第2部 第7話「潜入、ブラッククリニック(2)」前編
CH1
-ブラッククリニック・通風ダクト内-
金属の腹を這うような反響音が、耳の奥にまとわりついていた。
カイルはダクトの分岐で膝を立て、動きを止める。呼吸を抑え、意識を音に集中させた。
次の瞬間、空気がわずかに震える。館内放送だ。
《……全提供者に告ぐ。虹彩リングの検査を順次開始する。対象者は割り当て室で待機せよ》
その文言が耳に届いた途端、心拍が一段跳ね上がった。
(眼球検査……虹彩リング検査のことか!?)
数日前までに得ていた情報には存在しない手続きだった。
直前で追加された、想定外の検査――そう判断するしかない。
(マズい……!)
カイルはダクトの内壁に手を当て、荒く息を吐いた。
虹彩リングは、人格移植の痕跡が眼球組織に微細に現れる現象だ。
もしその検査が行われれば、“サラ”――人格移植されたニーナの正体は即座に露見する。
(まだ……間に合うか?)
脳裏に、ダクト越しに把握したニーナの現在位置、警備配置、想定ルートが次々と浮かび上がる。
腰のホルダーでTSRが微かに共鳴し、淡い蒼い光を灯した。
カイルは奥歯を噛みしめ、一度、深く息を整える。
(落ち着け……ニーナはまだ動ける。俺が出るのは、“もしもの時”だ)
そう言い聞かせながらも、内側ではすでに戦闘行動への覚悟が固まりつつあった。
「頼むぞ、ニーナ……」
誰にも届かない声を吐き、カイルは再び静かにダクトの奥へと身を滑らせた。
CH2
-ブラッククリニック・提供者用個室-
足音が廊下を打つ。
サラ――ニーナは、制限された呼吸のまま、ほとんど駆けるように引き返していた。
(間に合え……間に合え……)
自動ドアが開く。
中へ滑り込むと、即座に表情を整え、何事もなかったかのようにベッドへ腰を下ろした。
外見は静止している。だが胸の奥では、焦燥が渦を巻いていた。
――虹彩リング検査。
ニーナの虹彩には、確かにそれが刻まれている。
偽装など、最初から成立しない。
もし痕跡を拾われれば、その瞬間に潜入は終わる。
(どうする……どうすれば……)
思考を何度巡らせても、出口は見えない。
「装う」ための余裕も、「検査を止める」手段も、どこにもない。
壁際の小型モニターから、自動音声が淡々と流れた。
《検査対象者を順に呼び出します。最初の対象者は……バルネス、ジュリア》
心臓が強く脈打つ。
(カイルがいる。最悪の場合、彼が動く。でも……)
そこから先が続かない。
思考は空転し、心はただ“恐れ”という濃霧に覆われていった。
(こんな形で露見するの? 私が……)
《次の対象者、ベリオス、ハナ》
緊張の糸が、さらに締め上げられる。
呼吸は浅くなり、視界がわずかに揺れた。
(せめて、何か……見抜かれずに済む方法……いや、そんなもの……)
《次の対象者、エルドリッジ、サラ。》
来た。
そこで思考が途切れる。
カイルの姿は見えない。だが、どこかで待っている――その事実だけが、かろうじて自分を繋ぎ止めていた。
――それでも、それは“確実な安全”ではない。
ここを越えるかどうかは、結局、自分次第だ。
震える足で立ち上がり、乾いた唇をわずかに引き結ぶ。
「……行きますよ」
扉の外には、無表情な案内係が立っていた。
逃げ場のない導線が、運命のようにひらかれていく。
CH3
-ブラッククリニック・通風ダクト内(西側区画)-
カイルは身を潜めたまま、ダクト内の分岐点に膝をついていた。
耳に届いた館内放送――
“エルドリッジ、サラ”。その名が、頭の奥で反響する。
(来たか……サラが、呼ばれた)
焦りが、音を立てずに胸を締め上げる。
この身体で虹彩リングの検査を受ければ、正体は確実に露見する。
(まだだ……介入は早い。だが、万一に備えなければならない)
カイルはダクト内をゆっくりと進みながら、脳内でルート図を組み替えていく。
《検査室……あそこか? 東棟の奥、低圧区域……他に“待機制限”が掛けられている区画は?》
通気口越しに、ノイズ混じりの足音がかすかに伝わってくる。
ストレッチャーを押しているのか、金属製の車輪が床を擦る音。
不規則に交わされる会話の断片――
