第9話 きっかけ
集まってきた近隣の住人たちに横断歩道の説明を済まると、進次郎はクレアに連れられ、風呂屋にやって来ていた。
風呂と言っても、浴室に入るタイプではない。
王女の発議によって建てられた、大衆向けのサウナであり、久々の現場作業で疲れた身体を癒すにはありがたいものだった。
「綺麗だし、いいサウナだったな。
店の雰囲気からして、結構高そうだったけど」
「そうなんだよ……あそこ、中銀貨一枚も取られるんだよ!
一回の報酬で大銀貨もらえれば御の字だってのにさ。
ああ、毎日通えたらどれだけ幸せかって思えるね……」
進次郎はメモ帳を開き、クレアから教わったこの国の貨幣のまとめを開いた。
【・大金貨:十万円相当 大銀貨:五千円相当 銅貨:五百円相当
・中金貨:五万円相当 中銀貨:二千円相当 破損・小さい銅:百円ぐらい
・金貨:一万円相当 銀貨:千円相当
※重さによって都度価値が変わる(ボッタクリに注意)
※緑の大公領の通貨は受け取らない(両替えが面倒)】
「中銀貨、中銀貨って言うと――なるほど、確かに一回でそれだと少し高いな」
「私はアンタの所の字が読めないけど、貨幣価値も結構ややこしいんだね」
今回はダヴィッドから優待券が送られていたため、気兼ねなく入浴を楽しめた。
潤いを得たクレアは肌には艶があり、頬を朱に染めた顔はそこはかとなく大人の色香を感じさせる。
思っていた以上に身体がぽかぽかと温もり、ひたひたと眠気が歩み寄ってきている。市場に買い物に行く予定は中止し、まっすぐに事務所に帰って昼寝でもしようか――などと話をしていた時であった。
工事終了から二時間くらいが経過しているにも関わらず、何やらそこからワイワイガヤガヤと賑やかな声が起っていることに、二人は小首を傾げ合った。
「……何だろうね?」
「……もしかして、事故でもあったのか?」
「まさかっ! ワンコも残っているし、大丈夫なはずだよ……っ」
風がざわりと鳴ると同時に、クレアは無意識に駆けていた。
ワンコは手にした赤い棒が気に入ったらしく、作業が終わっても『ここの使い方教える』と、しばらくそこに残る意志を伝えている。
心が青ざめ温まった身体が冷えてゆくのが分かった。獣人・《コボルド》がいて事故はないと思うも、二人の気持ちはそれに反してしまう。
小走りに坂道を駆けあがると……眼前に広がったその光景に、二人は思わず目をぱちくりとさせた。
「おや、クレアじゃないか! アンタ、いい仕事したじゃないかっ!」
「お、オバちゃんっ……! こ、この人だかりはいったい何なのさ!?」
「何って……アンタがやったんじゃないの!
シンジだっけ? 二人の始めての共同作業! それが大反響なんだよっ!」
「きょ、きょっ――」
思わぬことばに動揺したクレアであったが、進次郎も同じくどきりとしてしまった。
ちょうどそこにガラガラと音を立てて馬車がやって来た。結構なスピードを出していたが、しっかりと減速し、停止線の位置でピタりと止まる。それを確認すると、何人かの通行人が横断歩道の上を歩き、向こう側に渡る――そして、ワンコが歩行者を一区切りすると、馬車を通してゆく。
どうやらそこは“事故”があったわけではなく、案じていた不安とは真逆のことが起こっていたのだ。
進次郎の胸に迫るものがあった。アタリマエのごく見慣れた光景だが、【横断歩道】を渡るだけで喜びに満ちた笑みを浮かべる者なんていない。
初めて自分の手で作り上げたものが、人に感謝される――半人前ながらも、一端の職人の誇りを感じていた。
そんな達成感に浸っていると、ぐっと作業服の袖を掴まれたことに気づいた。
「クレア……?」
「ぅっ……ぐすっ……ご、ごめん……」
「構わないよ。これが“当たり前”の世界で生きていた俺ですら、胸にくるものがあるんだから……頑張ったな」
「うぅぅっ……」
目元を抑えていたクレアは堪えきれず、進次郎の腕に顔を押し付け、声を殺して涙し始めた――。
どうしたらと動揺している進次郎は、ふとワンコの視線を感じた。
(なに? 肩――? 抱く? 毛? ……肩を抱けってか!?)
