第1話 土方と犬
青々とした草原の大海原を、一台の馬車が渡ってゆく。
セイズ村を発ってから数時間が経ち、群青色の空は抜けるような青空へと変わり、燦々とした陽の光が大地を照らしていた。
馬車がガタンと大きく揺れた。
進次郎にはこれが産まれて初めての馬車である。
その第一印象は『室内高のあるコンパクトカー』だった。
座席は進行方向に向かって、横向きの対面席。大人が四人座れるようだが、この狭い車内では二人が限界だろう。
それでも正面に向かい合えば、互いの膝がぶつかりあうほど狭い。そのため、進次郎とクレアは横に並んで座っている。
幌で覆われているため、馬車内が直射日光に曝される心配はない。
しかし、冷房なぞ設置されているはずもなく、陽が高くなるにつれ車中はじわりじわりと蒸し暑くなってくる。
乗り心地に関しても快適とは言えなかった。
小さな石や窪地を踏むだけでも大きな揺れと衝撃がやって来る。……のだが、クレアは村を出てからすぐに寝息を立て始め、今もなお夢の中にいた。
その額や首筋にじっとりとした汗が浮んでおり、むっとした熱を帯びた彼女の匂いが鼻をくすぐってくる。
彼も男である。襟首から覗く無防備な首元、豊かなふくらみに目が奪われぬよう、極力窓から外を覗くので必死だった。
(やはり、日本と言うより外国ともまるで違うな……)
流れてゆく景色は西洋の田園風景を思わせるが、そこに生きる者たちがまるで違う。
寝苦しさで小さく唸るクレアも同じ人間だ。この馬車を引く馬も、恐らく同じ馬だ。
だが、それを繰る御者だけが違っている――。
(……なんで犬が馬を繰るんだ?)
毛むくじゃらの、二足歩行の犬が馬を繰る――耳をピンと立て、鳥の鳴き声に合わせ『ウォウウォウ』と歌うような、ご機嫌な吠え声をあげている。
――《コボルド》の馬車屋さん
初めて見た進次郎は、その異様さに思わず固まってしまった。
こちらの者にはこれが普通であるため、驚く方が奇妙に映る。
確かに、リュンカからはリーランドには人間以外の……いわゆる“獣人”と呼ばれる、“モンスター”のような種族が存在していることは聞いていた。
だが、実際に目の当たりにすると、それは言葉を失うほどの衝撃だった。
『犬が馬を繰って、人間を乗せる……。
真ん中を抜いて、犬ぞりでいいんじゃないか?』
『働かせて金を得られるなら、誰だってそちらを選ぶだろう?
それに、彼らに引かせるとか考えられないし、ワンコに怒られても知らないよ』
クレアの言葉に《コボルド》は大きく頷き、『余計なことを言うな』と言いたげな目を進次郎に向けた。
ゲームのそれとは違って、モンスターのような恐ろしさは感じられない。
それよりも逆に可愛らしく、喜怒哀楽がハッキリとした愛嬌のある存在である。
(だけど、理には適っているな……)
この国にも、旅客を狙う賊などは当然いるはずだ。
しかし、抵抗できぬ者を狙う賊にとって、“獣人”と呼ばれる獰猛であろう種族を相手にすることは、火中の栗を拾うよりも無謀な選択だ。
「……ん」
暑さに耐えかねたのか、クレアが薄っすらと目を開く――。
何度目かの目覚めであったが、今回は再び眠りに落ちる事はしないようだ。
「ん、んんーっ……よく寝たー……」
「こんな悪路で、よく眠れるなって思うよ……」
「悪路? これで悪路なんて言ったら、明日の【デール・ストリート】なんてどう言えばいいんだい。
三日間徹夜してても眠れないような道だよ」
「な、何だとっ!?」
「どれだけ平たんな道しか知らないんだい……。
ま、今日の夜はよく眠っておくんだよ。二日ほど車内泊になるからね」
「ああ、舗装された道が恋しい……」
「……アンタ、本当にどんな生活をしていたのさ。
ワンコの馬車も知らないし、実はどこかの王子様なんだ、とか言わないでおくれよ」
と、クレアは肩をすくめた。
もし彼女が現代にやってくれば、進次郎も同じように『信じられない』と声をあげるに違いない。
似た部分はあれど、それほどまでにここと現代の文化は大きく異なっているのだ。
(……やはり、俺から慣れていくしかないか)
進次郎の目に、ぐっと力がこもった。
いくら待っていても、世界は自分のために姿を変えてくれないだろう。
自分自身からこの時代に適応しようとしなければ、生きてゆくことができない。
着ていた服や荷物類は、セイズ村に置いてきている。
持って行ったところで使えないのもあるが、村に帰省する口実のためでもあった。
