第8話 十年分の記憶は裏切らない
十年分の記憶は裏切らない。それだけが、今のわたしの武器だった。
水曜日。中央市場の泉のそばで、ノルベルトを待つ。
約束の時刻ぴったりに、藍色の外套が人混みの中に見えた。
この人は本当に時間に正確だ。
「お待たせしました」
「いいえ、わたしも今来たところです」
ベンチに並んで座る。
市場の喧騒が、会話の盾になってくれる。
「まず、これを見てください」
匿名の手紙を渡した。
ノルベルトが手紙を読む。
その表情が、かすかに変わった。怒りでも驚きでもない。確信に近い何かだ。
「この手紙の筆跡に、心当たりは」
「ありません。ただ——」
手紙をもう一度見つめた。
走り書きだが、文字の癖がある。
「宮廷の人間だと思います。公文書に慣れた筆跡です。それと、インクが宮廷で使われている公用のものに似ている」
「どうしてわかるのですか」
「十年間、毎日公文書を書いていましたから。インクの色味と粘度は身体が覚えています」
「……さすがですね」
褒められた。
単純に嬉しいと思ってしまう自分がいる。場違いだとわかっていても。
「ゲオルク氏の死因については、わたしも疑問を持っていました」
ノルベルトが声を落とす。
「検死記録を確認したところ、死因は心臓発作とされています」
「それなら、自然死では——」
「ゲオルク氏は定期的な健康診断で、心臓に問題がないと診断されていました。半年前の記録です」
「半年前に問題なしだった人が、突然心臓発作で?」
「不自然です。ただし、現時点では推測に過ぎません。証拠が必要です」
証拠。
いつもそこに戻る。
「それともうひとつ、報告があります」
アーデルハイトから受け取る予定の薬務室の資料のこと、ベアーテという文具店の店主のこと、そしてゲオルク爺さんが本に挟んでいた手紙——もうひとつの鍵の話を、ノルベルトに伝えた。
もうひとつの鍵の話を聞いたとき、ノルベルトの目が光った。
「保管室の棚の裏の鍵。それが何を開けるか——イルメラさんには心当たりがありますか」
「ゲオルク爺さんは、わたしならわかると書いていました。でも今は思い当たりません」
「保管室に行って確認する必要がありますね」
「わたしは停職中で宮廷に入れません」
「そこは、わたしが行きます。監査局員は保管室へのアクセス権限がありますから」
「でも、あなたが不審な動きをしたら、レンツ局長に——」
「心配には及びません。監査官が保管室を調べるのは通常業務の範囲です」
ノルベルトの口調は淡々としていたが、その目には決意があった。
「アーデルハイト・コッホ薬務官のことですが」
「ご存知なんですか」
「ええ。以前、監査局に薬務室の窮状を訴え出たことがある方です。残念ながら、そのときは証拠が不足していて動けなかった」
「今度は違いますね」
「ええ。あなたの記録と、ゲオルク氏の副本と、アーデルハイト氏の資料。三方向から証拠を揃えれば——」
「崩せますか」
「崩せます」
ノルベルトの声に、静かな確信があった。
泉の水音が、二人の間に流れる。
しばらく黙って座っていた。
「ノルベルトさん」
「はい」
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「なぜ監査官になったんですか。宮廷で嫌われる仕事を、わざわざ」
ノルベルトが少し間を置いた。
「……わたしの父は、地方の小さな役所の役人でした」
「役人」
「真面目に働いて、規定どおりに仕事をして、それでも上からの圧力で不正に加担させられた。最後は責任をすべて押しつけられて、職を追われました」
わたしは息を呑んだ。
「お父様は——」
「今は田舎で静かに暮らしています。でも、あの人の背中がだんだん小さくなっていくのを見て——わたしは決めたんです。不正を見つけて、正す側の人間になると」
だからこの人は、わたしの十年間を「搾取」と言い切れたのだ。
父親の姿を、重ねていたのかもしれない。
「……お父様に、似ていますか。わたしの状況」
「似ています。だから——」
