幸福とは何か
少年はまず、辞書を探すことにした。「World Dictionary」といったはずだ。確か、父の部屋にある。
それ以外にも情報は必要だ。確か、幸せな物語として、おとぎ話は伝えられていたはず。その中に異世界の存在を示すものがあるだろうか。
少年は考えた。
幼少の折──つまり、五歳より以前というのは覚えていない。五歳まで自我が芽生えなかったからだろうか、と考える。まあ、自我のない時期のことを考えることほど無意味なことはない。
父の部屋で辞書を見つけた。例によって、高いところにある。そう何度も引っ掛かるものではない。とりあえず、父が帰ってきたら、取ってもらうことにしよう。
次は、母の部屋だ。あまり入ったことがないが。
「うわ……」
母の部屋は思っていたより少女趣味な部屋だった。年齢不相応というか。ピンクが濃い。それから、センスがない。驚きの発見だ。母がセンスの無さを露呈させないために、今まで彼や父を入れないようにしていたのだと言われても頷ける。男なら、これは引く。実際に、彼は引いていた。
と、気を取り直し、母の部屋を探索してみる。父の部屋と違い、本棚は小さいし、蔵書量も少ない。
「……あ」
なんだか絵本っぽい薄い本があった。カバーはハードだ。
タイトルは「幸福な王子」……どんな話だっただろう。
とりあえず、その絵本を持ち去ろうとすると、その傍に何かがあった。青い……欠片だろうか。何か、ガラスのようなものが割れた破片のような。
それに吸い寄せられるように手を伸ばす。
それが運命の歯車とも知らず。
「ああ、ようやく世界が動く」
虚空にて、サイがうっすら笑っていた。心底楽しそうに。実際、サイは楽しみにしていた。これから起ころうとしていることを。──世界の変動を。
少年が全ての鍵を握る。彼だけがあの世界において、鍵を握ることを許された存在だった。サイはそれを知っている。
だからこそ、サイに彼を消すことはできない。
「非情なものだよね。好きだった人はあんなに簡単に塗り潰せたっていうのに」
モニターの前で一人呟くサイの声を、誰も聞くことはなかった。
王さえも知らない、サイの目論見。
「痛い……」
欠片はまあ、見た通り欠片で、尖っていた。その鋭い中に指を突き刺したのだろう。人差し指の腹の部分から、つう、と血が出て盛り上がる。そこそこに痛かった。
ああ、こうして痛みを覚えていくんだな、とどこか虚しい気持ちを抱えて、血が出てくる浅い傷を見つめた。
この世界には、怪我という概念、傷という概念が不確かだ。当然だろう。痛みという言葉が存在しないのだ。怪我や傷があってはおかしい。それに、病気も。病気は症状が無自覚であるため、一度かかってしまうと、自然治癒しか方法がない。医者という存在はいるのに、薬が処方されるのは稀なことらしい。やはり、不思議というか、不自然な世界だ。
何が言いたいかというと、怪我をしても応急処置ができる道具がないのだ。悲しきかな。少年はとりあえず、血が止まるように、患部を圧迫した。学校や教科書には載っていないけれど、知っている。圧迫止血というやつだ。
この世界は不思議で不自然なことだらけだ。「痛み」という言葉を妄想病という割には、誰もが痛みという言葉を知っているし、それ以外の不幸とされる言葉も、辞書に載っているわけでも、学校で習うわけでもないのに知っている。先天的に知識があると考えるのが正しいだろう。だから否定はしても、痛み? なんだそれ、とはならない。不思議で不自然だ。
少年は幸福な王子という絵本を開いた。文字は読める。実質、何万年とか生きているのだ。もはや学ぶ必要もないほどの知識はある。
「……懐かしいな」
読みながらふと、そんなことを思った。おかしい。「幸福な王子」という絵本を読むのは初めてのはずなのに、不思議と初めて読む気がしない。
幸福な王子は大体まとめると、王子様の銅像が、その身を削ってまで民を幸せにしようと務めた、実に幸福なこの世界に相応しい物語だった。何と表現すればいいのだろう。幸福なこの世界が掲げるプロパガンタのような。
ほう、と息を吐き、ぱたりと本を閉じる。大して面白くもないと思うのは、少年が子どもと呼ぶには長い年月を生きすぎたからだろう。純粋な心では感動できない。他人事のように考えるこの思考回路も悲しいものだ。
ただ、幸福な王子の最期が、少年の胸に疼くものを覚えさせる。一見、幸福な物語に見えるこの物語は、本当は悲しみを浮き彫りにしている。まるで幸福なこの世界のようだ。
「……幸福な王子か」
何が幸福なのか、問いたくなるような物語だった。王子様は結局幸福だったのだろうか、なんて思うのも、少年がこの世界でただ一人、不幸だからだろうか。
紫色の瞳はゆらりと幸福な王子の隣に置かれた青い欠片を見る。血に濡れていたので、水で洗った。随分透き通った青だなぁ、と思った。空みたいだ。なんだか、切なくなってくる。
「でも、お前が痛みをもたらしてくれるなら、それもいいかもな」
なんて呟いてみたが、自分で言っておいて、一体何を言ってるんだか、と思った。
おかしな世界は回っていく。
そういえば、と人のいない家を出た。鍵はかけなくていい。幸福なこの世界には盗みに入るなんて不幸な思考回路は存在しないのだ。最初は不思議だったが、誰かによって操作されているのなら、この不自然なまでに完全性を孕んだ世界は何の不思議もない。不幸なことが存在しないのは、この世界が幸福であるように、誰かが操作しているのだ。そう考えれば合点がいく。
少年は公園に向かっていた。目的は一つ。
公園に行くと、赤い髪の男の子がいた。やっぱり、と思った。
この世界はループしている。ループしていることを知る者以外は、ループ以前と同じ行動を取ることが明らかになっている。
だから、あの子も──
「クラウン」
彼も、ここにいるのだと思う。
名前を呼ばれた赤髪の少年は目を丸くして、少年の紫色の瞳を見つめた。その目とかち合い、少年ははっと息を飲む。……右目が、白い。
以前のループで出会ったときも、そんな幻視をした。だが、今は幻視ではない。
息を飲む少年に、クラウンが苦笑して答える。
「あ、この目ね、生まれつきこうなんだ。やっぱり変かな」
少年は首を横に振る。変なんかじゃない。むしろ、少年にとってその変化は歓迎すべきことだろう。
世界が全く同じループを辿っているわけではないという証。つまり、世界が進んでいるという証なのだ。
そんな中、まだ少年は、自分がどうすべきかはっきりわかっていなかった。
だから、そっとクラウンに手を差し伸べて、できる限りの笑顔を浮かべて言った。
「俺と、友達になってほしいんだ」
初めて会ってこの一言はないだろう。前のループでいきなり話しかけてきたリエラを非難はできない。
けれど、少年の唯一の救いである少年は、にこりと微笑んだ。
「いいよ」
これが、仕組まれたことだとしても、
少年にとって、クラウンだけは絶対の存在であってほしかった。
虚空。全てが黒い世界。
「順調か? サイ」
サイはローブの下ではっきりと微笑む。
「順調ですよ、王様」
「それは何よりだ」
「もうすぐです」
「そうか、もうすぐか」
満足げに、王は呟きながら去っていく。
サイの顔にも、満足げな笑みが閃いていた。
それぞれの思惑が交錯しあって、今がある。ループは二人の人間に利用されている。
「だけど、それだけじゃないんだよ。だからボクは、クラウンを作ったんだ」
サイは画面を見て囁く。
「君の幸福な未来のためにね。──」




