捨てられない
花隣は、自分を救った写真が憎くて憎くて仕方なかった。おかげでコンクールの締切には間に合ったけれど、どうしても素直に感謝できずにいた。それどころか、破り捨てようとまで試みた。
でも、できなかった。
「ひどい、ひどいわ、さわくん、みーくん……」
そんなことを呟く日々を続けて、花隣の夏休みは終わった。
例年通り、残暑が厳しい。
そんな中、またしても、教師という名の上司からのパワーハラスメント、通称、二学期の始業式が行われた。
美好は校長の話を半分に、ちらちらと後ろを気にしていた。また半澤が倒れやしないかと心配でならなかったのだ。
だが、その心配は不要だった。この夏休みを経て、半澤は変わったのだ。美好からもらったリストバンドをつけ、カーディガンは相変わらず羽織っているが、肘の辺りまでまくっている。これなら、倒れるという心配もないだろう。
倒れるといえば、最近、転ぶことがなくなった。喜ばしいことなのだが、素直になれない美好は、いつまたこけるのだろう、と疑いながら過ごし、半月以上は経っていた。
恙無く始業式が終わり、終業式と同様、解放された雰囲気になる。いつもながらに校長の話は長い。あれはなんとかならないものなのか。
軽いホームルームを受けると、なんと非情なことに、授業が始まった。夏休み明けだというのに、学校はその余韻に浸らせてくれない。
授業、といっても、今日のはほとんど作業に近い。科目ごとに出された夏休みの宿題を回収して、宿題忘れたなんて馬鹿野郎を教師が叱りつけ、放課後のお約束を言い渡す。つまり、「学校に居残って補習を受けなさい」。なんて恐ろしいシステムだ、と思った。
当然美好は主夫業もこなしながら、宿題もちゃんと進めていたので問題ない。思ったより半澤と遊んだような気もするが、ご利用は計画的に。つまり、何事も計画性が大事ということだ。美好はぽかをやらかさなかった。
半澤はたびたび海道家に来ていた。だが、ただ遊びに来ていたわけでもない。時々写真に夢中になりすぎて忘れることもあるが、ちゃんと勉強会だってやったのだ。半澤との距離はこの一ヶ月余りで更に縮まったような気がする。
早めの放課。んー、と伸びをして、さくさく帰り支度をする。すると、バスケ部のやつがよぉ、と声をかけてきた。無視するほど無情ではない美好はなんだ? と返す。
「また助っ人頼む」
「懲り懲りだ」
「なら、半澤に……」
「半澤に言っても無駄だと思うぞ」
「何故そう言える」
ふう、と息を吐く。それから言ってやった。
「残念ながら、半澤はスポーツに覚えがない。その上、とある部活に入るかどうか検討中である。しかも、そのとある部活というのは確実にバスケ部ではない」
「理路整然なのがむかつく」
むかつかれても痛くも痒くもない美好は、じゃあな、と無情に立ち去った。まあ、自分たちのことは自分たちで解決できるよう頑張るべきだ。少なくとも、美好はそう思う。
別にバスケが嫌いなわけじゃないし、あのバスケ部員が嫌いなわけでもない。ただ、一度試合に参加してわかった。あそこは美好のいる場所ではない。
美好は根なし草のように帰宅部として放浪している方が性に合っているのだ。
と、廊下に出ると、なんという偶然か、半澤と出会した。
「やあ、うみくん、元気そうだね」
「お前もな」
久しぶりに会ったみたいな会話をしているが、つい昨日も会っている。だが、こういう他愛のないやりとりも大切だ。
だが、半澤の微笑みはすぐに翳る。
「どうしたとーる? 具合でも悪くしたか」
「ううん」
俯き加減で語り出す。
「園崎さんの元気がないみたいで……」
「ほう」
「魂が抜けたみたいっていうか、誰が声をかけても反応がなくて、みんな心配してる」
「それはいかんな」
ぼやきつつ、一つの可能性に辿り着く。──もし、コンクール出品用の絵が間に合わなかったのだとしたら。
