それぞれの思い
明くる日。
半澤はいつも通りに登校して、いつも通り、花壇に水をやっていた。マリーゴールドはまだ盛りだと主張するように目に鮮やかに咲き誇っていた。
そんな花たちの姿に半澤の顔も思わず綻ぶ。
「今日も元気に咲いてるね」
最近、やはり夏だからか、じりじりと暑くなってきた。そういえば、坂の向こうにある花畑と呼ばれる庭園は夏に閉まるという話だった。父とよく写真を撮りに行った思い出の場所なので、ちょっと寂しい。
だが、美好が最後に連れていってくれるという。楽しみだなぁ、と思っていると、からからと車輪の音がした。
「あ、海道くん。って、血塗れ!?」
「よう、はんざ、わ」
「わ」の音はほとんど空気に溶けるようだった。血塗れの美好はがしゃーんっとけたたましい音を立てて、その場に倒れた。
「海道くん? 海道くん!!」
ほとんど悲鳴に近いような声で呼び掛けながら、抱き起こす。腕は擦りむいたらしく、血塗れ。自転車に異常はないから、もしかしたら、自転車を庇うようにして転んだのかもしれない。だとしたら、体への負担は半端ではないはずだ。
少し躊躇いはしたが、ズボンの裾をめくると、足も盛大に擦りむいていた。半澤は痛ましげに顔を歪める。
「とにかく、運ばないと」
意識がないのが第一の問題だ。頭を打っている可能性がある。毎日毎日転んでいるので本人は気にしていなさそうだが、頭を打つというのは一大事だ。今はとりあえず保健室に運んで、先生に様子を見てもらおう。
半澤はお世辞にも力が強いとは言えない。だがそこは火事場の馬鹿力というやつなのか、必死だからか、いつも以上に走り回った。美好を抱き上げて保健室まで運んだし、職員室に行って教師を呼び、保健室を開けてもらった。美好の自転車のことも忘れず、放置されていたところから自転車置き場まで運んで、鍵をかけた。それから、教師の応急処置を受けた美好に、件の包帯を巻いた。
「……早く目を覚ましてくれるといいけど」
両腕と両足に巻いた。教師に気づかれないように。普通、どんな怪我でもあっという間に治せる不思議な包帯だなんて、胡散臭すぎるだろう。だが、この包帯はそれ以外に説明のしようがない。
……巻きながら、少し罪悪感が湧く。この包帯は半澤の血からできている。半澤がリストカットをした証だ。きっと命を削って、この包帯が作られているのだろうと思う。そんなもので助かって、果たして美好は喜ぶだろうか。……十中八九、ノーだと言える。
「でも、君を助けるためなら、僕は手段なんて選ばないと思うんだ」
そんな誓いがぽつり、他に誰もいない保健室の中に落ちた。
教室についてから、半澤は自分で予想していたよりも目の回る思いをすることになった。
「ちょっと、さわくん、かいとくんが倒れたって!?」
名前も知らない女子生徒に詰め寄られ、その勢いに圧されながら、半澤はかくかくと頷いた。
「大丈夫なの? ベランダから見てもわかるくらいかいとくん血塗れだったよね」
「あーと、保健室に寝かせてきた。意識はないけど、息はあるから死んではいないと思うよ」
そういう問題ではないと思うが、そう言って話をぼやかしておいた。
「さわくんが運んだんだよね? さわくんがあんな力持ちだなんて知らなかったよ」
「あ、いや、それは」
焦りが先走って、自分の力量とかは全然気にしていなかった。そんなにすごかっただろうか。
「みーくんが、倒れた……」
女子の輪の中にいた花隣が誰より動揺していた。顔色が蒼白になり、口元を押さえている。
さすがに周りの女子たちも気づき、花隣を見た。
「大丈夫? そのちゃん」
「うん……」
返事はともすれば聞き逃してしまいそうなほどに小さいものだった。半澤は見ていられなくて、目を逸らした。
やはり、花隣はつらいだろう。好きな人が倒れたのだ。心配にもなるだろう。気になって一日様子を見ていたが、不安なオーラが前面に出ていて、どこか上の空な彼女に声をかけられる者はいなかった。