なので、馬車の後ろには彼が作った【安全地帯】の看板とクレアの荷物が乗っているだけだ。
セイズ村に居た時、進次郎はあまり深くまで探ろうとはしなかった。
とは言え、気になったのはリュンカの母親や、クレアの家庭事情など、あまり土足で踏み入ってはならない領域のものばかりだ。
それ以外のことはちゃんと訊ね、己の目で見て覚えた。
幸か不幸か、クレアに『世間知らずのお坊ちゃん』と見られている。
やや不本意ではあるものの、これを利用しない手はない。分からないことがあれば聞き、一から学んでゆきやすくなるのだから。
「――と、ワンコ。 ちょっと止まってもらえるかい?」
《コボルド》は『ウォン』とひと吠えすると、手綱を引いて馬の脚を止めた。
周囲は背の高い雑草が生い茂る野原しかなく、建物らしい物は道の向こうにポツンと見えるぐらいだ。
半身乗りだし鞄をゴソゴソと漁り始めたクレアを、進次郎は不思議そうに眺めている。
「……何だい?」
「あ、ああ、一体どうしたのかと思ってな……もしかして、ここで何か用があるのか?」
「……女に言わせるってのかい?」
「え、あっ、そ、そう言うことか……す、すまんっ」
クレアは荒々しく鼻を鳴らすと、ぼろ布と水が入った竹筒を手に馬車から外に降り、茂みの中に足を踏み入れて行く。
唇をぶるると鳴らした。何でもかんでも口にして尋ねるものではない――今回のことは戒めとして、広くなった馬車の中で大きく身体を伸ばした。
馬車が止まっていれば、今すぐにでも眠れそうなほどの眠気が襲う。
「……今の内に、俺も用を足しておこうか」
この世界のトイレ事情はどうなっているか分からないが、セイズ村では専用の場所で穴を掘り、用を足し終えれば土をかぶせてゆくシンプルな構造だった。
だが、これがとんでもなく臭うものだった。
努力したものの、これだけは最後まで慣れずにいた。
(外国では、おまるにして窓から投げ捨てていたんだっけ。
水洗トイレなんてないのを前提に、これにもちゃんと慣れていかないとな……)
男の小便であれば、スコップはいらない。
適当な場所に立ち、着ているズボンの帯紐を緩めていると、ぬっと進次郎の横に《コボルド》がやって来た。
下半身だけであるが、彼らも苔色のハーフパンツをはくなどの『隠すモノを隠す』文化を持っている。二足歩行の“男”であれば、やることは同じなのかと進次郎は思った。
「――連れションの文化ってのは、どこにでもあるものなんだな」
「ウォンッ」
このようなノリが好きなのか、《コボルド》はそれに嬉しそうに吠えた。
となれば、その最中にすることは当然決まっている。
「ふむ――?」
「ウォ――?」
互いのそれを比べあい、誰からともなく男と犬――馬鹿同士、ハイタッチを行う。
その背を見ていた女・クレアは、『男ってやつは……』とひたいに手をやり、大きなため息を吐くしかできないでいた。
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それから更に二時間ほど揺られ、馬車は“ステーブル”と呼ばれる馬屋に到着した。
まだ陽が傾き始めた頃であるが、ここから先しばらく宿泊できそうな馬屋がないらしく、今日の移動はここで終わりにするらしい。
「――なるほど、馬交換の場所だけど、宿屋と商店も併せているのか」
「そうだね。美味そうに見えるものもあるだろうけど、余計な物買えないから、物売りが来ても無視するんだよ」
懐が心もとない――クレアは一人分の計算しかしておらず、進次郎がまさか無一文であるのは想定外だったのだ。
セイズ村の祭りの謝礼と、トマスから僅かばかりの小遣いは貰っている。
しかし、王都でもしばらく物入りになるため、少しでも節制せねばならなかった。
「サービスエリアと言い、出店の食い物とか美味そうに見えるのも共通してるんだな」
「さ、さーび……?」
「ん? ああ、俺が居た世界にあった施設だよ。
ここで言えばそうだな……この一帯の商店、食事処を全部一つにまとめた所、かな。
そこに加えて観光案内とか、休憩スペース、服とかも売ってるとかあったか。
昔はトイレと休憩ついでに、ちょっと腹に入れておくか程度の場所だったのに……進化したもんだ」
「……それは、本当に店と呼んでいいのかい?」
クレアが思い浮かべていたのは、トイレの中に飯屋、物売りが詰め寄せてくる魔境のような場所であった――。




