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Unlimited Sky  作者: 九JACK
pierrot
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境地の世界

 お盆休みが過ぎると、夏休みなんてあっという間に過ぎてしまう、という印象があった。

 だから半澤は少し焦っていたのだが、とある写真を手にし、安堵の溜め息を吐いた。

 これで間に合う……はずだ。

 そう思って足を向けたのは、学校だった。

 花壇に水をやる、移動教室、以外はほとんど学校の中を歩いたことのない半澤は、少し道に迷うような不安を覚えながら、その場所に辿り着いた。まあ、一度ならず、何度も来た場所だ。生徒をやっているなら間違えない。

 美術室。そのプレートがかかった部屋の前で、半澤は立ち止まった。

 すう、と深く息を吸い込み、とんとんとん、とノックした。

「どうぞ」

 淡々とした返事は馴染み深い声。だがやはり、いつもより張りがないように感じられた。

「失礼します」

「……さわくん」

 入ってきた半澤の姿に驚いたように目を見開き、口元のほくろを押さえるのは、花隣だった。その姿を認めるなり、よかった、と半澤は胸を撫で下ろした。ここで花隣がいないようだったら、坂向こうまで歩く羽目になっていた。坂向こうで園崎といえば花隣の家しかないのだから、家の特定は簡単だが、そこに辿り着くまでにくたびれることは請け合いだ。何しろ半澤は肉体派ではないのだ。新田家から坂向こうまでは一キロ弱あり、その最中にはあの長い長い坂がある。暴走車も相変わらずいるようだったから、あそこを通るのを避けられたのはよかった。

 そんなことより。

「さわくん、美術室に来るなんて、珍しいわね」

「うん、園崎さんに用があったんだ」

 花隣が、私に? と首を傾げる。その花隣の前に置かれたキャンバス、画用紙の中には何も描かれていない。やはり、予想していた通りだった。

 半澤はファイルから殊更丁寧にあるものを取り出した。少し厚みのあるA4やらB5といった軛に縛られないサイズの小さな紙。裏向きで差し出されたそれは裏向きでもわかるくらいに写真だった。

「園崎さんに、あげようと思って」

「写真を? なんで?」

 うーん、と唸った後、半澤は照れくさそうに頬を掻いた。

「園崎さんの力になれたらなぁって思ったんだ。写真の模写は園崎さんの信条にそぐわないだろうけど、その写真なら、見るだけでも元気づけられるかなぁって」

「見てもいい?」

「もちろん」

 花隣は受け取るのが少し怖かった。半澤の写真の腕前は知っている。絵より上手い写真だ。それを見せつけられるのは、ひどく怖かった。

 だが、半澤の善意を無下にすることもできなかった。意を決して、写真を表に返す。

 思わず閉じていた瞼を開けると、そこには。

「これ、は……」

 花隣は言葉を失い、半澤に説明を求めようとしたが、半澤は既に姿を消していた。言い逃げならぬ置き逃げとは。……まあ、半澤も写真を渡すのに緊張していたのだろう。そもそも花隣に大嫌いと言われていたのだ。それなのに花隣にこれを渡しに来たというだけでも充分に勇猛果敢と言える行動だろう。

 花隣は、その写真を見て、言葉を失った。タコ殴りにされたような気分だった。無論、半澤にそんな意図はないことはわかっている。それでも、この写真は辛かった。

 けれど、むしろ、闘志を燃やす自分がいることにも気づいていた。

 写真はありのままを写すもの、絵は心を写すもの、である。心を写すという点において、写真に絵で負けるわけにはいかない。そんな思いが花隣の中に点ったのだった。

 花隣は鉛筆を手にした。この際、写真の模写でもなんでもいい。……いや、花隣はこの写真を絵に描きたかった。

 そう思っている時点で、花隣は既に敗北を喫しているのだが、今はその現実から目を背けた。

 悔しい、悲しい、寂しい。でも……美しい。

 半澤が渡したのは、そんな写真だった。夏休みが終わる頃には締切だ。もうつべこべ言ってはいられない。花隣は一心不乱に描き始めた。

 下書きはあっという間に終わった。そう思ったが、数時間かかっていたらしい。もう時計の針が正午に向かっている。普通なら昼休みを挟むところだが、花隣はそうしなかった。今、描ききってしまわないと、一旦筆を止めてしまうと、元の木阿弥になってしまうような気がしたのだ。何より、久しぶりに筆が乗っているというのに、筆を止めるなど、花隣の選択肢の中にはなかった。

