第33話 銀のペンダント
銀のペンダントは、孤児院の保管庫の奥で、二十年間わたしを待っていた。
レンツ局長の尋問の翌日。
ノルベルトとともに、王都の西区にある孤児院を訪ねた。
古い石造りの建物。壁には蔦が這い、窓枠のペンキが剥がれかけている。
わたしが十年間暮らした場所だ。
「ここに——」
「ええ。五歳から十五歳まで。ここで育ちました」
門をくぐると、中庭で子供たちが遊んでいた。
その光景が、記憶の底から何かを引っ張り出す。わたしも、あの中にいた。
「イルメラさん。お久しぶりです」
院長が出迎えてくれた。白髪の老婦人。わたしが子供の頃から変わらない、穏やかな笑顔。
「院長先生。お元気そうで」
「あなたこそ。宮廷の局長になったんですって? 新聞で読んだわよ」
「はい。おかげさまで」
「おかげさまじゃないわよ。あなたの実力よ」
院長が目を細めた。
「それで、今日は何の用?」
「わたしの入院時の遺品を確認させていただきたいのです。銀のペンダントが保管されているはずです」
「ああ——あれね。ちゃんとあるわよ。ついてらっしゃい」
保管庫は、地下の小さな部屋だった。
棚に並んだ木箱に、入院児の名前と番号が書かれている。
「ヴェスト、ヴェスト……あった。これよ」
院長が木箱を取り出した。
蓋を開けると、布に包まれた小さなものが入っている。
布を開いた。
銀のペンダント。
鎖は変色しているが、ペンダントトップには精緻な紋章が刻まれている。
「ヴェステンドルフ家の紋章……」
「ノルベルトさん。これが——」
「お母様の形見ですね」
手に取ると、冷たい金属の感触が掌に広がった。
二十年間、ここで眠っていたのだ。
「ノルベルトさん。このペンダント、何か刻まれていますね」
「見せてもらえますか」
ノルベルトがペンダントを光に透かした。
「紋章の裏側に——文字が彫ってあります。小さくて、肉眼では読みにくいですが」
「何て書いてあるの」
「『永遠に、あなたの味方。E.V.』——E.V.は」
「エレオノーラ・ヴェステンドルフ。お母様のイニシャル……」
永遠に、あなたの味方。
母が、生まれたばかりのわたしに刻んだ言葉だ。
二十年間、孤児院の保管庫で眠っていたこの言葉が——今、わたしの胸元にある。
「院長先生。この孤児院には、今何人の子供がいますか」
「三十二人よ。ここ数年で増えたわ。宮廷の予算削減で、地方の孤児院が閉鎖されて——」
「予算削減」
「ええ。レンツ局長の時代に、孤児院への補助金も削られたの」
またか。
あの男の不正は、ここにまで影響していたのだ。
「院長先生。孤児院への予算を元に戻します。それだけでなく——教育の質を上げるための追加予算も検討します」
「本当に?」
「ええ。わたしみたいな子が、ちゃんとした教育を受けられるように。孤児だから、平民だからと、可能性を潰されないように」
「……ありがとう。あなたは本当に——」
「いいお大人になった、でしょう? さっきも聞きました」
「何度でも言うわよ」
孤児院を出るとき、中庭で遊んでいた子供のひとりがわたしに駆け寄ってきた。
七歳くらいの女の子だ。
「お姉さん、ここの子だったの?」
「ええ。昔ね」
「お姉さんは偉い人になったの?」
「偉い人かどうかはわからないけど——がんばって働いて、定時に帰る人にはなったわ」
「定時って何?」
「五時になったらお家に帰ること」
「ふうん。わたしも大きくなったらそうする」
「そうしなさい。がんばった分だけ、ちゃんと休むのが大事よ」
女の子がにっこり笑って、中庭に駆け戻っていった。
ノルベルトが隣で見ていた。
「いい光景ですね」
「ええ。あの子たちの未来のために、わたしは働くの」
「具体的には?」
「孤児院の教育予算を倍にします。読み書きだけじゃなく、語学や計算も教えられる環境を」
「わたしの母がわたしにしてくれたことを、この子たちにも」
「……お母様も喜ばれるでしょう」
「喜んでくれるかな」
「間違いなく」
「ノルベルトさん。孤児院への予算、いくらくらい必要だと思いますか」
「現状の倍は必要でしょう。三十二人の子供を、適切に教育するためには」
「倍……大きな額ですね」
「しかし、レンツ局長が横領していた金額に比べれば微々たるものです」
「それもそうですね。不正に使われていた金を、正しい場所に戻すだけ」
