第1話 明るい兆し
新たに王都に設けられた【横断歩道】の話題も、三日もすれば落ち着きを見せる。
だがそれは、ごうごうと燃える火が消えただけにすぎない。
最初は物珍しさだけであった。しかし、意味と効果のほどが浸透してゆくと、街の者たちの関心は【ラインズ・ワークス】へと向けられた。
次第にそれは“羨望”へと姿を変え、“新たな風”となって、燻っていたそれを扇ぎ、街を再び沸き立たせる熱気を与えたのである。
次々と舞い込む依頼。好スタートを切り、忙しくなったことに嬉しい悲鳴をあげたのもつかの間――それから激動の二週間を送ることになってしまう。
この日も“自由区”の支線だけでなく、メインストリートとなる幹線まで作業が及び、朝から日が傾き始める頃まで――二人はハケとペンキ缶を握りしめていた。
「あ、足腰の筋肉痛がヤバい……」
「私は肩と腕がパンパンだよ……。シンジ、ちょっと揉んでおくれよ……」
クレアは汗で湿る作業着の上を脱ぐと、進次郎に滑らかな曲線の背を向けた。
現場終わりの恒例行事になりつつある光景だった。
進次郎は迷わず黒いシャツの肩に手をやると、親指にぐっと力を込める。
「――んっ……あぁ、いいね……」
クレアは甘美に近い声をあげた。
最初は戸惑いを見せた進次郎も、今では迷わず彼女の肩をぐっと掴み、強弱をつけて凝り固まった肩を揉みほぐしてゆく。
握力が弱く、初めは肩をすくめてしまうほどくすぐったかったそれも、今では吐息を漏らすほど心地よいものとなっているようだ。
これは二人にとって、仕事終わりの至福の時間であった。
どうしてこのようなことになったのか――?
それは、二人が設けた【横断歩道】の噂を聞きつけた、他の区長や店の店主達が『是非ウチの店の前にも!』と、依頼が殺到したからである。
最初は手を取り合って喜んだ二人だったが、書類作成から材料の調達と準備、その後片付け……と、常に仕事に追われる日々が始まったのだ。
それはまた、事務所の中だけに留まらない。
依頼がくればダヴィッドに伺いを立て、もし却下された場合は、代わりとなる場所を施主と立ち合って決めねばならない――。
この二週間、どちらか事務所に居ない日も多く、互いに疲れ果てた顔を見ては、苦笑を浮かべ合うことも多くなった。
(でも不思議と、イライラするようなストレスは溜まらないんだよな。
まぁ、“生前の世界”と比べて、ここでやってる事は“ごっこ”遊びに近いからだろうけど)
ここでの仕事に“責任”がないわけではないが、と進次郎は付け加えた。
――当面の間、暮らしが安定するだけの稼ぎがあればよい
クレアはすぐに方針を打ち出した。
彼女は言うことはちゃんと言うので、ダヴィッドさんからも施工日や時間など、多くの配慮をしてもらっている。
そのおかげで、忙しい中に生まれる時間の余裕が、気持ちの余裕を生んでいるようだ。
クレアは【横断歩道】が気に入ったらしい。二人で横断者を見に行っては笑みを浮かべ合うのが日課ともなっていた。
結んだ唇の両端をあげる彼女の笑みは、その日の疲れを忘れさせてくれる微笑みだった。
(いや、むしろ逆か……?
和気藹々と話せる相手が居る、ってのが一番大きいかもしれんな。
やっぱ人間、喋って身体を動かさないとダメだ――ん?)
