第1部 第3話「彼の中にいたのは誰か(1)」前編
CH1
-ロイクの工房-
ロイクはふと口を閉ざし、作業台の隅に積まれた古びた設計図の束へと目をやった。
そこにはTSRとは明らかに異なる、円環構造と因果式がびっしりと描き込まれている。
「……博士はな、TSRを造るかたわらで、もっと無茶なもんを追いかけてた。“位相超越型因果干渉装置”――要するに、タイムマシンだ」
カイルの瞳が、わずかに揺れる。
「……タイムマシン?」
ロイクは煙草を灰皿に押し付け、低い声で続けた。
「ああ。理由は単純だ。お前の母親、エレナ・アシュフォード。
医療じゃどうにもならねぇ病気でな。博士は……過去を変えようとした」
設計図を一枚広げ、紙面を埋め尽くす複雑な数式を指でなぞる。
「だが現実は無理筋だった。必要なエネルギーは原子炉を数基分。
それでも安定は保てず、計算を詰めるほど“戻る時間”の座標がずれていった。
誤差は秒単位から、やがて年単位にまで膨らむ。狙った時代に辿り着ける保証は、まるでなかった」
小さく鼻を鳴らし、言葉を継ぐ。
「転送対象の維持も不安定だった。意識と肉体が分離する危険すらあった。
博士が望んだのは、“確実に妻を救える時間へ戻る”ことだ。
……だが、その条件を満たす術は、最後まで見つからなかった」
一拍置き、さらに続ける。
「それでも博士は諦めなかった。夜通し計算を繰り返して、机に突っ伏したまま何日も戻らねぇこともあった。
俺から見りゃ狂気だったが……あの焦り方で、どれだけ奥さんを想ってたかは分かった」
カイルは唇を噛みしめ、視線を落とす。
ロイクは肩をすくめ、煙を吐いた。
「……だが、結局は完成しなかった」
静寂が工房を満たす。
機械の冷却音だけが、低く耳に残った。
カイルはしばらく言葉を失っていた。
手の中で淡く脈打つ蒼い光は、ただの兵器ではなく、父が果たせなかった願いの残滓に見える。
「……タイムマシンなんて、初めて聞いた」
ぽつりと呟き、カイルはTSRを収めた。
「ロイク、整備ありがとう。また来るよ」
「……あいよ。いつでも来な」
カイルは工房の扉を閉め、その場を後にする。
窓越しに背中を見送りながら、ロイクがぼそりと呟いた。
「できりゃ、あれは使いたくねぇ……
だが、そろそろなんだろうな。マルコム……」
CH2
-アカネの実家-
その夕方。
アカネの実家、庭の一角。
芝生の上で、木製のトンファーが軽く打ち合わされる乾いた音が響いていた。
「その構え……惜しいな。もう少し腰を落とせ。足の幅も、ほんの少し広げて」
カイルが穏やかに声をかける。
向かい合っているのは、アカネの弟――アキトだった。
19歳の大学生で、大学の陸上部に所属しているが、トンファー術はまだ始めたばかりだ。
「こうですか?」
真剣な眼差しで姿勢を修正する。
動きにはまだぎこちなさが残るが、額には汗が浮かび、何度も打ち込みを繰り返していた。
「悪くない。柄を回すとき、肩で引っ張るな。重心は常に足の裏だ。お前の強みは体幹にある」
「体幹……なるほど」
アキトは頷き、もう一度構え直す。
打ち合いがひと段落し、カイルがふっと笑みを漏らした。
「……上達したな。最初に教えたときは、柄を前に飛ばしかけてたのに」
「それは言わないでくださいよ……
でも、ゴーストで本物の戦闘に使われてる技術、やっぱすごいっすね。こういうの、自分で体験しないと分からないです」
「実戦じゃ、手順通りにはいかないけどな」
カイルは苦笑する。
アキトはその横顔を見上げるようにして、ぽつりと口にした。
「……俺、やっぱりゴーストに入りたいです。
誰かを守るために、戦えるようになりたい。姉さんみたいに……それに、カイルみたいに」
一瞬、言葉に詰まったカイルは、照れ隠しのように背を向ける。
「……なら、もっと鍛えないとな。実戦に近い形で」
「マジっすか!?」
「もちろん、地獄のメニューだ」
「うっ……今から後悔してきた」
そんなやり取りを、家の縁側からアカネと父親の大塚満男、母親のスーザン・エリソンが静かに見守っていた。
スーザンは目を細めて小さく笑い、満男は黙ったまま湯飲みを置き、庭へ視線を向けている。
