第4話 監査官は嘘を見抜く
監査官は嘘を見抜く。それが彼の仕事であり、才能であり、孤独の理由でもあった。
わたしがそのことを知ったのは、ノルベルトと二人で業務記録の再現作業を始めた日だった。
監査局の一室を借りて、わたしは記憶を頼りに過去三年分の業務内容を書き出していく。
日付、業務内容、本来の担当者、実際の処理者、処理にかかった時間。
ノルベルトは向かいの席で、わたしの記録と公式の業務報告を照合している。
「イルメラさん。この四月十五日の外交文書の翻訳業務ですが」
「はい」
「公式記録では翻訳官のベッカー氏が処理したことになっています」
「わたしがやりました。ベッカーさんは当日、体調不良で休んでいたので」
「翻訳官の業務を、事務官であるあなたが代行できるものなのですか」
「できるかどうかではなく、やるしかなかっただけです。翌日が提出期限でしたから」
ノルベルトがペンを止めた。
「何カ国語を扱えるのですか」
「この大陸の主要五言語と、南方の二方言です」
「七つ」
「翻訳の仕事は公式には担当外ですが、人手が足りないときに何度か代行しました」
「何度か、というのは」
「四十七回です。三年間で」
ノルベルトが、また目を大きくした。
この人を驚かせるのが、少し楽しくなってきている自分に気づく。不思議な感覚だ。
「それだけの語学力があれば、翻訳官として正式に登用されるべきでしょう」
「登用の推薦は、所属長の権限です。レンツ局長が推薦してくれたことは一度もありません」
「当然ですね。推薦すれば、あなたが事務局を離れてしまう。局長にとっては、あなたを安い待遇で使い続ける方が都合がいい」
淡々とした口調だが、そこに静かな怒りが滲んでいた。
「イルメラさんの能力は、事務官の範疇を大きく超えています。なぜこの待遇に甘んじていたのですか」
「甘んじていたというより……気づかなかったんです」
「気づかなかった?」
「これが普通だと思っていました。毎日残業して、上司の名前で仕事を出して、評価されないのが当たり前だと」
十年間、比較対象がなかった。
婚約破棄されるまで、疑問にすら思わなかったのだ。
「それは普通ではありません」
ノルベルトの声は淡々としていた。
「あなたの十年間は、搾取です。制度的に、構造的に」
搾取。
はっきりと、そう言い切る人に初めて出会った。
「誰も、そんなふうに言ってくれませんでした」
「言うべき人間が、言わなかっただけです」
胸の奥が熱くなる。
泣きそうになるのを堪えて、記録の続きを書く。
ペンを握る手が少しだけ震えていたが、気づかないふりをした。
ノルベルトも何も言わなかった。
それが、この人なりの優しさなのだと思った。
午前の作業を終えて、記録の再現は順調に進んでいた。
三年分のうち、すでに一年目の分が完成している。
「イルメラさん。少し休憩しましょう」
「大丈夫です。まだ書けます」
「いいえ。休憩です」
ノルベルトが有無を言わさぬ口調で言い、席を立った。
戻ってきたとき、手には温かい茶が二つあった。
「監査局にも茶くらいはあります」
「ありがとうございます」
湯気の立つ茶を受け取る。
カップの温もりが、冷えた指先に沁みた。
「ノルベルトさん。ひとつ聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「監査局の方って、皆さんこんなに親切なんですか?」
「いいえ。わたしは局内でも変わり者で通っています」
「変わり者」
「同僚からは『書類にしか興味がない男』と言われています」
「書類にしか興味がない……」
「事実です。人間関係は苦手です」
さらりと言うが、その口調にはどこか自嘲が混じっている。
「でも、わたしには親切にしてくれますね」
「あなたは協力者ですから。業務上の配慮です」
「業務上」
「はい」
ノルベルトの目が、かすかに泳いだ。
この人は嘘が下手だ。嘘を見抜くのが仕事のくせに。
おかしくなって、つい口元が緩んだ。
「何がおかしいのですか」
「いえ、何でもありません。お茶、おいしいです」
「それはよかった」
しばらく二人で黙って茶を飲んだ。
監査局の窓から差し込む光が、穏やかだった。
「……人間関係が苦手だと言いましたけど」
「はい」
「わたしもです。十年間、仕事以外のことで人と話した記憶がほとんどありません」
「それは仕事に没頭していたからでは」
「没頭というか、そうしないと生き残れなかったんです。平民の女が宮廷で居場所を守るには、有能であり続けるしかなかった」
