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婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第4章

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第40話 定時退勤のその先に

完結です!

定時退勤のその先に、何があるのか。


わたしは、ようやくその答えを知った。


裁判が終わり、勅令が発せられ、宮廷に新しい風が吹き始めて——ひと月が過ぎた。


冬の空気が澄んでいる。


局長室の椅子にも、ようやく馴染んできた。


「イルメラさん。今期の予算執行報告、全課から回収完了しました」


「ありがとう、モニカ。——全課、ですって?」


「はい。外交課長も、期限どおりに提出してくれました」


「あの外交課長が。成長したわね」


「課長じゃなくて、外交課の仕組みが変わったんです。イルメラさんが設計した業務分担表のおかげで」


嬉しい言葉だ。


ひとりが変わるのではなく、仕組みが変わる。それがわたしの目指した改革だった。


「イルメラさん。お客様です」


モニカが扉を開けると、見知った顔が並んでいた。


ノルベルト。ハンナ。アーデルハイト。グレーテ嬢。


そして——ベアーテ。


「何ごと?」


「局長就任一ヶ月のお祝いよ」


アーデルハイトが、小さな花束を差し出した。


白い花。ゲオルク爺さんの葬儀に手向けたのと、同じ種類だ。


「アーデルハイトさん……」


「ゲオルク爺さんが好きだった花よ。あの人がいなかったら、わたしたちはここにいない」


花を受け取る。


鼻を近づけると、甘い香りがした。


「ケーキも持ってきたわ。ベアーテさんのお店の隣のパン屋で買ったの」


グレーテ嬢が箱を開けると、素朴だけど美味しそうなケーキが入っている。


「白衣が似合うようになったわね、グレーテ嬢」


「嬢はやめてください。もう公爵令嬢じゃないんですから。グレーテでいいです」


「では、グレーテ」


「はい」


みんなで局長室のテーブルを囲んだ。


こんなことは、この部屋の歴史で初めてだろう。レンツ局長の時代には、ここは書類と怒鳴り声しかなかった。


「ハンナ。ケーキ切って」


「了解。——イルメラ、あなたの分は大きめね」


「なぜ」


「局長だから」


「それは論理が飛躍してるわ」


「いいじゃない。たまには甘やかされなさいよ」


笑い声が響く。


温かい。この部屋が、こんなに温かい場所になるとは思わなかった。


「ベアーテさん。文具店は順調ですか」


「おかげさまでね。宮廷への納品も再開したわ。——ところで、イルメラさん。ひとつ渡したいものがあるの」


「何ですか」


ベアーテが、小さな箱を取り出した。


「お母様が使っていたペンよ。公爵家に残っていたのを、わたしが持ち出しておいたの」


箱を開けると、銀軸のペンが入っていた。


細身で、手に馴染む形。ペン先は使い込まれているが、まだ十分に書ける。


「お母様の……ペン」


「エレオノーラは、このペンで手紙を書いていたわ。あなたへの手紙も——これで書いた」


ペンを手に取った。


軽い。でも、持つと不思議な安心感がある。


わたしの手に、母のペンが収まっている。


血の繋がりよりも深い——技術と意志の繋がり。ペンを握る力が、母から娘へ受け継がれている。


「ありがとうございます。大切にします」


「大切にしなくていいわよ。使いなさい。ペンは使ってこそ武器になるんだから」


「……ペンはこの国で最も強い武器、ですね」


「ええ。それは本心よ。最初から、ずっと」


ベアーテの目が、少し潤んだ。


でも笑っている。


「ところで、イルメラさん。あなたの孤児院時代の記録、もうひとつ面白いものがあるの」


「何ですか」


「毎年、あなたの誕生日に、匿名で本が届けられていたそうよ。行政法の解説書、七カ国語の辞書、外交文書の書式集——」


「それは——お母様が?」


「お母様とわたしで選んだの。あなたがいつか宮廷で働くことになったとき、困らないように」


「わたしの語学力や書類の処理能力は——」


「天性のものだけじゃないわ。お母様が種を蒔いて、わたしが水をやった。あなたが花を咲かせた」


胸が熱くなった。


わたしの十年間は、わたしひとりの力ではなかった。