「まさに。——ところで、ペンダント、本当に似合っていますよ」
「さっきも言いましたよ」
「何度でも言います」
「あなた、最近その台詞が多いですね」
「大事なことは繰り返す主義です」
「監査官らしい主義ですね」
二人で笑った。
孤児院の門を出ると、冬の光が柔らかかった。
子供たちの声が、背中に聞こえる。
この場所から、わたしは始まった。
そしてこの場所に、わたしは恩を返す。
帰り道、ノルベルトが口を開いた。
「イルメラさん。先ほど院長に約束した孤児院の予算ですが、具体的な財源は」
「レンツ局長が横領していた特別業務手当を転用します。不正に使われていた金を正しい場所に戻すだけ」
「監査局としても承認の根拠が立ちます。起案書を作りましょう」
「ええ。明日、事務局で仕上げます」
「それともうひとつ。孤児院の子供たちに、宮廷見学の機会を作りたいんです」
「宮廷見学?」
「わたしは十五歳まで、宮廷がどんな場所か知らなかった。いきなり放り込まれて、右も左もわからないまま働き始めた」
「事前に知っていれば、適応が早かった」
「ええ。子供たちに選択肢を見せたいんです。宮廷で働くこともできる、薬務官になることもできる、文具店を開くこともできる——」
「ベアーテ氏のような」
「ええ。色んな生き方があると知るだけで、未来は広がりますから」
「……いい提案です。監査局でも協力します」
「ありがとうございます。——あ、見学は定時内に収めますからね」
「当然です」
帰り道、市場を通りかかった。
泉のそばのベンチに、見覚えのある人影がある。
「グレーテ?」
「あ、イルメラさん。こんにちは」
グレーテが白衣のまま座っていた。
手には薬草学の教科書。
「休憩中?」
「ええ。アーデルハイトさんに『たまには外の空気を吸いなさい』って言われて」
「真面目すぎるのも考えものね」
「イルメラさんに言われたくないです」
「それもそうね」
並んで座った。泉の水音が穏やかだ。
「今日、孤児院に行ってきたの。ペンダントを受け取りに」
「お母様の形見……見せてもらってもいい?」
首のペンダントを見せた。
グレーテが、そっと指先で触れる。
「綺麗……。裏に何か書いてある」
「『永遠に、あなたの味方。E.V.』。お母様のイニシャルです」
「素敵ね。——わたしの父は、こういうものを残してくれなかったわ。残したのは借金と汚名だけ」
「グレーテ……」
「でもいいの。わたしは自分の手で、新しいものを積み上げるから。薬務官として」
「その言葉、アーデルハイトさんに聞かせたいわ」
「恥ずかしいからやめて」
二人で笑った。
かつて敵だと思っていた女性と、今はこうして笑い合える。
「院長先生。ひとつ聞いてもいいですか」
「何?」
「わたしがここに来たとき、覚えていますか」
「忘れるわけないでしょう。五歳のあなたは——泣かなかったのよ」
「泣かなかった?」
「ええ。普通、親と離れた子供は泣くものよ。でもあなたは、ぎゅっと唇を結んで、一言も泣き声を上げなかった」
「……覚えていません」
「覚えていなくていいのよ。でもね、わたしはあのとき思ったの。この子は強い子だ、って」
目の奥が熱くなった。
「院長先生。わたし、この孤児院に恩返しがしたいです。局長の権限で、孤児院への予算配分を見直します」
「まあ……本当に?」
「ええ。子供たちが安心して暮らせるように。わたしのような子が、ちゃんと教育を受けられるように」
院長が、わたしの手を両手で包んだ。
「ありがとう。あなたは——いい大人になったわね」
◇
孤児院を出て、ノルベルトと並んで歩く。
ペンダントを首にかけた。銀の冷たさが、胸元で少しずつ温まっていく。
「お母様の形見、似合っています」
「……ありがとうございます」
「泣かない五歳児、ですか。今のあなたと変わりませんね」
「今は泣きますよ。昨日、あなたの胸で泣いたじゃないですか」
ノルベルトの耳が赤くなった。
「あれは——業務外の出来事として——」
「記録に残さないでくださいね」
「もちろんです」
二人で笑った。
秋の空は高く、風は冷たいが、心は温かい。
——母の形見を手にした今、次にやるべきことが見えている。この国の予算を正し、二度とゲオルク爺さんやお母様のような犠牲者を出さない仕組みを作ること。




