ノイズ
クラウンと少年はあらゆる町を転々としていた。
どこに行っても空は青い。クラウンの瞳のように。
「今日も見上げてるんだ」
「変わらないな、と思って」
クラウンは少年に飲み物を手渡す。大人が好んで飲む、苦くて黒い飲み物だ。まあ、好き嫌いはないので、少年は飲む。
クラウンは少年が腰掛ける手すりに凭れかかって、ちら、と少年を見上げる。
「なんで空を見上げるの?」
うーん、と少年は唸った。
空の果ては知れない。まだ太陽は頭上に上り詰めていないため、なんとなくだが、説明することにした。
「世界の果てっていうものがあるのなら、空の色も違うって思ってるんだ」
「世界の果てに何を求めてるのさ?」
クラウンはからからと笑った。苦いはずの飲み物を飲み干すと、クラウンは告げる。
「世界に果てなんてないよ。この世界はまぁるくできてる。だからどれだけ世界を歩いたって、世界の果てと思った場所はいつだって出発地点なんだ。世界が丸いのは、丸が幸福な形だかららしいね」
「学校に行ってない割に、クラウンは色々知ってるな」
感心すると、クラウンは苦笑いした。
「受け売りだよ。僕にはね、両親がいない。でも、僕を育ててくれた人がいる。その人が教えてくれたんだ。世界は丸いから果てがない」
世界が丸いというのは、このループ世界では人々の共通認識だ。何故そんなことを知っているのかはわからない。ただ、確実に世界は丸い。何故か皆、それを知っている。けれどそれが何故なのかは疑問に思わない。それがこの世界の性質だ。
「だから空は果てしなくて、どこまで行っても同じ色をしているんだよ」
「つまらない世界だな」
「だから君は世界に何を求めてるんだよって」
手すりから手を放し、クラウンは軽く伸びをする。それから、少年と同じ空を見上げ、微笑んだ。
「さ、そろそろ今日の支度を始めるよ。今日はナイフのジャグリングだ」
「……未だに上手くできないんだけどな」
「僕がフォローするから」
クラウンはどこから出したのか、赤い林檎を手で弄びながら告げた。
「今日も物乞いは物乞いだよ」
ナイフのジャグリング。
各地を転々としながら、模造のナイフで練習してきた。クラウンほど上手くはできない。
というか、クラウンのナイフ芸は、タネがわかっていてもひやりとする。なんだか、命がなくなるような……ナイフを胸に突き刺したり、頭に落としたり……心臓が止まりそうになるような芸を見せるのだ。そのナイフは真っ赤な薔薇になったり、クラッカーになったりするのだが。
ナイフパフォーマンスは何度かやった。だが、一度も成功した試しがない。いつもクラウンを困らせている。だからあまり、気が進まないのだ。だが、クラウンがやると言ったら、やるしかない。要するにに少年は押しに弱いのだ。強い意志を宿すような紫色の瞳も、クラウンの空のような澄んだ青い瞳の前には形無し……
ザザッ、と視界にノイズが走る。モノクロの横線が何本も配置されたようなノイズ。まるでこの世界が映像か何かの偽物であることを示すようなノイズだ。
「空の青は、塵の乱反射らしいな」
自分によく似た声が言う。
それに答えるのは、知らない声。
「ロマンのないことを言うね。──くんはロマン派だと思ってたけど」
「ロマン派ってなぁ。絵の派閥みたいな言い方するなよ、──」
名前を呼び合っているらしいところだけ、くぐもって聞こえない。
ただ一つ確かなのは、声は聞いたことがないが、相手の話す雰囲気はクラウンそっくりだった。
「じゃあ、こう考えたらどうかな。空の青はね、塵が塵なりに、頑張って輝いている青なんだよ──」
ザザッ、と再びノイズが流れると、ループの風景に戻る。いつの間にか芸は始まっており、ナイフが頭上に落ちてくる。危ないと思ったが、もう遅い。
死を覚悟したそのとき。