「……アキトも、少しは大人になったわね」
スーザンの呟きに、アカネはわずかに口元を緩めた。
夕陽に染まる庭に、トンファーの音と笑い声が重なる。
影は芝生の上に長く伸び、穏やかな時間が家族を包み込んでいた。
それは、ほんの束の間の安らぎだった。
CH3
-アシュフォード研究所-
その日の夜。
静かな自宅兼アシュフォード研究所。
ホログラフの投影装置はすでに停止し、部屋には低いファンの駆動音だけが残っていた。
カイルは壁際の椅子に腰掛けていた。
その隣で、父のマルコム・アシュフォードがコーヒーを淹れている。白衣の袖口から覗く手つきに無駄はなく、長年の研究で染みついた正確さがあった。
白髪交じりの髪と整えられた髭は、年齢を感じさせるというより、むしろ風格を与えている。だが、その目の奥には消えきらない陰りが沈んでいた。――妻を失ってから、彼の笑みはいつも、ほんの少しだけ遅れて現れる。
それでも彼は、人格移植装置と第3世代TSRを形にした天才だ。部屋の静けささえ、彼の思考のために用意された余白のように見えた。
「……ロイクから聞いた。親父、昔“タイムマシン”の研究をしてたって」
マルコムは、コーヒーを注いでいた手を止めた。
ほんのわずかだが、確かに。液面に残った揺れだけが、時間のずれを告げているようだった。
「……あいつ、また余計なことを」
「本当なんだろ?過去に戻るとか……
それが、父さんの“始まり”だったんじゃないのか?」
マルコムは湯気の立つカップを両手で包み、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。
その視線は、どこか遠くを見ていた。
「……タイムマシン、か。
過去をやり直すなんてのは、誰だって一度は夢見る。
――特に、大切なものを失ったときにな」
言葉を短く切る。
その沈黙の奥に、エレナの影が滲んでいた。
カイルは何も言えず、ただ拳を握りしめる。
「だが現実は、そう甘くない。
時間は一方通行で、因果は決して許してはくれない。
……少なくとも、“当時の私は”そう思っていた」
「“当時”……?」
マルコムは目を伏せ、苦みを含んだ微笑を浮かべる。
「いや、独り言だ。
ただな……世界は一つじゃない。
必ずしも“時間”を遡らずとも、別の道はある。
それを知ったとき、私は愕然としたよ」
「親父は……何を見つけたんだ?」
マルコムはコーヒーを一口すすり、あくまで柔らかな調子で答えた。
「――もし“もう一つの道”があるとしたら、お前はどうする?」
「……選ぶさ。そのために今、ここにいるんだ」
マルコムは、どこか満足したように目を細める。
「そうか。なら――今は、それでいい」
話題はそれ以上、深く掘り下げられることはなかった。
CH4
-高級マンションの一室-
薄曇りの午後。
ロウエル地区に建つ高級レジデンス《アストリア・グランデ》の12階で、ひとりの男が冷たく横たわっていた。
現場に駆けつけた警察官たちは、体表に残る内出血の痕と、首元に刻まれた圧痕から、外傷性の窒息死――すなわち他殺と断定する。
遺体の身元はリチャード・ローウェル。
大手エネルギー関連企業に勤める課長職で、周囲からは温厚で家庭的な人物として知られていた。
室内には争った形跡がある。
キャビネットや引き出しは乱雑に開け放たれ、高価な金庫や大型の美術品には手が付けられていない。だが、持ち運び可能な高級時計や宝飾品、棚に飾られていた小ぶりな美術品はいくつか姿を消していた。
一見すれば、物取り目的の侵入犯による犯行に見える。
通常であれば、事件は警察と法医学機関の管轄で処理されるはずだった。
だが、司法解剖に立ち会ったCIAR提携医が、死因確認の後に異常を報告した。
「被害者の両眼に、虹彩リングが確認されました」
医師の指先に浮かび上がるホログラフィック画像には、リング状の微細構造――人格移植の痕跡がはっきりと映し出されている。
しかし、合法・非合法を問わず、人格移植の履歴は一切残されていなかった。
つまりこれは、記録に残らない非公式な人格移植が行われた可能性を示していた。




