関係性
からからと空回る自転車の車輪。上空には憎たらしいくらい青い空。
「あー、またこけた。最悪だ」
物事をなんでもかんでも「最悪」というのはいいことではない。最悪というのは最も悪い状況のときに使う言葉だ。だが美好には関係ない。毎日こけ続けるこの状況を最悪と呼ばずして何と呼ぶのか。……というか。
「そういえば、今日は午後から降るって予報じゃなかったっけ? ……なんで俺、自転車で行こうとしてるんだろう」
かなりの失策である。傘も持っていない。忘れていた。今月は六月。水無月と呼ばれるが水が無い月だなんてとんでもない。水が無いのは旧暦の話で、現代なら六月といえば梅雨、雨の季節と言ってもいいくらいだ。折り畳み傘の一つでも鞄に忍ばせておくのだった。
だが、もう、坂を降りきったところでの転倒と気づき、である。時間に余裕はあるが、今更家まで戻って傘を持ってくるのも馬鹿馬鹿しい。ああ、雨予報でも自転車登校とは。習慣とは恐ろしい。
まあ、いいや、と諦めて自転車を押していると、花壇にいつもの半澤の姿がないことに気づいた。どうしたのだろう、と思う。が、少し考えればわかることだった。
今日は雨が降る。花に水を与えすぎるのはいけない。このことから、今日の水やりは必要ないという結論が導き出される。
美好としては少々寂しかった。朝、花壇で半澤と言葉を交わすことが一日の楽しみであるから。
特に、ゴールデンウィークが明けてから、半澤の様子がおかしい。表面はいつも通りの笑顔だが、美好と二人でいるときは、少々内面が出ている。
その不安定な内面の正体を美好は半澤の口から聞き、知っていた。知ったとき、美好はやはりな、と思った。
ゴールデンウィーク、美好は旅行だかデートだかという名目で花隣に花畑というところに連れて行かれた。そのとき、以前半澤と揉めていた、半澤の中学時代からの先輩という連中に出会したのだ。そこで色々あり、あちらの本音を聞くことになり、色々言った。
それから先輩方はどうやら半澤に声をかけに行ったらしい。そこで本音を話したのかもしれない。半澤の写真の腕は本物だ。写真部には是非とも欲しいのだろう。
だが、いじめられていたのに、唐突にそんな本音を切り出されて、半澤はかなり戸惑ったらしい。最近、あまり写真の話をしない。土日にネックストラップでカメラを吊っているのは変わらないようだが、写真を撮る様子をしばらく見ていない。
美好からその話題に触れるのは少しやりづらい。先輩方が半澤に接触するようになったのは、どう考えても、ゴールデンウィーク中のあの出来事がきっかけだろう。美好が導火線を点けたようなものだ。半澤は怒りはしないだろうが……無理して笑う、半澤の笑顔が美好の胸に痛みをもたらした。
「なぁにフラれたみたいなしみったれた顔してんの? イケメンが台無しよ」
「……五月蝿いやい」
いつの間に登校してきていたのだろう。後ろから花隣に声をかけられた。いつもの不機嫌面になる。
「その顔の方がみーくんらしくていいよー」
呑気に言う花隣から、美好はけっと顔を背けた。
「人の不機嫌面褒めるとか、お前、神経どうかしてるよ」
「芸術的感性からの言葉ですー。いつも言ってるでしょ。『絵は心を写すもの』って」
はあ、と美好は溜め息を吐く。
「つまりリン、お前は俺の不機嫌面を見ていとをかしと思っているのか」
「んー、どっちかっていうと、あはれなりかな」
「ほぼ意味同じじゃねぇか」
不機嫌面に風情もへったくれもあってたまるもんか、と美好は吐き捨てた。花隣がむう、と頬を膨らませる。
美好には花隣の信念は理解しがたいものであった。芸術的感性がないわけではないと思う。花隣の絵には花隣が絵に懸ける情熱を感じたし、美術の授業で習うダ・ヴィンチの描いたモナリザや、ゴッホの描いた自画像や向日葵に風情を感じることだってある。紅白梅図屏風にだって、趣を感じる。
ただ、美好は、絵よりも写真の方に感性が向いているのだと思う。花隣がスランプのときなんかは、自分で撮った写真を模写の素材として提供することもある。花隣は人物画を描くことの方が多いが、風景画を描かせても、色使いやタッチが繊細で、ただの写真から模写したとは思えないほどの情緒をその絵に湛えることができる。これも所謂、本物というやつだろうと美好は思う。
分析して、少し苦しい。美好は半澤と出会ってから、半澤と花隣という二人の芸術家、芸術的感性の間に板挟みになっているような状態なのだ。花隣の絵は花隣の絵でいい。信念を貫く、一本筋の通った絵で、見る者を惹き付けるものがある。それは否定しない。