ワンコは大きく頷くと、そこに居た者たちも大きく頷いた。
ここで何もしないと言う選択をとれば、間違いなく総スカンだ――進次郎は身の危険を感じ、たどたどしいながらも、壊れ物を扱うかのようにそっとクレアの肩に手を回した。
彼女はそれに、ピクリ……と身体が震わせたが、拒否する様子もなく掴んでいる手をぎゅっと握りしめただけである。そしてそのまま、進次郎の肩口に涙を染みこませた。
進次郎はこれからどうしていいか分かっていない。
周りも、長く停車させられている御者ですら生暖かい視線で見守っているのだ。
しかし……ある一画を除いて。
(――あ、あのクソジジイッ、まだ街に居たのかっ!?)
ただならぬ殺気を感じ、路地に目をやるとそこには……例のドワーフが鬼の形相でこちらを睨んでいたのだ。声に出さないが、もぞもぞと動く髭からして何らかの呪詛を述べていることも分かる。
(『コ・ロ・ス・ゾ・?』 知るか馬鹿――ッ!)
クレアが落ち着くまで、進次郎は針のむしろの気分を味わい続けることとなってしまった。
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事務所に戻って来た二人は、道具の後片付けをそこそこに、しばらく仮眠を取っていた。
そのおかげか、戻ってきた直後のむず痒いような、気まずいような雰囲気も落ち着き、多少のぎこちなさを残すだけとなっている。
『あ、あははっ……』
ぼうっとした寝起きの顔で、クレアのはにかんだ笑顔を見た時、『あれは夢ではなかった』と、おぼろげな記憶が確たるものとなった。
彼女は今、近くの井戸にて水に浸けていた作業服の洗濯と、使ったハケやローラーの掃除をしに行っているため、事務所の中はガランと静まり返っている。
(クレアが嬉し泣きしたのも分かるな)
進次郎はコーヒーを啜りながら、じっとクレアのことを考えていた。
後を継いだこの【ラインズ・ワークス】は、父親の実績と信用で持っていたようなものだ。彼女自身の手による結果を残せておらず、“成り行きで引き継いだ二代目”に甘んじていた。
責任感の強い彼女であれば、鶏のくちばし程度であろうとも、己の力で“一国の主”にならねば納得がゆかないはずだ。
そこに加えて、女王の退任表明による発注量の激減――仕事はなくとも最低賃金は払わねばならず、何人かいた従業員もそれぞれの地元に帰り、副業で生活している状態であると言う。
クレアも『このままでは……』と、危惧したに違いない。
何らかの結果と打開の糸口を求めていたその時、最後の望みとなる進次郎がやって来た。
あの【横断歩道】は近隣住民だけでなく、彼女にとっても“世界”へ渡るための、本当の“責任者”となるための架け橋となったのである。
ともなれば、彼女の喜びはひとしおだろう。
――任せたぞ
進次郎がこの事務所に帰ってきた時、そんな声が聞こえた気がした。
責任感が生まれたような感覚であったが、同時にある“懸念”も生まれていた。
(この国の土木作業員は今、何かの大規模工事にかかりっきりみたいだし、今の内に盤石の体制をとらなきゃならない。
……となればこの先、必要になってくるのは“人手”か)
主たる“ルール”を知っているのは進次郎しかいないため、ダヴィッドはここをメインに発注してくるだろう。
しかし、進次郎とクレアの二人だけではいつか限界が生じる。道を制限・封鎖している間に作業を終わらせねばならないため、時間がかかればかかるほど難儀なことになってくるのだ。
これに進次郎は難しい顔を浮かべた。
――せめて後一人は欲しいところだ
やはり従業員を……と思ったと同時に、クレアが戻ってきていた。
