旅へ
「ねぇ、父さん、母さん、俺、友達ができたんだ」
夕食を三人で囲む食卓で、少年は紫色の瞳にたくさんの感情を抱え込ませながら告げた。
緊張、高揚、喜び、不安。幸福と不幸な言葉がない交ぜになった感情の群は紫色の中で揺らめきながら、少年の決意を象っていた。
「その子はクラウンって言って、大道芸をする物乞いなんだけど、……一緒に、旅をしないかって」
父も母も、さして驚く様子を見せない。息子の一大決心を食卓を囲みながら、無表情で聞いていた。
すう、と大きく息を吸って、少年は問いを口に乗せる。
「ねぇ、旅に行ってもいいかな。俺、世界を回って、この世界のことを知りたいんだ」
好奇に満ちた決心。一世一代の大告白。だが、そんな壮大なのは少年の心の中だけで、両親には大した衝撃をもたらさなかったらしい。沈黙が、耳に痛いほど流れる。ただ食事をするだけの咀嚼音が部屋の中に谺するだけ。
しばしの沈黙を持って、判決は下された。
「父さんが反対しないのなら、別にいいわ」
そんな母の一言に対し、父は短く告げた。
「反対なんて、そんなもの、するわけがないだろう」
父は多くを語らない。語らない分、縛りという言葉とは無縁な人物であった。そして今までそうであったように、縛ることなく、少年をあっさり旅路に出した。
可愛い子には旅をさせよとか、そんな格言めいたことはそこにはない。ただ、やりたいようにやればいい。自由という言葉がそこにあった。
少年は早速、旅支度をした。持つべきものはほとんどない。少年に必要なのは、この世界の幸福な言葉のみを記した辞書と、母の部屋で見つけた青い欠片。今は小瓶に入っている。傷つけ、傷つかないように。
物乞いと共に旅をするのだ。後々必要になるものは、パフォーマンスで物乞いすればいい。……そうして芸を学ぶだけでも、少年はクラウンと過ごせる時間が長くなるから、喜ばしかった。
翌朝。オレンジ色の朝日が空を照らして、うっすらと藍色から空が青に変わっていく頃、少年は目を覚ました。今日にはもう旅に出るつもりだ。
気遣いなのか何なのか、いつもより早い時間だというのに、朝食が食卓に置かれていた。一人分。まだ皿が温かい。……おそらく、母が作ってくれたのだろう。
何万年と共に過ごして、少年はついぞ両親に愛があることを見出だせなかったが、もしかしたら、少年が気づいていないだけで、不幸な擦れ違いがあって、親の愛に気づけなかったのかもしれない。
愛は何よりも幸福な言葉だと、辞書の一番最初の項目に記されている。
温かいスープを飲んで、パンを半分千切って、少年は家で食べる最後の食事を済ませた。残したパンの半かけはそのまま持っていく。
公園に行くと、噴水の前に敷かれた煉瓦の縁にクラウンは腰掛けていた。クラウン、と声をかけると、彼はすぐにこちらを向き、少年の姿を見るなり、とても幸せそうに笑った。
「お父さんやお母さんからは、許可はもらえたんだね」
「案外とあっさり過ぎて、拍子抜けしたけどな」
軽く笑いながら、朝日の眩しい方向へと足を向ける。
「じゃあ、行こうか」
こうして二人の旅は始まった。
クラウンに、朝に残したパンを渡すと、クラウンは大層喜んだ。物乞いをするだけあって、普段からあまりいいものを口にしているというわけではなさそうだ。パンがふわふわだと感動していた。
そんなクラウンを見ながら、また少年には疑問が沸く。幸福なこの世界には不幸なことは存在してはいけない。それは幸福なこの世界の掲げる存在意義とも言えるものだ。だというのに、クラウンのように、物乞いしないと日々の生活に困る子どもが存在する。それは不幸なことではないのだろうか。
不思議なことに辞書を引くと、物乞いという言葉は載っていた。物乞いとは、家無し子のことを指す。家がないことは不幸であるが、その不幸から子どもたちを救うために、人々が善意を向けるべき存在だ、と記されていた。