花隣でなくとも、それは落ち込むだろう。スランプから脱しられなかった、ということだろうか。
ただ、もしそうだとすると、むやみやたらに声をかけることもできない。センシティブな問題だ。更に落ち込ませるような事態になってしまってはいけない。
「今は、そっとしておこうぜ。かけられる言葉がないんだ。自力で立ち直ってもらうしかなかろうよ」
「……そうだね」
一応、納得はしたものの、半澤は不安そうに教室を何度も振り返りながら、帰途に着いた。
半澤にああは言ったが、気にならないと言えば嘘になる。そのため、帰宅後、美好はメール画面と格闘していた。
花隣を傷つけないように、花隣の悩みを聞き出す方法はないだろうか。もしくは花隣を慰められる方法はないだろうか。
そうしてうじうじ悩んでいると、あっという間に夕食の支度の時間になる。姉が部屋に乗り込んできた。「よし、早く作りなさいよ。母さんのしょっぱい味噌汁食べたくないわ」とのこと。いつも通りだ。はあ、と憂いを帯びた溜め息を吐くと、姉は何やら気分を害した様子で美好を睨む。
「何よ、よし? 母さんの代わりにご飯作るって宣言したのはあんたでしょうに」
「悩める弟にそんな不躾な言葉しかかけられないから姉貴はモテないんだ」
「元々モテないやつに何言われても痛くも痒くもないわね」
素っ気ない姉だが、一応美好の「悩める」という部分を気にしたらしく、些か乱暴な口調ではあったが、何をうじうじ悩んでんのよ? と問いかけてきた。
美好は仕方なく、姉に相談することにした。女心なんて、女にしかわからんだろう、と。
「リンの様子がおかしいんだと。腐っても縁だ。お節介焼こうとしたんだが、何分慣れないものでな」
「あら、よしにしては気の利いたことをするじゃない」
「にしてはとはなんだ、にしてはとは」
「馬鹿ねぇ」
姉からはとめどなく、罵倒が溢れた。
「腐っても縁だって言ったのはよしでしょうに。だったら普通にどうした? とか、大丈夫か? とか、何気ない言葉をかけてやればいいだけじゃない」
姉にしては正論を言う。はあ、と息を吐いて、さっさと文章を書いて、送った。
文章は単純明快。うじうじ考えるのが面倒になってきたので、文面が些か粗雑なのは仕方ないことなのだろう。
美術室。花隣はぼーっとキャンバスを見つめていた。そんなとき、ケータイのバイブレーションが鳴った。
何かと思って覗き込むと、新着メールの知らせだった。差出人は「みーくん」となっていた。
他にすることもないので、メールを開く。その文面を読み上げた。
「リン、何かあるんなら聞くから、話したくなったら話せよ」
花隣は空笑いをした。実に、実に美好らしい文面だ。簡潔で聡明。それから誰も傷つけない。すごいと思う。
「……はーあ、なんで好きになっちゃったんだろう」
花隣は窓辺に向かい、空を見上げる。もう夏も終わり。蝉の鳴き声もほとんど聞こえなくなり、秋の虫の声が混ざり始めている。
雅なので一句詠んでもいいところだが、生憎、花隣は絵以外は苦手だ。
「あー、空が青いわ」
当たり前のことを呟いて、息を吐き出す。
花隣のこれは、所謂脱力感というやつだ。コンクールに出品する作品は間に合ったし、かなりの出来になった。絵画の中に吸い込まれるほどに。
それくらい精根込めて描いていた。描いている間はランナーズハイのようなものなのか、何も感じなかったが、描き終わると、絵に全精力を注いだために、今までにない怠さを覚えていた。花隣の様子が異様なのは、ただそれだけのことだ。
ただ、まだちょっと心に蟠るものがあるのも確かだ。まだ、悔しい。けれど、描いてしまったものは仕方ない。
「はあ……」
花隣は一枚の写真を見た。
半澤からもらった写真は、やはり捨てられないままでいた。




