第2話 アメとムチ
王城の最奥、女王・アリスの居室にて――。
まだ昼下がりにも関わらず、壁に掲げられた燭台は橙に灯っている。
それでもまだ薄ぼんやりと暗い。しかし、年代物の樫の椅子に深く腰掛けた女王の目はハッキリと、正面にいる娘・クリアスを真っ直ぐ、ハッキリと見据えていた。
時を刻む時計の音がしばらく続き、やがて、衣擦れの音をきっかけに女王が口を開く。
「――クーリ、貴女はいったい何を考えているのです。
今回は上手くいったものの、此度の……いえ、ここ最近の行いは目に余ります。
次期女王に向け、働きかけたい気持ちは分かります。
しかし、周りを無視したスタンドプレーは、決して褒められるものではありません」
穏やかであるが、苛烈さが感じられる声音であった。
再三の呼び出しを無視し、今回ようやく応じたのもあるのだろう。
それに対し、クリアスは特にこたえた様子も、悪びれた様子も見せない。それより逆に、どこか不機嫌そうな様子さえ伺わせている。
アリスはわずかに気持ちが荒立つのを覚えたが、それをぐっと飲み込み、平素を装いながら言葉を続けた。
「北東の【デルフィア】からの縁談もそのままに、部屋では夜な夜な遊び呆けている。
……と思えば、内々で《コボルド》と同盟を結び、《ケンタウロス》を呼びつけ、自作自演で名を挙げる――母には、貴女のしたいことが全く分かりません」
言い終えると同時に、疲れたように重いため息を吐いた。
きっと反抗期なのだろう、とアリスは考えている。
年齢にしては遅いが、己の退任発表をきっかけに、王族として抑制していた部分が割れようかとしているのだ、と。
そんな母の様子に、クリアスはゆっくりと顎をあげた。
「お説教は終わりましたの?」
「……クリアスッ、貴女は……」
「この際だから、お話しておきましょう。
わたくしは、お母様と同じ格好をする気はありませんわ」
「――ッ!」
アリスは膝掛けをぐっと握りしめ、前に体重をかけた。
「勘違いなさらないでください。
国を担う者としての責任は、しっかりと果たします。
ただし、わたくしなりのやり方で……ですがね」
「…………」
「なのでお母様は、己の脛の傷を隠すファウンデーションでも、お探しになっていてください」
「――ッ、クリアスッッ!!」
アリスは思わず大きな声と共に立ち上がり、娘をギッと強く睨みつけた。
誰にも見せたことのない形相であった。いや、一度だけあった。
しかし、娘・クリアスはどこ吹く風――平然とした様子で、母と同じ金糸の美しい髪をなびかせながら部屋の扉へと歩んでゆく。
ドアノブに掛けようとした手を止め、ここで初めて自分から母親の目を見た。
「近くに、新たな“ソース”の開発会を行いますので、よしなに――」
返事を待つつもりはない。
クリアスは一礼すると、まるで幽霊のようにすっと部屋を出て行く。
シン……とした静寂が周囲を包み、カチ、カチ、と時を刻む音だけが部屋に響く。
残された母・アリスは、しばらくふるふると身体を戦震わせ続けたが、やがて、やり場のない憤りをぶつけるかのように、荒々しく椅子に座り直した。
しかし、沸々と、鬱々とした気持ちは治まる気配はない。
アリスは両手で顔を覆いながら、がくりと頭を垂れた。
(……もう、どうすれば良いの……)
娘がこうなったのも、全ては己の撒いた種だ。
だが、その心労はもう限界に達しようかとしている。
◆ ◆ ◆
進次郎たちは、“自由市場”にて昼食と夜に向けての買い出しを行っていた。
宿探しは容易い物だった。例の【雨宿り通り】であれば、石を投げれば当たるほどの宿屋が立ち並ぶのだ。
無論、ここでなくともあるのだが……如何せん、二人の懐が心もとない。
“自由区”での宿泊料金は、平均的に一泊・銀貨三枚なのに対し、ここ【雨宿り通り】に置いては、高くてもその半値の銀貨一枚と銅貨一枚で済むのである。
「――しかし、カップル専用か。
確かに、お一人様で使われたらリーズナブルすぎるからな」
「一つが安売りし出したら、他も値下げしなくちゃならない。
そうなると、まず削られるのは金に繋がるはずのサービスだ、って父さんが言ってたね」
「確かにそうだな。経費削減つって、人員を減らすのもよくやるけど……結局、一人頭の仕事が増えて効率が悪くなっていくし」
買い出しの荷物を持ち、二人は他愛もない話をしていた。
男女の仲となった今、初めてその通りに足を踏み入れた時のような葛藤はないようだ。
(それもこれも、クリスティーナのおかげなんだよな……)
多くの者が行き交う喧噪の中。いつも彼女と会っていた場所に差し掛かると、ふいにその姿を探してしまった。
やましい気持ちはない。あの日以降まったく会えておらず、礼の一つぐらい述べるのが道理であり筋である。
――あの日、もし教会で助けてもらってなければ
ぶるりと身体が震わせてしまう。
行き止まりであったが、彼女がもし近道を教えてくれいなければ……どれを欠けても、今の幸せを、クレアを得られていなかったかもしれないのだ。
なので、一度きちんと彼女に礼を述べねば、気が済まなかった。
その進次郎の視線に気づいたのか、いつも近くで営業している小物屋の親父は『またか……』と言った表情で、進次郎を見つめていた。
(いつも軒を借りててすまんな……母屋を取るつもりは一切ないから――ってあれ、クレアは?)