善意とはもちろん、幸福な言葉だ。幸福な言葉で満たされれば、不幸な子どもは存在しなくなる。つまり、善意に助けられる存在である物乞いは決して不幸な存在ではないのだ──そう考えると、なかなか深いものを感じる。
もし、この世界を意図的に操作するものがいたとして、この世界を築いた者がいたとして、幸福という言葉をここまで追及しているのだから、それは何も不自然なことではないのかもしれない。
それなら、物乞いをして、自分は幸福になれるのだろうか、と少年は考えた。それで幸福になれてしまったら、ちょっと拍子抜けなような気もする。
ただ、隣を歩くクラウンの表情を見て、そんな懸念は吹き飛んだ。クラウンは心底楽しそうな表情をしていたから。
この旅は、楽しければそれでいい。少年はそんなような気がしてきて、紫色の瞳を思わず綻ばせるのだった。
「まず、今日はこの隣町で稼ぐとしますか」
前の町とは違った雰囲気の公園に、クラウンは荷物を下ろす。少年もそれに倣って、拠点のように荷物で埋めて、公園の一角を占める。
「そういえば聞かなかったけど、君は何か芸の類って持ってるの? あるなら見せてほしいな」
「あ、えと」
そんな問いかけをされて、少年はまごついた。一応、前のループ世界で、クラウンからボールのジャグリングは学んだ。ナイフもどきでナイフのジャグリングも学んだ。だが、人前で披露したことがないので、できるかどうかわからない。
それをかいつまんで説明すると、クラウンはあっさり頷いて言った。
「じゃあ、最初はボールのジャグリングだけやってみよう。後のことは僕がなんとかするから、君ができることを一所懸命に精一杯やれば、見てる人はその努力相応のものをくれるはずだよ」
そう語ったクラウンの面差しはやけに頼もしいものだった。
昼頃、ちょうど太陽がてっぺんに近づきつつあった。公園を行き交う人の流れはそこそこにある。昼時だからだろう、と思った。思ったが、こうやって町を人が歩くのを見るのは初めてかもしれない。
少年はここで気づいた。自分が今までどれだけ狭い世界の中に閉じ籠っていたのかを知った。
少年は引きこもりとまではいかないが、その異端性から、外に出ることは少なかった。あいつ、痛みを感じるんだって。妄想病だって。可哀想に。そんな言葉を聞くのが嫌で嫌で仕方なくて、いつからか家の中に籠りきり、外界を閉ざしていたのだ。
「さあ、そこ行くお兄さんお姉さんお嬢ちゃん坊っちゃん、みんな一時止まってみて。これから僕たちはなんでもないことをするよ。それはあなたには価値がないかもしれない。でもね、なんでもないことをなんでもないことのようにするのはとても難しいことなのです。僕たちの芸に何かを感じたのなら、哀れな物乞いの僕らに何か一つ、恵んでくださいな。代わりに僕たちは、あなたたちに素敵な一時を捧げられたら幸いです」
そんなクラウンの誘い文句は手慣れたもので、たちまち人が集ってくる。練習はしたものの、緊張は拭えないまま、観衆が少年の前に集まってくる。目、目、目が少年とクラウンに注がれる。様々な感情を孕んだ目だ。期待や好奇が多い。
少年が緊張にこくりと唾を飲み込むと、クラウンがそっと、少年の手を握った。見ると、クラウンがにこりと微笑む。
「失敗しても、大丈夫。僕らは道化なんだから。みんなから笑顔をもらえれば、ただそれだけで充分。失敗だって、道化に変えてしまえば、どうってことないさ」
クラウンの言葉に、緊張が抜けた。体の強張りが取れていき、しっかりとジャグリングのボールを握りしめた。
楽しもう。
クラウンはとても簡単で、けれど忘れがちなことを、はっきりと教えてくれた。
それだけで、充分。少年は初めての舞台に立った。