 パレットに絵の具を出し始める。水彩絵の具だ。久しく絵が描けなかったので、触れるのも久しぶりだし、そのチューブから出される色も、なんだか新鮮に見えた。

 色を乗せながら思う。ああ、絵を描くって、こんな感覚だった。──徐々に花隣の中に今まで失っていた絵描きとしての感覚が戻ってくる。そして花隣は、不思議な体験をした。


 居眠りをしたつもりはない。色塗りの最中に居眠りなんてしたら、色がぐちゃぐちゃになって、これまでの勢いが全て水泡に帰してしまう。

 だが、花隣は夢の中にいるような感覚だった。夢ほどふわふわしてはいないが、ここが先程までいた独特な匂いを漂わせる美術室ではないことだけは明らかだった。

 辺りを見回すと、日の透け加減によって様々なオレンジを見せる花畑。青空の下に咲く花はこの世のどんな生命よりも煌めいていて、美しく、愛しく見えた。

 色彩が事細かに、全部わかる。このオレンジは赤と黄色の配合がこれくらい、こっちは黄色が強め、こっちは少し影がかかって、色の濃い部分と薄い部分がある。水彩ならではの重ね塗りの技法を使えば上手く表せるのではないか。それとも思い切って灰色を少し混ぜてみるか。

 花畑の中で、花隣はただひたすらに色の配合ばかりを考えていた。

 ふと顔を上げると、こちらを見ているわけではないけれど、綺麗に微笑む少年がいた。誰なのかはすぐわかる。何せ何年も傍にいて、何年も描き続けてきた存在だ。

 息を飲む。その輝かしい笑顔を、どう表したらいいのだろう。太陽の下で煌めくオレンジの花畑より難題かもしれない。──いや。

 私は一番知っている。こんな笑顔は見たことがないけれど、何年も描いてきたのだ。誰よりも彼がどんな色をしているか知っている。

 髪は、純粋な黒のように見えて、青みがかっている。黒い絵の具に少しだけ青を混ぜる。青くは見えないけれど、それだけでより目的とする色に近づく。

 代わりのように、目は思い切り下塗りで青を入れる。彼は純粋な日本人だが、空の青を写したような目に見えた。

 花に触れようとしている手の色は、今にも花のオレンジに潰されそうでいて、けれど確かにそこに存在する。……彼が触っている感触まで感じられそうだ。

 さわり、と風が吹いたような気がした。花の下で揺らめく緑の葉。踊るというほど激しくはないその揺らめきは、風を感じさせた。

 それから、空。これが一番大事だ。空の青の面積は少ない。けれど、この青がなければ、この絵は完成しない。色のバランスが取れないから。

 そう思っているうちに、やがてまた風が吹いてきて、オレンジ色の花畑を連れ去っていった。


「園崎さん」

 名前を呼ばれたところで、花隣ははっとした。見れば、部活の先輩がやってきていた。

「こ、こんにちは」

 慌てて挨拶をすると、先輩は苦笑した。

「最初は無視されてるのかと思ってたけど。ようやく戻ってきたみたいね」

「すみません、ぼーっとしてて」

「ぼーっとしていた割には、すごいのできてるじゃない」

「えっ」

 先輩に示され、キャンバスを見ると、そこには、先程現実ではないような……半澤の写真の中に引き込まれた世界の中で考えていた色が、塗り尽くされていた。そのことに、花隣自身が一番驚く。

 驚いている花隣をよそに、先輩は満足そうに笑っていた。

「さっきの戻ってきたっていうのは現実にって意味もあるけど、あなたが持っている芸術的才能というか、天性の勘っていうのがしっかり戻ってきたみたいね。スランプに悩んでいたみたいだったから、心配して見に来たけど、この分じゃ、もう心配も必要ないかな」

 先輩がそう紡ぐのに対し、花隣はほろりと泣いた。まさか泣くとは思っていなかった先輩が大層焦ったが、その宥める声も耳に入らぬほどに、花隣は様々な感情に満たされていた。

 嬉しい、悲しい、何より悔しい。

 一枚の写真に、絵描きとして救われたことが何よりも悔しかったのだ。



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