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婚約破棄された社畜令嬢、腹いせに定時退勤したら国が回らなくなりました  作者: 渚月(なづき)
第4章

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第39話 最後の勅令

最後の勅令が読み上げられたのは、裁判の翌日だった。


だが、その前に——裁判の話をしなければならない。


宮廷の大法廷。


傍聴席には、市民たちの姿もある。ヨアヒムの勅命で公開裁判が実現した。


被告席に、侍従長とアンブロス公爵が並んでいる。


二人とも白髪が増えていた。拘束中の生活が堪えているのだろう。


「証人、イルメラ・ヴェスト。証言台へ」


立ち上がる。


足は震えていない。胸のペンダントが、かすかに揺れる。


証言台に立つと、法廷全体が見渡せた。


傍聴席にハンナ、モニカ、アーデルハイト、グレーテ嬢の顔が見える。


検察席にノルベルト。目が合うと、小さく頷いてくれた。


「証人。あなたの氏名と経歴を」


「イルメラ・ヴェスト。旧姓ヴェステンドルフ。宮廷事務局局長。元事務官として十年間勤務」


ざわめきが広がった。


ヴェステンドルフ——王家の分家の名前を、法廷で初めて公式に名乗った。


「十年間の勤務期間中、あなたが経験した不正について証言してください」


深呼吸をした。


そして、話し始めた。


十年間、毎日の残業。上司による功績の横取り。人員削減と予算の流用。署名の偽造。ゲオルク爺さんの死。アーデルハイトへの毒殺未遂。監査局長の死。


すべてを、正確に、冷静に、記憶のままに語った。


法廷は静まり返っていた。


わたしの声だけが、石の壁に反響している。


「そして——わたしの母、エレオノーラ・フォン・ヴェステンドルフは、この宮廷の権力争いの中で命を奪われました。病死ではなく、毒殺です」


侍従長の顔が、蒼白になった。


「証拠は、レンツ元局長の証言、ベアーテ・リンデン氏の証言、そして文書保管室に残された副本に記録されています」


「異議あり!」


侍従長の弁護人が叫んだ。


「証人の証言は伝聞に基づくものであり——」


「伝聞ではありません」


わたしは、鞄から書類の束を取り出した。


「これは、わたしが十年間の記憶から再現した業務記録です。日付、内容、処理時間、すべてが記載されています。これらの記録は、ゲオルク・シュタイナー氏が残した副本、アーデルハイト薬務官の予算資料、そして中央記録院に提出済みの文書の写しと完全に一致します」


法廷が、再びざわめいた。


「三方向からの証拠が、すべて同じ結論を指し示しています。この宮廷で、組織的な不正が五年以上にわたって行われていた。その中心にいたのが——侍従長、あなたです」


侍従長が、何かを言おうとした。


だが声にならなかった。


判決は、その日のうちに下された。


侍従長——有罪。公金横領、毒殺教唆、証拠隠滅。


アンブロス公爵——有罪。公金横領の共犯、証拠隠滅。


法廷を出ると、ノルベルトが待っていた。


「見事な証言でした」


「ありがとうございます。——終わりましたね」


「ええ。終わりました」





翌日。


ヨアヒムが、宮廷大広間で最後の勅令を読み上げた。


「本日をもって、宮廷改革の第一段階を完了する。以後、この国の行政は、透明性と公正さを原則とし、いかなる個人にも過度な負担を強いることなく、すべての職員が尊厳を持って働ける環境を保障する」