またはぐれてしまった、と周囲を見渡し始めた。
初めてやって来た時も彼女を見失い、その結果ドワーフに絡まれてしまったのだ。
今回もそうなったら、と思うと気が気ではない。大慌てで人ごみを掻き分け、彼女の姿を探す。
(クレアはどこに……ああ、あそこか! ん……?)
幸い、すぐに見つけられたが、その光景に進次郎は眉根を潜めた。
クレアはそこから近くの場所、【雨宿り通り】に差し掛かる道で見つけたものの、そこで全く見たことのない筋肉質な中年男と談笑していたのだ。
その横顔は楽し気に見え、僅かに胸がチクリと痛んだ。
仕事関係か、昔の友人かと思っているが、進次郎の中で燻るものが感じられていた。
相手の体躯は遥かに上だ。しかし、足を前に向けずにはいられなかった。
「クレア――」
「ああ、シンジ! ……と、話こんじゃったみたいだね。
……何か表情が険しいけど、どうかしたのかい?」
「…………」
筋肉質の中年男は、じっと進次郎の顔を見ていた。
その眼は『何だお前は?』と言っているようで、進次郎も負けじと男の顔を睨むようにして見つめ返した。
一触即発か――そう覚悟した矢先、中年男の口が先に動いた。
「ああっ! やっぱり、いつぞやのアツイ坊やじゃな~いっ!」
「へ……?」
その野太い声に、進次郎は覚えがあった。
「もしかして、クレアのイイ人ってこの坊やのことなのぉっ?」
「え、えへへっ、実はその、そう……なんだよ」
「やだぁ~っ、もう~世間って狭いわねぇ……でも、クレア、あんた最高のオトコ見つけたわねぇっ!」
「そ、そうかい? い、いやぁ、あははっ……でしょ?」
「もう~、惚気ちゃってぇ。羨ましいったらありゃしないわぁっ!」
和気藹々と乙女トークをし始めた二人に、進次郎はおずおずと割って入った。
「あ、あのー……」
「ああ、ごめんねぇ~。シンジだったっけ?