話し相手はもっぱら……と、思った時であった。
今日のクレアはやけに静かだ、と手を止めると、スゥスゥと規則正しい息遣いをしていたのである。
連日の作業に疲れていたのだろう――着替えていないが、今日はこのまま寝かせてやろうと思い、彼女の腕を肩に回させ膝の裏にすっと腕を差し入れた。
「――ん、しょ……」
起こさぬよう、進次郎は小さく勢いをつける声をあげて抱き上げる。
シャツはじっとりと湿り気を帯びているが、初夏に入ったこの頃では大丈夫だろう。
しかし、己自身は大丈夫そうではない。
むせ返るような汗と女の香に、進次郎はぎゅっと目を瞑ると『正気を失ってはならない』と言い聞かせた。
(こう見えて軽いんだよな……)
クレアの身体は、驚くほど華奢であった。
彼女が乗った荷車も引いたことがあるが、失礼にも想像していたような重さではなかったことに、進次郎は目を丸くしたほどだ。
こうやって抱き上げてみると、それがハッキリと分かる。
確かに『男のような』と形容されるほど、しっかりとした身体つきをしており、筋肉もある方に違いない。
……が、それは所詮“ような”であり、彼女はれっきとした“女”なのだ。
男にはない、温かく柔らかな肌に意識を持っていかれぬよう、悟りの境地で階段に向かおうとした。
その矢先――進次郎は入口に影が差したのを感じ、そこにふっと顔を向けた。
「……間が悪かったようだね」
そこに居たのは、堅苦しい軍服姿のダヴィッドであった。
口元のシワを僅かに上げ、困った様子で白髪交じりの頭をポリポリと掻いている。
「すみません、すぐに戻りますので……」
「いや、私の用事はすぐなので、伝えることだけ伝えておこう」
「はい」
クレアを起こさぬよう、進次郎は小さくやや愛想のない返事をした。
「君たちの仕事ぶりは、尋ねずとも耳に入って来ている。
しかし、依頼が増える一方なのでな、いちど城の方で全て預かり、“自由区”の管理を行うこととなったのだよ……。
態勢が整うまで暇になるだろう……それまでゆっくり休み、英気を養ってくれ」
「そうですか……分かりました」
再び愛想のない返事になってしまったが、今の事情を察したダヴィットは頷いて見せた。
進次郎からクレアに視線を移すその顔は、武人の顔ではない。
声のトーンも低く優しい、“保護者”の表情であった。
「ところで、シンジ君。つかぬことを聞くが――
君は将来……このまま、クレアと添い遂げる気はあるかね?」
「ぐっ!? い、いきなり何を――」
「ふふ、年よりのお節介だよ。
この子は男社会の中で大きくなったせいか、性格から言葉遣いなど……すべてが女にあるまじきものとなってしまった。
これにはマクセルも相当気を揉んでいてな……私の養女にするかと本気で考えたほどだ」
「はは……分からないでもないですね……」
「よき人が現れたと聞き、探ってみたが……なるほど、君ならクレアと上手くやっていけそうだと思ってね」
穏やかに目を細めるダヴィッドに、進次郎は答えに窮した。
冗談めかし『それもいいですね』と笑い合えるような雰囲気でもない。
その軽めの口調の中には、どこか真剣なものが混じっていたのだ。
同時に、クレアの身体がふっと軽くなったように思えた。
「もし――」
僅かな間を置いて、進次郎は口を開いた。
「もし、確たるものが得られれば、ずっとここで暮らす決心がつくでしょう」
つかの間、ダヴィッドは目を丸くした。
しかし、見間違いかと思えるほどすぐに元の表情に戻るや『うむ……』と、納得したような様子で頷いた。
「ならば、いつか答えはでよう」
それだけを言いのこし、さっと踵を返し立ち去った。
進次郎はその背を一瞥しただけで、すぐに階段に足をかけた。急階段に加えて、クレアの身体は温かく汗ばんできている――。
落とさぬよう、ゆっくりと慎重に上がりながら、進次郎は確かな物を感じていた。
――ダヴィットはやはり何かを知っている。
そして、進次郎が疑念を抱いていることにも気づいたであろう。
階段を上がりきると、そっとクレアをベッドに寝かせた。それに彼女は小さく唸り、唇を結び直した。
暗がりの中でもそれが、細い喉が動いたのがハッキリと分かった。思わず唾を飲み込んでしまった進次郎はハッとし、慌てて階段をトントンと下りていった。
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彼が去った、暗い部屋の中で――『ばか』と小さな呟きがした。