ノルベルトが言葉を切った。
何かを言いかけて、呑み込んだように見えた。
「だから?」
「……だから、今度は間に合わせます」
その言葉の温度に、胸が痛くなった。
間に合わなかった記憶を抱えている人の言葉だ。
「ノルベルトさん」
「はい」
「間に合いますよ。だって、もう動き始めているんですから」
ノルベルトが、ほんの少し口角を上げた。
笑顔と呼ぶには控えめすぎるが、この人なりの微笑みだ。
「定時退勤を始めてよかったです」
「わたしもそう思います」
その言葉の意味を深読みしてはいけない。
してはいけないのに、心臓が一拍だけ速くなった。
帰り道、市場で焼きたてのパンを買った。
こんな些細なことが、こんなにも幸せだとは知らなかった。
宿舎に戻り、パンを齧りながら、今日の会話を整理する。
ノルベルトの父親のこと。
不正に加担させられ、責任を押しつけられた地方の役人。
わたしの十年間と、ノルベルトの父の経験は、鏡のように似ている。
だからあの人は、わたしの話を聞いたとき、あれほど静かに怒っていたのだ。
「今度は間に合わせます」——あの言葉の重さが、今さらのように胸に迫る。
パンの残りを包んで、明日の分にとっておく。
停職中の身には、一枚銅貨も惜しい。
貯蓄はあると言ったが、正直なところ、長くは持たない。
十年間の給与は、宿舎費と最低限の食費を引けば、残りはわずかだった。
平民出身の事務官は、同じ仕事をしている貴族出身の事務官より、二割も低い給与体系だ。
それも「慣例」のひとつ。
気を紛らわせるために、ベアーテの店で買った上質の紙を取り出した。
記録の再現作業の続きを、自宅でもやっておこう。
ペンを走らせていると、あることに気づいた。
三年前の秋。
宮廷財務長官が交代した時期と、予算構造が大きく変わった時期が、ぴったり一致している。
旧財務長官は退任後、すぐに領地に隠棲したと聞いている。
引き継ぎもろくにせず、突然の退任だったそうだ。
突然の退任。それは、自発的なものだったのだろうか。
ノルベルトに伝えよう。新たな手がかりになるかもしれない。
ペンを置いて、伸びをする。
窓の外はすっかり暗くなっていた。
翌日の午前中、アーデルハイトが宿舎を訪ねてきた。
「イルメラさん、薬務室の資料を持ってきたわ。照合しましょう」
「ありがとうございます。入ってください」
二人で机に向かい、資料を突き合わせる。
「ここ、見て。三年前の秋に薬務室の予算が一括で削られてるわ。理由は『在庫過剰による調整』」
「在庫過剰?」
「とんでもない。むしろ在庫不足で困ってた時期よ。解熱剤も鎮痛薬も足りなくて、患者さんに我慢してもらうしかなかった」
「つまり、理由が捏造されている」
「ええ。でも当時は、財務長官の決定に逆らえなかったの。予算を握ってるのは向こうだから」
わたしの業務記録と照合すると、さらに見えてくるものがある。
「アーデルハイトさん。この薬務室の予算削減と同じ月に、事務局で大量の時間外業務が発生しています。わたしひとりに集中して」
「繋がってる……?」
「予算を削るたびに、そのしわ寄せがどこかの部署の人員に行く。人が足りなくなった部署の仕事を、わたしのような『何でもやる人間』が引き受けさせられる。そういう構造です」
「酷い話ね」
「酷いけど、合理的です。少数の人間に過剰な負荷をかけることで、多くの部署の予算を削れる。削った分は——」
「上層部の懐に」
「ええ」
アーデルハイトが、書類を握る手に力を込めた。
「イルメラさん。これ、絶対に許しちゃいけないわ」
「許しません。そのためにも、この資料は大切に保管させてください」
「もちろん。コピーも作ってあるから、安心して」
さすが薬務官だ。証拠の扱いが丁寧である。
アーデルハイトが帰ったあと、ひとりで資料を見返す。
点と点が、少しずつ線になっていく。
——しかし、その夜届いた二通目の匿名の手紙が、すべてを変える。手紙にはこう書かれていた——「保管室の鍵を探すな。さもなくば、シュタイナーの二の舞になる」と。