とん、と後ろに押され、視界に赤い髪が飛び込んでくる。今では見慣れたクラウンの頭だ。クラウンはナイフの下に林檎を突き出した。
すぱぁん。
林檎がナイフによって、切り裂かれる。手品のように、いくつかに。合計八個に引き裂かれた林檎は、ランダムに選ばれた観客に振る舞われた。
林檎をもらい、美味しそうに食べていたうちの一人が言う。
「いやはや、ただのナイフジャグリングかと思っていたが、最後にあっと驚かされたよ。さすが、ピエロと名乗るだけあって、素晴らしいエンターテイメントだった。お礼にこの服をあげよう。甥のものだが、もう着ないという。後ろのナイフジャグリングを披露してくれた少年にぜひ」
「ありがとうございます」
クラウンがフードのついたその服を受け取る。パーカーというのだったか。くれた人物が睨んだ通り、少年にぴったりのサイズだった。
少年は唖然としていた。今まで、自分がナイフジャグリングをしていたことなど、一切覚えていなかった。あの苦い飲み物を飲んで、それから、それから。
ノイズの向こう側の映像を見ていたところから記憶がない。ナイフジャグリングのために、ナイフを握った記憶もない。だが、確かにナイフジャグリングをした感触は手に残っている。生々しいほどに。
なんだったんだろう。記憶が途切れているのもそうだが、一瞬のようにも思えた、ノイズの向こう側の声。ノイズの向こう側は、色がないのに不思議と青く感じられる空。記憶にはない自分の台詞、それに答えた相手の言葉。
「塵が塵なりに、輝いている青なんだよ」
少年は空を見上げる。やはり、空はどこまでもどこまでも青かった。
今日のパフォーマンスはそこそこ見事だったらしく、ぱらぱらとした拍手の後、食材だったり、服だったりがいつもよりたくさん置かれていった。
「大成功だね」
クラウンが振り向く。
「そうだったな」
少年は半ば上の空で答えた。それをクラウンはすぐにわかったらしく、気持ちが入ってない、とぺちんと少年の額を叩いた。いてっと声をこぼす。
っていうかさ、とクラウンが野菜ジュースを飲みながら言う。
「今日の芸、なんかおかしかったよ? いつもよりキレがあるっていうか」
「どうせいつもは下手ですよ」
「ご、ごめん、そういうことじゃなくって」
クラウンは戸惑いながら、口にする。
「なんだか、君が君じゃないみたいだった」
その言葉にはっとした。
確かに、ナイフジャグリングをした記憶がない。ではその間は一体、少年ではなく誰が、ジャグリングをしていたのだろう。
まるで、自分が幽霊にでもなってしまったかのような気分だ。この世のものではないような、違和感に溢れた世界の中心に、今、彼は立っている。
「……なぁ」
「ん?」
「クラウンから見て、俺ってなんだ?」
するとクラウンは、今更何を、といった顔をした。
野菜ジュースを一舐めし、告げる。
「友達だよ。当たり前じゃない」
友達。いつも言われている言葉だ。聞き慣れた言葉だ。今更二人の間に何の疑問も挟む余地はない。二人は友達。それ以外の何でもない。
少年はわかっていた。わかりきっていた。だというのに、何故かそのときのクラウンの「友達」という一言がやけに胸に突き刺さった。
呆然と空を見上げ、紡ぐ。
「そうか、友達か……」
ノイズの向こう側のあの会話は何だったのだろうか。友達。自分とクラウンみたいな喋り方の二人の会話が脳裏に焼きついて離れない。
「俺たちは、友達……」
では、あの二人はどうなのだろうか。あの二人もまた、友達なのだろうか。
もし、あの二人がクラウンと自分なら、もし、自分たちが自分たちでないとしたら、自分たちがあの二人だから友達なのだとしたら。
それは本当に、友達と呼んでいい関係なのだろうか。
青い空を見上げた。青すぎる空は少し、目に染みて、ちょうど少年の足元にあった林檎の上で生まれた雨滴が弾けた。




