表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第1章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/39

第8話 十年分の記憶は裏切らない

十年分の記憶は裏切らない。それだけが、今のわたしの武器だった。


水曜日。中央市場の泉のそばで、ノルベルトを待つ。


約束の時刻ぴったりに、藍色の外套が人混みの中に見えた。


この人は本当に時間に正確だ。


「お待たせしました」


「いいえ、わたしも今来たところです」


ベンチに並んで座る。


市場の喧騒が、会話の盾になってくれる。


「まず、これを見てください」


匿名の手紙を渡した。


ノルベルトが手紙を読む。


その表情が、かすかに変わった。怒りでも驚きでもない。確信に近い何かだ。


「この手紙の筆跡に、心当たりは」


「ありません。ただ——」


手紙をもう一度見つめた。


走り書きだが、文字の癖がある。


「宮廷の人間だと思います。公文書に慣れた筆跡です。それと、インクが宮廷で使われている公用のものに似ている」


「どうしてわかるのですか」


「十年間、毎日公文書を書いていましたから。インクの色味と粘度は身体が覚えています」


「……さすがですね」


褒められた。


単純に嬉しいと思ってしまう自分がいる。場違いだとわかっていても。


「ゲオルク氏の死因については、わたしも疑問を持っていました」


ノルベルトが声を落とす。


「検死記録を確認したところ、死因は心臓発作とされています」


「それなら、自然死では——」


「ゲオルク氏は定期的な健康診断で、心臓に問題がないと診断されていました。半年前の記録です」


「半年前に問題なしだった人が、突然心臓発作で?」


「不自然です。ただし、現時点では推測に過ぎません。証拠が必要です」


証拠。


いつもそこに戻る。


「それともうひとつ、報告があります」


アーデルハイトから受け取る予定の薬務室の資料のこと、ベアーテという文具店の店主のこと、そしてゲオルク爺さんが本に挟んでいた手紙——もうひとつの鍵の話を、ノルベルトに伝えた。