拍手が起きた。


今度は、広間の全員が手を叩いている。


わたしは最前列で、静かに聞いていた。


隣にノルベルト。後ろにハンナ、モニカ、アーデルハイト、グレーテ嬢。


全員がここにいる。


「イルメラ局長に——この国を代表して、感謝を」


ヨアヒムが、わたしに向き直った。


「感謝は不要です、殿下。わたしは仕事をしただけです。——定時で」


広間に、笑いが広がった。


勅令の発表が終わったあと、広間でヨアヒムと二人きりになった。


「イルメラ。礼を言いたい」


「もう言いましたよ、殿下。広間で」


「あれは公式の礼だ。個人的な礼がまだだ」


「個人的な礼?」


「お前がいなければ——俺はまだ、誰かの操り人形だった。お前が定時に帰ったあの日から、この国は変わり始めた」


「定時退勤がきっかけだなんて、歴史の本に書かれたら笑われますね」


「笑われるか。だが事実だ」


ヨアヒムが微笑んだ。


穏やかな笑みだ。もうあの舞踏会の夜のような仮面はない。


「殿下。ひとつお願いがあります」


「何だ」


「わたしの母——エレオノーラのことを、公式に記録に残してほしい。王家の血を引く女性が、この宮廷で命を奪われたことを」


「……重い願いだな」


「重いです。でも、記録に残さなければ、同じことが繰り返される」


「わかった。記録に残す。——エレオノーラの名前を、この国の歴史に刻む」


「ありがとうございます」


「イルメラ。もうひとつ——」


「はい」


「お前の監査官を、大切にしろ」


「……殿下にだけは言われたくないんですが」


「はは。違いない」


二人で笑った。


かつて婚約者だった男と、こうして笑い合える日が来るとは。


人生は、予測できない。


広間を出ると、ノルベルトが廊下で待っていた。


「お疲れさまでした」


「ええ。侍従長は有罪。アンブロス公爵も有罪。この国の不正に、正式にけじめがつきました」


「ゲオルク爺さん。監査局長。お母様。みんなの分まで——」


「ええ。みんなの分まで」


廊下の窓から、夕暮れの空が見える。


「ノルベルトさん」


「はい」


「監査局長の件——考えてくれましたか」


「……引き受けます」


「本当ですか」


「前局長の教えを受け継ぐのは、わたしの責務です。それに——」


「それに?」


「あなたと対等な立場で仕事をするには、局長同士の方が都合がいい」


「……それは、業務上の理由ですか」


「半分は」


「残りの半分は」


「あとで言います」


「また『あとで』ですか」


「今度はすぐに言います。——海で」


午後五時。定時退勤。


門を出ると、冬の空に一番星が光っていた。


並んで歩く。


裁判が終わった日の夕暮れは、いつもより空が広く見えた。


「ノルベルトさん。長かったですね」


「ええ。あなたが定時退勤を始めた日から——何日経ったでしょう」


「数えていません。でも、季節がひとつ過ぎました」


「夏の終わりに始まって、冬になった」


「その間に——ゲオルク爺さんの死、署名偽造の発覚、停職処分、ベアーテさんとの出会い、ヨアヒム殿下の告白、アーデルハイトさんの毒殺未遂、監査局長の死、ハンナの裏切り、侍従長の逮捕、母の真相……」


「よくそれだけのことを、定時退勤しながらやりましたね」


「定時退勤していたからできたんです。残業していたら、視野が狭くなって何も見えなかった」


「……あなたの定時退勤が、結果的にこの国を救った」


「わたしひとりじゃありません。ゲオルク爺さんの副本、あなたの調査、ハンナの証言、グレーテの勇気、アーデルハイトの知識、ベアーテの情報——みんなの力です」


「それをまとめたのは、あなたです」


「局長ですからね」


「いい局長です」


「いい監査局長になってくださいね」


「善処します」


「また善処ですか」


「今度の善処は、本気です」


二人で門に向かう。


裁判が終わった日の宮廷は、どこか静かだった。嵐が過ぎ去ったあとの、透明な静けさ。


「ノルベルトさん。長い戦いでしたね」


「ええ。でも——終わりではありません」


「まだ何か?」


「レンツ元局長が、手紙の中で言及した『お母様が残した文書』。あれがまだ見つかっていません」


「ゲオルク爺さんの保管室に、まだ調べていない副本がある可能性がありますね」


「ええ。保管室の総点検を行う必要があります」


「それは——来週の仕事ですね」


「来週。つまり——」


「明日は休暇です。海です」


「……そうでした」


「忘れてたんですか」


「忘れていません。楽しみにしすぎて、現実感がないだけです」


「監査官が現実感を失ったら大問題ですよ」


「あなたの隣にいると、たまにそうなります」


門を出た。


冬の空に、星が満ちている。


「お疲れさまでした。見事な証言でした」


「ありがとうございます。——終わりましたね、本当に」


「ええ。侍従長は有罪。アンブロス公爵も有罪。レンツ元局長は別件で収監中。この国の不正に、正式にけじめがつきました」


「ゲオルク爺さん。監査局長。そしてお母様。みんなの分まで——」


「ええ。みんなの分まで」


「ノルベルトさん。明日から——」


「明日から?」


「三日間の休暇ですよね。海」


「忘れていませんでしたか」


「忘れるわけないでしょう。十年分の記憶力を甘く見ないでください」


「甘く見ていません。むしろ恐れています」


「恐れなくていいです。——楽しみにしていてください」


ノルベルトが、珍しく照れたように目を逸らした。


耳が赤い。冬の寒さのせいだと言い訳できない温度だ。


午後五時。定時退勤。


——すべてが、ここから始まる。新しい宮廷。新しい仕組み。新しい関係。


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