みんなが帰ったあと、局長室にひとり残った。


——いや、ひとりではなかった。


「ノルベルトさん。まだいたんですか」


「片付けを手伝おうと思いまして」


「監査官が局長室の片付けをするんですか」


「業務外の善意です」


「善意。珍しいですね」


テーブルの上のケーキの箱を片付けながら、窓の外を見た。


冬の夕暮れ。空が薄い紫色に染まっている。


「ノルベルトさん」


「はい」


「裁判が終わって、仕事が落ち着いたら、遠くに行きたいと言いましたよね」


「ええ。善処すると答えました」


「善処の進捗は」


「……来月、監査局の休暇が取れます。三日間」


「三日間。十分です」


「どこに行きたいですか」


「海が見たいです。書類のない場所に」


「海、ですか。わたしは行ったことがありませんが」


「わたしもです。だから、一緒に初めてを」


ノルベルトの耳が、また赤くなった。


「……承知しました。手配します」


「定時退勤して、そのまま出発しましょう」


「定時退勤から始まる旅行。あなたらしい」


「あなたも一緒ですよ」


笑い合った。


窓の外では、最初の星が瞬き始めている。


ふと、ノルベルトが真剣な顔になった。


「イルメラさん。ひとつ、報告があります」


「何ですか」


「レンツ元局長が、収監先で手紙を書きました。あなた宛てです」


「わたし宛て?」


ノルベルトが、封筒を差し出した。


開けると、レンツの筆跡が並んでいる。あの「承認」の字が左に流れる、見慣れた癖のある字だ。


「イルメラ君。十年間の非礼を詫びる。お前の才能を利用し、搾取し、正当な評価をしなかった。すべてわたしの罪だ。だが一つだけ——お前に伝えたいことがある。お前の母が最後に残した文書が、まだこの宮廷のどこかに眠っている。それはお前の母が、この国の未来のために書いた——」


手紙は、そこで途切れていた。


続きがない。


「途切れている……」


「ええ。レンツ局長はこの手紙を書いたあと、体調を崩して倒れました。現在、治療中です」


「母が残した文書……」


「心当たりはありますか」


考える。


ゲオルク爺さんの保管室。副本の山。あの中に、まだ見つかっていない文書がある?


「……ゲオルク爺さんの分類法を、もう一度確認する必要があります」


「行きますか」


「ええ。でも——明日。今日は定時を過ぎています」


「そうですね。明日、一緒に」


窓の外の星が、ひとつ増えた。


十年間、わたしは残業の闇の中にいた。


定時退勤を始めた日、初めて夕焼けを見た。


そしてその夕焼けの先に——こんなにもたくさんの人と、こんなにも温かい場所が待っていた。


母のペンを、胸ポケットに入れた。


銀のペンダントが、その隣で微かに揺れる。


ペンと記憶と、信頼できる人たち。


それが、わたしの武器。


窓の外で、星がひとつ増えた。


ふと、ゲオルク爺さんの言葉を思い出す。


「お嬢ちゃんには、まだ先がある」


先がある。


あの人はそう言って、自分の「先」をわたしに託してくれた。


ノルベルトさんが言った。


「あなたの十年間は無駄ではなかった」と。


ハンナが言った。


「きっかけをくれたのはあなた」と。


グレーテが言った。


「沈黙は美徳ではない。あなたが教えてくれた」と。


アーデルハイトさんが言った。


「後継者を育てることの大切さを、あなたに教わった」と。


ベアーテさんが言った。


「お母様が聞いたら、泣いて喜ぶ」と。


みんなの言葉が、胸の中で温かく灯っている。


十年前、わたしは孤児だった。


味方はいなかった。名前も、居場所も、ペンダントも、母の記憶もなかった。


今は——全部ある。


名前も、居場所も、母の形見も、仲間も。


そして隣には、手を握ってくれる人がいる。


そして——定時退勤が、わたしの生き方。


母が残した文書は、きっと見つかる。


この国の未来を変える何かが、まだ保管室の奥で眠っている。


でも、それは明日の仕事だ。


今夜は——星を数えて、隣にいる人の手の温もりを感じて、ゆっくり帰ろう。


わたしの残業は、もう終わったのだから。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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