“検査プロトコルB”“眼球スキャン”。
(間違いない。あの部屋だ……)
カイルはTSRにそっと手を添えた。
腰元で、蒼い光がかすかに脈打つ。
その刹那、彼の眼差しがわずかに鋭さを増した。
(ニーナ……持ちこたえてくれ。
今、俺にできるのは――すべての動きを把握することだけだ)
ダクト内の闇を這いながら、カイルは音を殺し、検査室へ向けて進み始めた。
CH4
-ブラッククリニック・検査室-
無機質な壁面と、均一な白色照明が視界を覆った。
検査室へ足を踏み入れると、入口付近で交わされる低い声が耳に届く。
「検査員の虹彩、確認しなくていいのか?」
「どうせ提供者の検査は形式だけだろ。
あとで数字を全部洗う」
「……だな。じゃ、回しとけ」
――ここでは仮検査。
最終的な確認は、後段の数値処理で行われるらしい。
しかし──
サラ――ニーナは、時間が凍りついたような感覚のまま、検査台の前に立っていた。
手先はかすかに震え、膝に落とした視線が定まらずに揺れる。
「こちらへどうぞ」
検査員の声は穏やかだが、どこか機械的だった。
マスクで口元は隠れ、目元も感情が読み取れない。
それでも、わずかに歪んだ口角が見えた気がした。
促されるまま椅子に座り、ニーナは身体を預ける。
視界の端で、虹彩スキャナーが起動準備に入り、赤と青のレーザーが交互に点滅していた。
(まずい……このままじゃ……)
脳裏で警鐘が鳴り続ける。
だが、身体はすでに抵抗できる状態にない。
視線を落とし、緊張を誤魔化すように指先を組んだ。
「少し、眼を開けてください。力を抜いて……」
指示に従い、ニーナはわずかに瞼を開く。
光が網膜に降り注ぎ、奥まで探られていく感覚。
──そのとき。
天井のダクトの奥で、微かな影が動いた。
カイルだ。
検査台の異変を察した彼は、すでにTSRへ手を伸ばし、突入の態勢を取っている。
──だが、次の瞬間。
「はい、結構です。……問題ありません。次の方を」
検査員の口元が、ほんのわずかに緩んだように見えた。
ニーナの身体が、はっきりと揺れる。
「……え?」
思わず零れた声。
だが検査員は取り合わず、次の名前を呼ぶ端末へと視線を移した。
サラ――ニーナは立ち上がる。
足元が覚束ない。
何かがおかしい。何かが、決定的に狂っている。
カイルはダクト内で拳を握り、TSRを掴んだまま動かなかった。
その一部始終を、ただ見据えている。
(……なぜ、通った?)
天井の下と上。
声を交わせぬまま、2人は同じ違和感だけを胸に残していた。
CH5
-ブラッククリニック・提供者個室-
個室に戻ったサラ――ニーナは、扉が完全に閉まる音を確認すると、そのままベッドへ倒れ込んだ。
緊張がほどけ、遅れて汗が滲み出す。
検査は通過した。だが、あれは“正常”ではない。
(なぜ……あの検査員は……)
思考を巡らせかけた、その瞬間。
室内の照明が一度だけ点滅し、壁面スピーカーから警告音が響いた。
《セキュリティ警告。管理端末B3に不正アクセスの形跡。侵入経路を封鎖。対象区域へ警備を派遣》
(……っ!)
間違いない。
自分が接続した端末だ。
ニーナが身を起こそうとしたとき、天井の換気口が静かに開いた。
そこから降りてきた影――
「ニーナ、行くぞ」
カイルだった。
怒りも驚きもない。ただ鋭く、冷静な声だけが、彼の緊迫を伝えている。
反応する間もなく、カイルは彼女の腕を取り、廊下へ引き出した。
「検査……あれ、何だったの? あの検査員……」
「あとだ。今は抜ける」
警報が鳴り響く中、2人は薄暗い廊下を駆ける。
脱出ルートは事前に設定されていたが、セキュリティはすでに全域へ展開を始めていた。
――そのとき、角から複数の影が現れる。
白衣の男。
そして、無骨な外装のアンドロイド。
「止まれ! 武装解除しろ!」
「やるしかない!」
第2部第6話投稿時点で、累計1000PVを超えました。
読んでくださっている皆さま、本当にありがとうございます。
物語はここから、第2部終盤へ向けて大きく動いていきます。
強敵との衝突、そして最後の戦いを経て、『I, Another』は完結へ向かいます。
引き続き見届けていただければ嬉しいです。