だが、同時に、美好は半澤の写真を否定することもできなかった。花隣が気持ち悪いというであろう、心を写す写真を美好の感性は素晴らしいと感じる。どういう因果か、こけたところばかり撮られているが、デジタル画面で見せられるその写真は、ものに宿る魂までをも写し撮ったような躍動感に溢れていて、こけて薄汚れていることなんか気にならないくらいに魅せられる。花隣の信念を覆すような写真を、けれど、美好は否定することができなかった。──半澤の写真に、三ヶ月程度で虜になってしまったのだ。
──幼なじみの花隣に対して、裏切りのような気がするから、言わないが。
「フラれた、ね」
鼻で美好は笑う。別に花隣を嘲笑ったわけではない。それは自嘲の笑みだった。
たった一日の朝、会えないだけで心を掻き乱される。──恋愛事に縁のない美好だったが、花隣の比喩が妙に当てはまっていて、笑えた。
半澤との関係は友人だ。間違っても恋人ではない。同性愛の趣味はない。けれど、美好にとって、半澤との朝の交流は当たり前で、その当たり前が崩れ去った今、抱いているのは花隣が揶揄した「フラれたみたいなしみったれた顔」で合っているのかもしれない。
同じ学校にいて、クラスが隣で、まだ一日は始まったばかりである。だというのに、朝の会話がないだけでこれほどまでに寂寥を感じるのは……美好の中での半澤という存在の大きさを表していた。
美好はクラスでは中心とまではいかないまでも、クラスメイトとの関係は良好で、クラスメイトは全員「友達」と称しても傲りではないだろうというくらいの関係性を築いている。
けれど、半澤はただ「友達」であるのとは違う気がした。クラスメイトとは、トラウマレベルの話をしたこともないし、聞いたこともない。ただ他愛のない言葉を交わすだけの間柄だ。だが、半澤は違う。
中学時代に起こったトラウマ級の事件についてとそれからまとわりつく劣等、苦悩、葛藤を聞いてきた。半澤は、毎日こけ続けることにぶーすかぶーすか言うような美好とは全く違う次元の悩みを抱えていた。それがどれだけつらいことなのか、美好には想像ができても、「辛かったな」なんて手軽な言葉をかけることができない。
短い付き合いではあるが、美好にはわかっていた。花隣が絵にありったけの思いを懸けるのと同じくらいに、半澤は写真に懸けている。シャッターチャンスを逃さないように、いつも目を見張って、独自の感性を磨いているのだ。だから、昨日の夕暮れと今日の夕暮れの違いなんて細かいこともわかってしまうのだろうと思う。
その才能は恐ろしいと思うと同時、すごい、とも思った。トラウマを抱えながらも、他の人には撮れないような写真を撮る。そのためにシャッターを押すことに躊躇いはない。……それが、半澤が写真に、もしかしたら命を懸けているかもしれないという証拠足り得た。
ふと、美好は花隣に問う。
「半澤の様子はどうだ?」
「どうって……いつも通りだよ。爽やかスマイル健在、どんな女子にも靡かない、相変わらずの女泣かせ爽やかくん。でもそこがいいと更なる支持を得ているモテ男くんだね」
女子の噂で聞いた、半澤が時折見せる影のある表情というのは、女子にとっては魅力の一つでしかないのだろうか。
半澤が悩んで、苦しんでいるのをおかずにして、女子は青春を堪能しているのかと思うと、なんだか腹が立った。
半澤の何も知らないくせに……
そんな美好の心情を知ってか知らずか、ところでみーくんや、と花隣が話題を変えた。
「今日の予報は雨だったよね」
「ああ」
「自転車で帰るのよね」
「そうなるな」
「傘は持ってきていないと見た」
図星である。花隣は続けた。
「なら、放課後、またモデルやってくれたら、予備の傘貸してあげる」
部活に所属していない美好は暇だったので、それを拒否する理由もなく、ただ頷いた。
半澤を救ってやりたい。そう思いながら、一日を過ごした。
予報通り、午後は曇天。今にも降り出しそうだな、と、授業中、美好は傍らの窓を見上げた。
放課後、雨が窓を打ち付ける頃になって、バイブにしていたケータイが震える。メールが来た知らせだ。珍しいこともあったもんだな、とメールを開くと、それは半澤からのものだった。
メールの文章は短かった。
だが、それを読むなり、美好は雨が止むのも弱まるのも待たずに、鞄を引っかけて、隣の教室に向かった。
がらりと教室の扉を開けると、半澤が一人、ぽつんと座っていた。ただ、表情変化は如実にわかった。美好が現れた途端、救われたような顔になったのだ。
……朝に花隣の絵のモデルになるよう頼まれていたことなんか、簡単に放棄した。傘を貸してあげると言われたことも、どうでもよくなった。
今の美好にとって、半澤の方が大切だったのだ。