もうひとつの鍵の話を聞いたとき、ノルベルトの目が光った。


「保管室の棚の裏の鍵。それが何を開けるか——イルメラさんには心当たりがありますか」


「ゲオルク爺さんは、わたしならわかると書いていました。でも今は思い当たりません」


「保管室に行って確認する必要がありますね」


「わたしは停職中で宮廷に入れません」


「そこは、わたしが行きます。監査局員は保管室へのアクセス権限がありますから」


「でも、あなたが不審な動きをしたら、レンツ局長に——」


「心配には及びません。監査官が保管室を調べるのは通常業務の範囲です」


ノルベルトの口調は淡々としていたが、その目には決意があった。


「アーデルハイト・コッホ薬務官のことですが」


「ご存知なんですか」


「ええ。以前、監査局に薬務室の窮状を訴え出たことがある方です。残念ながら、そのときは証拠が不足していて動けなかった」


「今度は違いますね」


「ええ。あなたの記録と、ゲオルク氏の副本と、アーデルハイト氏の資料。三方向から証拠を揃えれば——」


「崩せますか」


「崩せます」


ノルベルトの声に、静かな確信があった。


泉の水音が、二人の間に流れる。


しばらく黙って座っていた。


「ノルベルトさん」


「はい」


「ひとつ、聞いてもいいですか」


「何でしょう」


「なぜ監査官になったんですか。宮廷で嫌われる仕事を、わざわざ」


ノルベルトが少し間を置いた。


「……わたしの父は、地方の小さな役所の役人でした」


「役人」


「真面目に働いて、規定どおりに仕事をして、それでも上からの圧力で不正に加担させられた。最後は責任をすべて押しつけられて、職を追われました」


わたしは息を呑んだ。


「お父様は——」


「今は田舎で静かに暮らしています。でも、あの人の背中がだんだん小さくなっていくのを見て——わたしは決めたんです。不正を見つけて、正す側の人間になると」


だからこの人は、わたしの十年間を「搾取」と言い切れたのだ。


父親の姿を、重ねていたのかもしれない。


「……お父様に、似ていますか。わたしの状況」


「似ています。だから——」


ノルベルトが言葉を切った。


何かを言いかけて、呑み込んだように見えた。


「だから?」


「……だから、今度は間に合わせます」


その言葉の温度に、胸が痛くなった。


間に合わなかった記憶を抱えている人の言葉だ。


「ノルベルトさん」


「はい」


「間に合いますよ。だって、もう動き始めているんですから」


ノルベルトが、ほんの少し口角を上げた。


笑顔と呼ぶには控えめすぎるが、この人なりの微笑みだ。


「定時退勤を始めてよかったです」


「わたしもそう思います」


その言葉の意味を深読みしてはいけない。


してはいけないのに、心臓が一拍だけ速くなった。


帰り道、市場で焼きたてのパンを買った。


こんな些細なことが、こんなにも幸せだとは知らなかった。


宿舎に戻り、パンを齧りながら、今日の会話を整理する。


ノルベルトの父親のこと。


不正に加担させられ、責任を押しつけられた地方の役人。


わたしの十年間と、ノルベルトの父の経験は、鏡のように似ている。


だからあの人は、わたしの話を聞いたとき、あれほど静かに怒っていたのだ。


「今度は間に合わせます」——あの言葉の重さが、今さらのように胸に迫る。


パンの残りを包んで、明日の分にとっておく。


停職中の身には、一枚銅貨も惜しい。


貯蓄はあると言ったが、正直なところ、長くは持たない。


十年間の給与は、宿舎費と最低限の食費を引けば、残りはわずかだった。


平民出身の事務官は、同じ仕事をしている貴族出身の事務官より、二割も低い給与体系だ。


それも「慣例」のひとつ。


気を紛らわせるために、ベアーテの店で買った上質の紙を取り出した。


記録の再現作業の続きを、自宅でもやっておこう。


ペンを走らせていると、あることに気づいた。


三年前の秋。


宮廷財務長官が交代した時期と、予算構造が大きく変わった時期が、ぴったり一致している。


旧財務長官は退任後、すぐに領地に隠棲したと聞いている。


引き継ぎもろくにせず、突然の退任だったそうだ。


突然の退任。それは、自発的なものだったのだろうか。


ノルベルトに伝えよう。新たな手がかりになるかもしれない。


ペンを置いて、伸びをする。


窓の外はすっかり暗くなっていた。


翌日の午前中、アーデルハイトが宿舎を訪ねてきた。


「イルメラさん、薬務室の資料を持ってきたわ。照合しましょう」


「ありがとうございます。入ってください」


二人で机に向かい、資料を突き合わせる。


「ここ、見て。三年前の秋に薬務室の予算が一括で削られてるわ。理由は『在庫過剰による調整』」


「在庫過剰?」


「とんでもない。むしろ在庫不足で困ってた時期よ。解熱剤も鎮痛薬も足りなくて、患者さんに我慢してもらうしかなかった」


「つまり、理由が捏造されている」


「ええ。でも当時は、財務長官の決定に逆らえなかったの。予算を握ってるのは向こうだから」


わたしの業務記録と照合すると、さらに見えてくるものがある。


「アーデルハイトさん。この薬務室の予算削減と同じ月に、事務局で大量の時間外業務が発生しています。わたしひとりに集中して」


「繋がってる……?」


「予算を削るたびに、そのしわ寄せがどこかの部署の人員に行く。人が足りなくなった部署の仕事を、わたしのような『何でもやる人間』が引き受けさせられる。そういう構造です」


「酷い話ね」


「酷いけど、合理的です。少数の人間に過剰な負荷をかけることで、多くの部署の予算を削れる。削った分は——」


「上層部の懐に」


「ええ」


アーデルハイトが、書類を握る手に力を込めた。


「イルメラさん。これ、絶対に許しちゃいけないわ」


「許しません。そのためにも、この資料は大切に保管させてください」


「もちろん。コピーも作ってあるから、安心して」


さすが薬務官だ。証拠の扱いが丁寧である。


アーデルハイトが帰ったあと、ひとりで資料を見返す。


点と点が、少しずつ線になっていく。


——しかし、その夜届いた二通目の匿名の手紙が、すべてを変える。手紙にはこう書かれていた——「保管室の鍵を探すな。さもなくば、シュタイナーの二の舞になる」と。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