「……だから、誰にも弱みを見せなかった」
「ええ」
「今は?」
少し考えた。
「少しだけ、肩の力を抜けるようになった気がします」
「それは——良いことだと思います」
ノルベルトの声が、いつもより柔らかかった。
午後の作業を再開する。
二年目の記録に入ると、不審な点が増えてきた。
「ノルベルトさん。この年の七月から九月にかけて、わたしの業務量が急増しています」
「原因は」
「事務局の人員が三名削減されました。理由は『予算の効率化』。でも、その三名のうち二名は若手で、残りの一名はベテランの翻訳官です」
「削減された人員の給与は、どこに回されたのですか」
「わかりません。でも、同時期にレンツ局長が外遊しています。視察という名目で、南部のアンブロス領に」
ノルベルトのペンが止まった。
「アンブロス領。グレーテ嬢の実家ですね」
「ええ。偶然かもしれませんが——」
「偶然を信じないのが、監査官の仕事です」
ノルベルトが記録を取り始めた。
一つひとつの事実を、丹念に積み上げていく。
この人の仕事の仕方が、わたしは好きだった。
派手さはないが、確実で、誠実だ。
◇
昼休み、食堂で簡素な昼食を取る。
向かいの席に、見知った顔が座った。
ハンナだ。
「イルメラ、最近あの監査官とよく一緒にいるわね」
「業務上の協力です」
「ふうん。あの人、宮廷では『氷の監査官』って呼ばれてるの、知ってる?」
「初耳ね」
「誰に対しても冷たくて、友人もいないって噂よ。着任して三年、一度も笑ったところを見た人がいないとか」
「そんなことないわ。笑うわよ、あの人」
「え?」
ハンナが身を乗り出した。
しまった、と思ったが遅い。
「あなた、あの氷の監査官を笑わせたの?」
「笑わせたわけじゃなくて……自然に。ほんの少しだけ」
「へえ」
ハンナが意味ありげに笑う。
否定するのも面倒なので、黙ってスープを啜った。
「……ねえ、イルメラ。真面目な話があるの」
ハンナの声が低くなった。
「あなたの定時退勤の件、上の方で問題になってるみたい」
「問題?」
「レンツ局長が、人事部に報告を出したの。『イルメラの勤務態度に問題がある』って」
「定時退勤が勤務態度の問題になるの?」
「ならないはずよ。でも局長は、あなたが『協調性に欠ける』って理由にしてるみたい。減俸処分の申請もしてるって」
スープの味が、急に薄くなった気がした。
協調性。
十年間、誰よりも他人の仕事を引き受けてきた人間に対して、協調性を問うのか。
「ありがとう、ハンナ。教えてくれて」
「気をつけてね。あの人、追い詰められると何をするかわからないから」
午後、監査局に戻ると、ノルベルトにハンナから聞いた話を伝えた。
ノルベルトは表情を変えなかった。
「予想どおりです。レンツ局長は、あなたを排除することで調査の妨害を図っている」
「対策はありますか」
「あります。監査局の臨時協力員として、あなたを正式に登録します」
「臨時協力員?」
「これにより、事務局からの人事処分は監査局長の承認なしに行えなくなる。少なくとも、記録の再現が完了するまでは、あなたの身分を保全できます」
用意がいい。
というより、最初からこの展開を見越していたのか。
「ノルベルトさん。あなた、わたしが定時退勤を始める前から、事務局の調査をしていたんですか」
沈黙。
ノルベルトが一瞬だけ視線を逸らした。この人にしては珍しい反応だ。
「……半年ほど前から、事務局の予算執行に不審な点がありました」
「それで、わたしが婚約破棄されて定時退勤を始めたのを見て——」
「好機だと判断しました。不快に思われるなら、謝ります」
「いいえ」
首を振る。
「利用されているとしても、構いません。わたしにも、明らかにしたいことがありますから」
「利用、とは思っていません。これは協力です」
その言葉を、素直に信じた。
信じていいかどうかは、まだわからない。でも、信じたいと思った。
午後五時。
今日も定時退勤する。
門を出ると、ノルベルトも一緒だった。
「監査官も定時退勤ですか」
「もともと定時で帰っています。残業は非効率の証拠ですから」
「……そういう考え方、素敵ですね」
ノルベルトは黙って歩いている。
横顔は無表情だが、耳の先がほんの少し赤い気がしたのは、夕焼けのせいだと思うことにした。
——翌日、レンツ局長の反撃が始まる。そしてそれは、わたしが想像していたよりもずっと巧妙で、ずっと卑劣なものだった。




