第5話 クリアスの馬鹿っ!
大地が地響きのような唸りをあげ、踏みしめた土が天高く舞い上がった。
馬が駆けた。それに、山彦のように犬の遠吠えが連続して起こる。
背後ではラッパや太鼓など思い思いの騒音をかき鳴らしているが、今はそれどころではない。
「ううう、馬ってこんなっ、速いのっ、かっ!?」
「あまり口を開くと舌噛みますよ」
耳の中でごうごうと風切り音が鳴り響き続ける。
まるで大型二輪で足場の悪い高速道路を走行している気分だった。わずかにでも身体のバランスを崩せば終わり――いくら小憎らしくとも自身が乗る・マファルを信じるしかない状態なのだ。
(馬の平均速度は四十から五十キロ前後だって言ったじゃんっ!?)
競走馬は平均的には時速六十キロ程度で走る。
しかし、この世界の《ケンタウロス》はそれ以上……時速八十キロは出ているのではないか、と思えるほど世界が高速で流れてゆく。
高速道路では五分もすれば速度に慣れてくると言う。
だが、それはあくまできちんと整備された道路や、しっかりと集中して運転できる環境にあってこそであり、絶対に慣れないかもれない。
『しまっ……っ!?』
『バカッ、こんな所で――ぐぁっ!』
後ろの方にいた《ケンタウロス》が草に足を取られ、前のめりに転がってゆく。
馬間距離を取っていない状態であるため、一人が転べばその後ろが巻き添えを喰らう。それが転べばまた後ろのが……と、その近辺を走っていた者たちが次々とクラッシュしてしまうのだ。進次郎が振り向いた時には、幾多もの馬が折り重なって倒れていた。
それは倒れているだけではない。後ろから追い立ててくる犬の群れが、次々と彼らに群がってゆく――。
「倒れたやつぁ置いていけッ!!」
マファルが激を飛ばす。音で分かるのか、前を走っていても後ろの仲間の行動が全て把握できているようだ。
《ケンタウロス》は実力社会。上の者からの命は絶対であり、助けに行こうと速度を緩めた者は、後ろ髪を引かれる思いで再び速度を上げた。
人馬一体と言うべきか、進次郎にはマファルが断腸の思いで命じたのが、馬具代わりの座布団からひしひしと感じられている。
『助けて、助けてぇぇぇ――!』
見捨てられた者の悲痛な叫びに、誰もが目をぎゅっと瞑って耐えていた。
「クソッ、今度は西からか――ッ!」
左の方角からやって来た《コボルド》の群れに、マファルは旗を掲げて進路の変更を報せる。
すると犬の群れを避けるかのように、それは寸分たがわぬ曲線を描き始める。
しばらく進むと今度は右から、次は左から、と犬の群れを見るたびに大きく進路変更を余儀なくされてしまう。
それを見た進次郎は、ふとあることが頭をよぎった。
「これってまるで――」
「俺達が羊じゃねぇかッ――」
マファルはどこか驚いた表情を浮かべていた。
進次郎と同じことを、『牧羊犬に追われる羊のようだ』と言おうとしていたのだ。
事実そうであった。最短で《コボルド》領を抜けるつもりであったのが、どんどんと彼らの領地の中に誘導されてしまっている。
追われる羊は、仲間を逃すために己を犠牲する。その羊となった《ケンタウロス》もまた、一人、二人と、雑草の中の《コボルド》の群れに向かってゆく。
「馬鹿野郎ッ、こんな状態で犬と真っ向勝負して敵うわけねぇだろうがッ!
