29針目.・・・戻ってこないか・・・
静寂に包まれた夜のノース・ロイヤル・パークに、人の気配は無い。
舗装された散歩道に沿って立つ街路灯の明かりと月明かりだけが足元を照らす中、ダイアナは手に赤いバラのミニブーケを持ったまま元夫の後を歩く。
「あの・・・」
ケイレブが立ち止まり、振り返る。
「あまり・・・奥には行きたくないのだけど・・・」
そう言うと、
「ああ・・・そうだな、悪い」
ケイレブは立ち止まりダイアナに向き合った。
王都の春は昼間は暖かいが夜は冷える。
冷たい風が吹き抜け、ダイアナの体を冷気で包みながらスカートの裾を揺らした。
「・・・それで、ご用件は・・・?」
シオンのドレスを褒め、花束を渡し、話があるから外へ行こうと誘う元夫。
もう他人とは言え、公爵家同士の繋がりがある。
困り事なら多少は力になることも考えるが、それも話次第だ。
しかし目の前のケイレブは想定外の言葉を投げた。
「・・・君がこんなに変わったことが・・・今でも信じられないんだ」
「え?」
ダイアナは何を言われているか理解できず、ケイレブを見つめる。
「僕と結婚していた時は・・・いつも同じ髪型と服だったし、化粧もほとんどしなかったし、笑うことも少なかったし・・・」
ケイレブもダイアナを見つめる。
「今日も、誰もが君を褒めていたよ。メイ・リサに引けを取らない美しさだって」
その言葉にダイアナは笑い出した。
「大袈裟だわ、まったく」
その笑顔に、ケイレブは胸が締め付けられ、問わずにはいられない。
「・・・何があったんだ?」
「え?」
ケイレブの表情があまりにも苦しそうで、ダイアナの顔から笑顔が消える。
「・・・僕と別れてから何があったんだ?!君は着飾って目立つことをするのが好きな女性ではなかっただろう?!流行なんて下らないって言って、パーティーも社交も・・・人の輪の中で笑ったりなんて、絶対しなかったじゃないか!!」
ケイレブがまくしたてる言葉が、かつての自分の姿を思い出させる。
義務感から参加するパーティーでも、最低限の挨拶や会話しかできなかった。
気の利く言葉や振る舞いなんか知らず、失敗することを恐れ知ろうともしなかった。
化粧、流行、おしゃれ・・・それらは全て軽薄だと目を背けた。
居心地のいい屋敷の中で、気心知れた使用人達とだけ笑顔で接し、書類作業をこなしていればそれでいい。
それが、見てくれの良くない自分には最善だと信じて疑わなかったが、心の奥底にしまい込んだ美しいものへの憧れに、向き合わせてくれたのはシオンだった。
「・・・自分を、肯定する手段に出会ったの・・・」
自分を見つめるケイレブに、笑いながら答えた。
「そうしたら、世界がよく見えるようになったわ」
正しいと信じていた思考は、ただの独り善がりだった。
頑なで後ろ向きの自分に気付き、多くの人に気を使わせていただろうことを恥じることができた瞬間、自分も変われることに気付けたのだ。
完璧な人間にはまだ遠いが、一歩踏み出すことで幸せが増えていくことを知った今、もう、理想から目を背けることはできない。
「あなたのこともね、最初は恨んでいたんだけど、今はそうでもないの」
己が見え始めたら、他人も見え始めた。
自分もどこかでケイレブを傷付けていたかもしれない。
どうせ政略結婚なのだからと、公爵夫妻としての在り方ばかりを追求し、ケイレブ自身の心に歩み寄る努力を怠っていたのだ。
「メイ・リサ様を選ぶ理由を、私だって作っていたのよね。ごめんなさい・・・」
申し訳ないと思いつつ、別れてようやっと相手を理解できたことになんだか可笑しくなってきたダイアナが
「今は大事な人達と価値のあることをできているから幸せよ。だから逆にあなたに感謝しないと天罰が下るわね」
と笑っていたが、目の前に立つ元夫の口から出た言葉に衝撃を受ける。
「・・・戻ってこないか・・・」
ダイアナは、理解が出来ずただただケイレブを見つめる。
「・・・頼む・・・、僕とやり直してほしい・・・!」
今までに見たこともない、切実な表情。
「ど、どういうことなの・・・?あなた、メイ・リサ様と再婚してまだ一年も経ってないじゃない・・・!」
混乱する頭を冷静にさせようと理由を問う。
てっきり二人はかつての蜜月の中に今も生きていると思っていたのだが、ケイレブは叫ぶ。
「メイ・リサとの結婚は失敗だ!!」
「失敗って・・・」
「あれは君と違って何の仕事もしないしわがままばかり言う!信頼できる使用人が何人も辞めたんだ!このままだとバーネット家はウインチェスター商会に乗っ取られる!バーナライトは最初からそれを狙ってたんだ・・・!!」
まさかと思ったが、ウーフェイの言葉が思い出された。
『強引な手段が我々東洋人の間では評判芳しくありません・・・』
西洋人商人の、東洋人に対する高圧的な態度は度々問題視されるが、国境を超える全ての商取引には大なり小なりトラブルが付き物である。
だがその強引さが、貴族に対しても向けられているとは信じ難い話だ。
今にして思えばメイ・リサの脅迫めいた要求も子どもの発想だと言えばそれまでであり、ウインチェスター商会が自国の貴族に害を与えるとは到底思えない。
「・・・メイ・リサ様はまだ十九歳よ・・・。そこはあなたがしっかり・・・」
「メイ・リサなんてウインチェスター商会の操り人形だ!僕には君が必要なんだ!!」
突如、体が引き寄せられ、手にしていた花束が地面に落ちたことに気付いた瞬間には元夫に抱き締められていた。
「僕が間違っていた・・・!戻ってきてくれ!!」
ダイアナの思考は完全に停止していた。
一体何が起こっているのか分からない。
しかし総毛立つ全身が、ケイレブの腕に包まれているという現状を激しく伝える。
心臓がこれ以上ない速さで鼓動し、手足の温度が失われ、口の中が乾いていく。
(・・・チガウ、コレジャナイ・・・)
いつもの手じゃない。
いつもの腕じゃない。
化粧を施す時に、頬に触れる指。
髪を結う時に、首筋に触れる手。
ドレスを仮縫いする時に、自分の体に回される腕。
今のダイアナが、心の拠り所にするぬくもりと感触が、蒸発していくような恐怖を覚える。
ケイレブの手が背中を撫でた瞬間、拒絶は体の中で爆発した。
「・・・やめて!触らないで、放して!!」
精一杯叫び身をよじった時だった。
体が引っ張られたかと思うと、背後から伸びた別の腕に包まれる。
自由になった体が後ろから抱き締められ、自分を捕らえた相手の顔が目に入った瞬間、ダイアナは迷うことなくその体にしがみついた。
「汚い手で触んじゃねえよ・・・」
殺意を宿した目で、シオンはケイレブを睨み付けた。