今日はまだお化粧して化けてないのよ、アタシはいつぞやのレ・デ・ィ・よ!」
カマだろ、と進次郎は突っ込みたくなるのをぐっと堪えた。
「あれ? そう言えば、シンジって〔ヴィクトル〕と知り合いだったのかい?」
「ああ、この間うちに来たのよ~! もう、息を切らせて飛び込んで来るんだから。
何事かと思ったけど、彼ったらとっても熱くて、可愛かったわよぉ!」
「その節はお世話になりました」
進次郎はそう言うと、深々と頭を下げた。
「え、そ、そうなの、かい……?」
クレアは思わず口元を引きつらせ、進次郎の方を見た。
確かに、ヴィクトルと呼ばれた男からも双剣の存在を聞いている。
それに関し、個人の“趣向”について口を出すつもりはない。
しかし、他人事だと思っていたのもあってか、いざ“当事者”が身近にいると分かると、どう接していいか分からなくなってしまっている。
もしかすると、王女はこれを知っていて進次郎にあんなランジェリーを……と思っていた。
「シンジ、その……先に着た方がいいよね?」
「何を考えているか分からんが、お前は全力で何か勘違いしている」
「え? じゃあ、掘削する方――」
「違うっ!? 俺は至ってノーマルだ!」
「おほほほっ! 勘違いと言えばあれね、お姉さんは男専門だから、安心してねっ」
「え、い、いやっ……その、すみませんでした」
「いいってことよ。すらりとしたバニーモードじゃなくて、こんな筋肉質の男モードで話していたら、口説かれてるって思っちゃうのも当然だもんっ!」
どっちも変わらんと思った進次郎に、クレアは驚いたような顔を浮かべていた。
「そ、そうだったのかい……その、すまないね……」
「い、いや……こっちの早とちりだった……。
自分がこんな狭量な男だとは思わなかったよ……俺こそすまん……」
「そっそんなことないよっ、絶対に!」
「おほほほっ! 初々しくて二人とも可愛いわっ~!」
ヴィクトルはガバッと二人を抱きしめ、おろし金のような頬をこすりつけ始めた――。
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その日の夕方、進次郎とクレアは【雨宿り通り】の宿屋に入っていた。
ここは通りの中で、最も宿泊料金が高い宿である。
安いものの中で、最も高いものを選んだわけではない。進次郎はもちろん、クレアも当然知る由もないのだ。ただ店の構えと、外から沸き立つ煙でクレアが『ここだ』と決めた。
「なるほど、簡単ながらも風呂があるのか。これで千八百円程度は安いな」
素泊まり、銀貨一枚と銅貨三枚――進次郎は『ビジネスホテルに泊まるよりも安いものだ』と思っている。
風呂と言っても、蛇口を捻れば湯が出てくる物でもない。
石室の中には、湯炊き用のかまど、石を深くくり抜いた簡素な湯船だけである。
この国の“自由区”の者は、大体は水浴びか手ぬぐいで身体を拭くぐらいだ。
最近やっと“自由区”に国営のサウナができた程度、中流区域になって、やっと湯を張る風呂があるかどうかであるため、簡素でも画期的な方だろう。
どうして風呂が普及しないのか、と疑問に思っていた進次郎も、実際にそれを体験してみて分かった――。
「水を汲み、鍋で湯を沸かして湯船に投入していく……お手伝いさんを雇えるほどでなきゃ、こんなの毎日やってられんな」
「そうなんだよね……イヴは『ドワーフらは、巨大な鍋に直接入る』って言ってたけど、水浴びですら手間がかかってしょうがないんだよ。
――さて、こっちは水を張れたけど、そっちはどうだい?」
「ああ、いけるはずだ。湯を入れていくぞ」
大鍋で沸かした熱湯を掬い、慎重に水の中に移してゆく。
何度かそれを繰り返している内に、冷たい井戸水は次第に温かくなり始め、薄く細く湯気をゆらゆらと宙に伸ばし始めた。
その間、クレアは待ちきれないのか、湯を入れるたびに『もういいか?』と手を入れながら何度も訊ねる。その様子はまるで、ご馳走を前にした子供・子犬のようにも見えた。
しかし、いざ入れるとなると、急にモジモジとし始めチラチラと進次郎の方に目を向ける。
「どうかしたのか?」
「その、一緒に……入らないか、じゃない……入りたい、な」
「え、あ、ああ……そ、そうだなっ!」
上目遣いに、自分の意志をストレートに口にしたクレア。
初めて見る“女の姿”に、進次郎は思わずどぎまぎとしてしまった。
クレアは先ほどの中年男・ヴィクトルに『こうした方がウケがいい』と聞かされており、それが功を奏したようだ。
互いに背を向けあい、互いの衣摺れの音を意識しながら、着ている物を脱ぎ落としてゆく。
隣の寝室には、茜色の夕日が差し込んでいる。浴室の中もまた、ランプの灯りによって茜色に照らされている。
