしてやってくれ。爪を入れた途端に、一匹残らず逃げたんだ』
「そんな話をしたら、お前に釣りを教えに行くと言い出すぞ」
『それなら、竿はかなり丈夫に作ってもらわないとな』
彼は俺の爪を見てから、匙を口へ運んだ。笑いながら食べるので、隣のリュストに、飲み込んでからにしろと言われている。
俺はもう一度、板に残った魚の匂いを確かめた。
自分の朝飯を探しに行っただけだった。それが、人間たちの鍋へ入り、トーヴェンが息子へ持ち帰る話にもなった。
川ではガルが、まだ残った骨のそばで休んでいるかもしれない。
俺も少し眠ろうと屋根の方へ戻り、切り株の上の小さな竜を見つけた。
そいつは、出かける前と同じ顔をしていた。
『お前は朝飯もいらないし、魚にも逃げられないんだな』
人に聞かれる前に口を閉じ、俺は隣へ首を下ろした。焼いた魚の匂いが、まだ鼻先に残っていた。