黒い半袖のシャツの袖を肩までまくりあげ、今にも鼻歌を歌い出しそうなほどご機嫌な様子である。
「どうしたんだ? やけに嬉しそうだが」
「分かる? くふふっ――実はさっきダヴィッド様がやってきてね、なんとお褒めの言葉を頂いたのだーっ!」
「おおっ、それは良かった! ……で、貰ったのは言葉だけじゃないな?」
「うっ……やっぱり鼻が効くね……」
喜怒哀楽――クレアは、顔にハッキリと感情が現れる。
彼女のこの豊かな表情の変化は、進次郎も見ていて楽しくなるものであった。
「実はね、ふふっ……何と今回の報酬に、金貨一枚と大銀貨一枚もらったんだよっ!」
「な、何だとっ! ――えぇっと、確か中金貨一枚で中流の生活を送れるから……。
なるほど、それなりに食うに困らない額だな!」
「……アンタも時々、もの凄く雑な計算するね。
ま、この辺りじゃ金貨一枚でもあれば、三月は不自由なく暮らせるよ」
「む……そう思えば、かなり大盤振る舞いだな。
上流階級の感覚がズレているのか、これが真っ当な評価なのか……」
「ダヴィッド様は庶民の味方だからね。
【女王の盾】と呼ばれる近衛兵長で、クリアス王女派の筆頭――仕える主君の評価が上がるなら安いもんだよ」
「政治利用……プロパガンダってやつか?」
クレアが言うに、大公派も何度か玉座と円卓に就いたことがあるらしい。
しかし、彼らは帝国主義であり、利権を最優先に考えた政策を打ち出してきた。
城は権力の象徴――蒸留するほどに、美酒を味わう街を作り上げてしまったのである。
「特に四十年前は酷かったみたいだよ。
女王陛下がまだ幼い王女だった時は、戦争があって王座取れなかったみたいでさ。
この街だけじゃなく、近郊の村や橋……数年で失脚したけど、未だにそれらに放置されて、補修が終わってない建物とかも少なくないんだよ」
点検・整備・修繕にかかる費用を削減、利権絡みの不必要な延線により、歪な構造までも作り上げたようだ。
その構造を正すと言った意味では、二人のしたことは大きなアピールとなる。
「元々から浮世離れしてる連中だけど、中でもクリアス王女は特に奇人らしいね。
何でも、夜な夜な奇妙なドレスを着て、扇子を振り回してるって聞くし」
「側近が印象アップに乗り出すわけだ……」
あまりおかしな印象を持たれると、国政と次の玉座が危ういと踏んだのか……と、進次郎は考えた。
しかし、その王女がこの国に新たな風をもたらしたのは事実だ。
国を護る巨大な人型兵器すら飼う者たちだ。何か現代に帰るための方法を知っているかもしれない、唯一の手がかりである……とも。
「ああそうだ――。
ダヴィッド様から、カードに貼り付けるシール貰ってたんだ」
クレアはそう言うと、小さなハート型のシールを進次郎に手渡した。
残り十九個……空欄がズラリと並ぶそれは、またまだ先が長い。
じっと空欄を眺めている進次郎を見て、クレアは不満げに唇を尖らせた
「私なんかのために、“罰”を受けなくたっていいのにさ……お節介な男だね」
「クレアのことを思えば、これぐらい何てことないぞ?
女性があんな目に逢わされてるのに、黙って見てたギャラリーの方が信じられないぐらいだ」
「そっ、そう……」
「それに、あの人は何があっても、俺にこれを渡すつもりでいたと思うぞ」
「……ダヴィッド様が? 一体どうしてそう思うんだい」
父親の友人であり、彼女も長く面倒を見てもらってきた人なのだ。
クレアが疑問に思うのは尤もである。
しかし、進次郎は初めて顔を合わせた時から、ある疑問を抱き続けていた。
「――あの人、どうして俺の名前を知っていたんだ?」
初対面であるにもかかわらず、ダヴィッドは『シンジロウ』と呼んだのである。