そのランプは禁断の果実のようでもあり、浴室にいる男女はその林檎を食した直後のようであった。
「――あ、あははっ……何だか、は、恥ずかしいね」
「そ、そうだな……」
ベッドの中で裸になりあっても、こうしてじっくりと見合うのは初めである。
行為の後、寝入った隙に見たことはある。
だが、それとはまた違う――ここには神秘的にも近い“情”がそこにあった。
男は違う“性”を見た。身体つきはしっかりしているものの、豊かな“女らしさ”がそこにある。
手で隠し身をよじるせいか、太ももの付け根の溝はより濃くなっている。
男の視線に気づいた女は、手で覆っていた自然な茂みを露わにした。
女も違う“性”を見た。これまで想像していたものとは違うものの、いくら強がって見せても、己が“女”であると気づかされる。
彼女が初めて“男”を見た時、絶句してしまったほど、己の知る世界は狭かった。
少し慣れてきたが、やはり恥ずかしいものは恥ずかしい――。
互いの身体で隠し合うように身体を寄せ合い、唇を求め合う。色濃く広がる朱色の肌は温かく、柔らかい。背中に回された男の手に撫で上げられると、全身がふるふると震え、胸から熱い吐息が漏れ出てしまう。
それから更に下に伸び、進次郎の手は大きく丸い臀部に差し掛かった。
「まだ、だめ……だよ」
先に湯浴みだ――と、クレアは熱っぽい目で焦らした。
進次郎は露骨にガッカリした顔を浮かべたが、それはクレアの悪戯な心をより刺激するものである。
それを証明するかのように、湯船の中では彼女が主導権を握った。
薄く色づき始めた白い柔肌。後ろで束ねた髪から、艶めかしいうなじを覗かせる。
背後に回っている進次郎の手が双丘の峰に、その頂上に登ろうとするが、クレアは蚊を叩くようにパシッと払いのけた。
進次郎は唇を尖らせながら身を引くと、今度は自らが腰や臀部を押し付け、“男”を猛らせる。なんだ――と再び寄ってくれば、今度は肩ごしにお湯をお見舞いする。
クレアは楽しくて仕方がなかったが、進次郎は不満でいっぱいだった。
(そろそろいいかね……?)
頃合いを見計らい、クレアは先に上がってベッドで待つよう指示した。
進次郎は唸り、渋々と言った様子で軽く身体を拭きながら、隣の寝室へと向かう。
少し罪悪感があったが、飴と鞭はやり過ぎる程度がよいと言い聞かせ、持ち込んでいた紙袋の中身を取り出した。
(でも、本当にそうなんだろうね……?
国民の趣味・趣向まで知っている王女ってのも、何だか気分のよいものではないけど……)
それは、下着の中に入っていたメモであった。
【彼はおっきなお尻が好き】
――身も蓋も無い。
だが、それを信じて“ご褒美”をあげる準備と覚悟を決めていたのである。
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ベッドに腰掛けた進次郎は、このままふて寝してやろうかと思っていた。
しかし、準備万端のそこは眠ってくれそうにもない。彼の胸には悶々としたものが漂い続ける。
(向こうがその気なら、こっちもそうしてやるからな!)
まずは、浴室から出てきたクレアを一瞥しただけで、そっぽ向いてやろうとしたが……それは早々に失敗してしまった。
「お、おおおおっ!」
そっぽ向くどころか、進次郎は二度見した。
深紫色のベビードールに包まれ、胸元で一つ結ばれただけのスリットから、隙間だらけのブラとショーツが覗いているのだ。
クレアは後ろ髪を持ち上げるような仕草をしながら、進次郎に訪ねてみた。
「ど、どうかな……?」
「あ、あぁ……」
そんな物どうしたんだ、と言いたげな目をしているが、言葉が出てこないようだ。
「お、王女様が『この前のご褒美に』って、くれたんだよ……。
それでその、ただそのまま渡すのも癪だからさ、私からの“ご褒美”もあげようって思って、さ……」
「ご、ご褒美……っ?」
「うっ、うん……」
クレアは古めかしいベッドの上に乗り、ギッ……と軋ませながら四つん這いの態勢をとった。
「おおっ……!」
「し、シンジはそのお尻が好きって聞いたからさ、その……今日だけ、“お仕置き”しても、い、いいよ……! は、恥ずかしい――っ!」
「誰情報だ!? いや、合ってるけど――い、いいの?」
「き、今日だけだからねっ!
でも、あまり跡が残らないように、して、おくれよ……?」
進次郎は身体中がぞわぞわするのを感じていた。
だが、同時に妙な疑問も湧き上がる。
「何で、尻好きでその“お仕置き”になるんだ……?」
「尻好きは、“尻叩き”するのが好きな男のこと、じゃないのかい……?
雑誌の特集で見たことあるんだけど……」
進次郎は思わず苦笑を浮かべてしまっていた。
クレアは耳年増であり、たまに偏った性知識を披露するのである。