昼休みになり、そろそろ包帯を取ってもいい頃合いだろう、と半澤は保健室に向かった。まだ、美好が目を覚ましたという話は聞かない。
保健室に行くと、案の定、同じベッドで美好は眠りこけていた。そっと覗くと、枕元に汗を掻いたスポーツドリンクが置いてあった。そういえば、花隣が一度見舞いに行ったと聞いたから、彼女からのものかもしれない。
カーテンをさらりと開けて中に入ると、ちょうど美好が目を覚ました。んん、と呻いた後、ゆっくりと瞼が開けられ、天井をしばらく見つめてから、こちらに視線が向けられた。
「あ、半澤」
「目が覚めたんだね」
なるべく感情を込めないようにした。少しでも感情を入れてしまうと、泣いてしまいそうな気がしたから。
「俺……」
「倒れたんだよ。全身血塗れで、びっくりしたよ。保健室に運んで、応急手当てをして、ベッドに寝かせたの。……と、それよりもまず」
半澤はずい、と美好に顔を寄せた。
「せめて止血くらいしてから起きてきなよ。びっくりしたんだからね」
聞いて、それもそうか、と美好は苦笑した。正常に会話ができているので、意識に問題はないだろう。
「あと、そこのスポーツドリンクは園崎さんから。園崎さんが一番大変だったんだからね。なんか一日中上の空って感じで」
「そっか」
園崎さんにあんな顔をさせられるのは、海道くんくらいだよ。
……心の中でそう呟いた。
「あと、先生に気づかれないようにこれをするのは大変だったかな」
美好から包帯を取りながら、そんなことをぼやく。美好が小さく、ありがとうと言ったのが聞こえた。どういたしまして、と答えておく。
「ま、海道くんが無事でよかったよ」
そうとだけ言い置いて、半澤は去った。
廊下に出ると、保健室の入口脇に花隣が立ち尽くしていた。
半澤が首を傾げてそっと聞く。
「入らないの? 園崎さん」
花隣は俯いたまま、半澤に問う。
「みーくん、意識、戻ったの?」
「あ、聞こえてた?」
それから半澤は笑顔で首を縦に振った。
「会ってあげなよ。たぶん、すぐ帰ることになるだろうから」
「え、なんで」
半澤は更に笑みを深める。
「先生がお母さんに電話したんだって。海道くんのお母さん、心配性っぽいからねぇ。先生がどう伝えたかにもよるだろうけど、倒れたってだけですっ飛んできそう」
すると、ようやく花隣にも笑みが浮かんだ。
「確かに、おばさまらしいわ」
それを見て、半澤が満足げな顔をする。
「園崎さん、やっと笑った」
「え」
「今日、雰囲気沈んでたからさ。少しでも気が紛れたんならよかったよ」
「さわくん」
「じゃあ、あとは二人でごゆっくり」
「さ、さわくん!?」
人をからかうなんて滅多にしない。けれど、半澤は今、そうしたい気分だった。気分がよかったのだ。
僕にも園崎さんを笑顔にすることができた。
それがやがて、ある決意へと変わっていく。
放課後。
「もう、みーくんったら、やっぱり帰っちゃったらしいわよ」
花隣が自ら半澤の方へ話しかけに来た。
「僕の予想は当たりっと」
「ちょっと、約束を反古にされた私は置いてきぼりですか」
「そんなことはないよ。何を約束してたのかな」
まあ、美好と花隣の約束など一つしか思いつかないが。
「もちろん、みーくんが、今日心配かけたからお詫びに描かせてくれるっていう約束よ」
やはり、絵のモデルのことらしい。花隣らしいというか。
微笑ましく思いながら、じゃあさ、と半澤は人差し指を立てる。
「これから、海道くん家にお見舞いに行かない? 一緒に」
……一緒にというのはだいぶ勇気がいった。だが、なんとか言うことができた。ほう、と溜め息を吐く。
花隣は少し考え込むようにしてから、にやりと首肯した。
「行きましょ」
「あ、その前に僕、家に寄りたいんだけど」
「確か、さわくん家って、スーパーのある方よね。それならお見舞いに手ぶらっていうのもあれだし、行きたいわ」
「じゃあ、一緒に行こうか」
こうして半澤は、少しずつ前に踏み出していく。