こんな時に無駄な犠牲を出すんじゃねぇッ!」
その言葉の通りであった。
隠し持っていた武器を手にして突っ込んでゆくが、《コボルド》はひょいと後ろに飛び退いてそれを躱す。
《ケンタウロス》はそれを追うが、彼らは正面しか見えていない。
誘い込まれたと気づいた時にはもう遅く、左右から飛びかかられた馬は嘶きと共に草地の中に姿を消した。
冷静であれば、少なくともこんな無様は結果にはならなかったであろう。
これまで遊び呆けていたツケが、彼らを襲い始めていた。
「は、はぁッ……クソッ……!」
マファルの息が上がり始めている。
装備が重い――肺が引っ張り上げられ、口から吐き出しそうなほどの苦しさが、彼の身体を苛めていた。
彼だけではない。他の者たちもまた、同じように息が上がってしまっており、走るのを諦めた者も出てきた。
「た、タバコ、や、止めるかな……」
人間を背に乗せて走ったからだ、と言い訳しそうになる自分に嫌気が差す。
進次郎を背に乗せていることは問題ではない。これまで酒やタバコを嗜み続け、鍛錬を怠り続けていた結果が、この体たらくである。
本来であれば、《ケンタウロス》は三日三晩戦闘し続けられるほどのタフさを持ち、彼らはそれを誇りとしてきた。
今やそれが少し本気で、二十分程度走っただけで息が上がり、戦うことを諦めるほどの無様な姿を曝している――マファルにとって、これほど腹立たしいことはない。
その時、彼の背中で進次郎がモゾモゾと動いていることが分かった。
「おいッ、何してんだッ!」
「鎧を脱ごうとしてるんだよっ! 少しでも軽い方がいいだろっ!」
「……ぐっ、よ、余計なことすんじゃねぇッ!
テメェなんざ、いてもいなくても変わらなねぇんだッ! ちゃんと着とけッ!」
ライバルだと思っている族長の息子・ブライアンはちゃんと鍛錬をし続けており、今も涼しい顔で走り続けている。
なのに、今の自分は何だ? ついに脆弱で、貧弱な人間にまで気遣われる――これが誇り高き、猛者として名を馳せた《ケンタウロス》の末裔の姿なのか?
だが、その人間のいらぬお節介のおかげで腹が決まった。
――何がなんでもこの王女とその従者を届けてやる
馬の蹄で柔らかな草地を強く踏みしめた。
もうすぐリーランドに王都に繋がる、硬い地面の馬車道に差し掛かる。
そこは草ではなく、土の道……そちらの方が得意なフィールドだ。
「さて、そろそろ頃合いでしょう。
さて進次郎さん、問題です。これは何のマークでしょーか?」
クリアスはそう言うと、ポケットから一枚の紙を広げて見せた。
そこには、赤い丸帯の中に『40』と書かれた絵が描かれている。
「何だ? 【速度制限】の標識……?
それは『その速度を超えて走っちゃダメ』って、意味――ま、まさかお前っ!?」
このロクでもない内容の作戦を知っていれば、絶対に手を貸さなかっただろう。
クリアスはニヤりと笑い、彼女の策に気づいた時にはもう、手遅れだった。
視線の先には、どこかで見たことのある犬が、ヒッチハイカーのように丸い盾を手にして立っているのだ。
「わ、ワンコ、お前裏切る気かッ!?
止めろッ、そ、それを表に向けるんじゃないッ!」
ワンコは満面の笑みと共に、手にしている盾の裏――白地に赤い縁取り、真ん中に青色の【20】と書かれた【制限標識】を高く掲げた。
「――二十キロ制限ってアホかッ!? 原付以下の速度だろうが!!
ハッ、しまった!? 馬は例外だからなっ、馬は除くからなっ!?」
「進次郎さん。貴方は以前、『馬は軽車両扱いだ』って言ってたでしょう。
だからね……アウトなのデース」
「やだ……この女、すっごい馬鹿……っ」
天使のようなクリアスの笑みも、進次郎には悪魔の笑顔に見えている。
しかし、他の《ケンタウロス》は何のことか分かるはずもない。
ただの“裏に数字が描かれた盾”を、横目で見過ごしてゆくだけだった。
「おいッ、お前らは何の話してんだよッ!」
「この王女は馬鹿だよ! 不敬罪にあたってもいい、この王女は馬鹿だッ!」
「おっほほほっ! 心地よいので、今日ばかりは許して差し上げますわ」
「さっきから何を――な、何だあれは……ッ、ま、まさかあれは!?」
陽の光が遮られ、巨大な黒い影が大地覆った。
進次郎はその影の正体を知っている。
この国の守護神――<巨神兵>がやって来たのだ、と。




