プロローグ1 私が死んで、オレが生まれた日
夢を見ていた。
ひどく悲しく、とても懐かしい、私がオレに変わった、とある夏の、満月の夜のことを。
***
私の目の前で、ゴウゴウと音を立てて燃え盛っているのは、つい数分前までたくさんの思い出が詰まった私たちの『家』だったもの。
辺りでは、義父の部下たちが襲撃してきた化け物――妖魔の群れと、それぞれに宿る固有の能力『天紋』を使い、激しい戦闘を繰り広げている。美しく整えられていた日本庭園は血で汚れ、あちこちで怒号や悲鳴、破砕音が鳴り響く中、私はただ膝をつき、ぼうっと見ている事しかできない。
「――様! ――ずさ様! しっかりせえな!」
肩を強く揺すられ、ハッと我に返る。私の従者である橘楓が、煤に塗れた顔で必死に叫んでいた。
「立ち上がり! ここにおったら死んでまうで! 避難するんや!」
「避難って、どこに……」
「桐生様のとこや! 茉莉様は先行っとる!あそこやったら、きっと――」
そう言いながら、楓が私を庇うように強く抱きしめた瞬間。
ドガァァンッ!!
楓の言葉は、私たちの前に燃え盛る炎の中から『何か』が飛んできたことで遮られた。
その何かが――左腕が炭化し、全身から血を吹き出している『それ』が。我が皇家において最強と謳われた祓魔師であり、私たちの父親である皇浩一だと気づくのに、一体どれだけの時間がかかっただろうか。
「お父さん!」「お館様!」「棟梁!」
皇浩一が、負けた。
動揺が広がるなか、皆の視線は自然と、父が飛ばされてきた方向――原型を留めることすら叶わず、ひしゃげ、溶け、穴の空いている鉄の門扉。数十トンはあろうそれだったものが無惨に散乱する、燃え盛る我が家へと向けられた。
崩れ落ちた瓦礫と、父が天紋で召喚した巨大な鉄の門扉。一人の人間では到底動かせないであろうそれらを軽々と蹴散らし、左腕に炎を纏った背丈三メートルはあろう人型の異形が姿を現す。
肉体のあちこちが潰れ血を流しているものの、みるみる間に何事もなかったかのように再生していく。
一目見た瞬間に感じた重圧。それは思わず、呼吸の仕方を忘れてしまうほどで。
数多の妖魔を倒してきた歴戦の祓魔師である父の部下たちですら、思わず一歩後ずさっていた。
異形は一番近くにいる父には目もくれず、無機質な目で私たちを見回し、そして口を開いた。
『弱い、ナ。これが頂点か? 昔のニンゲンは、モウ少し骨がアッた。トんだ期待外れよ』
妖魔が、人の言葉を喋った。本来ならばただ唸り、人を喰らう事しかできないはずの妖魔が。
「なんだ、貴様は……! ここに何の用だ……!」
かろうじて立ち上がった父が、絞り出すように問いかける。
初めて妖魔の目に、ほんのわずかに感情が宿った。ほんの僅かに見直したような目で、父へ視線を移す。
『まダ立つか、祓魔師よ。お前を立たせるもノはナんダ? 矜持か? 憎しみか? それトも……』
視界から、妖魔が消えた。
――グンッ。
気づいた時には、私の首は無理やり上へと向けられていた。
父を見据えていたはずの目が、楓の背に隠れていた私を至近距離で射抜いている。
この場にいる全員が認識するよりも早く、妖魔が巨大な右手で私の首を掴みあげていたのだ。天紋じゃなく、圧倒的な身体能力によるゴリ押し。純粋な暴力。
そう理解した時、私はただ、首に食い込む岩のような硬さの指の感触に、情けなく悲鳴を漏らす事しかできなかった。
『コノ娘か?』
「娘は関係ない! 今すぐその手を離せ!!」
父や部下たち、楓までもが、一斉に妖魔に向けて構えを取る。彼らの目には一様に、命を賭してでも私を取り返すという覚悟が宿っていた。
『クカカカッ! コノようナ小娘に命を賭けるか! やハり人間は面白い! ホレッ!』
気合いの声と共に景色が一瞬にして変わり、強い衝撃と共に止まる。遅れてやってきた全身の痛みで、自分が紙屑のように投げ捨てられたのだと悟った。
『娘ハ返してやったぞ? さあ、ドうスる? 戦うか? オ前たちノ頂点はボロ雑巾と化しているのに? それトも逃げるノか? 一体何人が生き残るノだろうナぁ?』
愉悦に歪んだ妖魔の声が響くが、誰も口を開けない。
わかっているからだ。この妖魔と戦っても、自分たちでは勝てないことを。誰一人、逃げられないことを。
どっちを選ぼうと、全滅する。
そんな絶望に包まれ、皆の心が折れそうになったその時。
「浩一!」
現れたのは、トラックほどの大きさの白狼――シロに乗った母、皇絵里奈と、私の義兄である皇流唯だった。
『ほう……』
「俺が時間を稼ぐ! 二人とも、梓を乗せて逃げろ!」
「ふざけんじゃないよ浩一! アタシも残る! 流唯、あんたは梓を――」
そこで、母の言葉が途切れた。
母が振り返った先、シロの背中には、母しか乗っていなかったからだ。
いつの間に降りたのか。どこへ行ったのか。
そんな私の疑問は、背後――燃え盛る家の縁側から放たれた、眩い法陣の光によって掻き消された。
光の中心には、まるで自分は異物だとでも言わんばかりに、ポツンと立ちながら符を発動させている兄が。
「流唯!? 何を……!?」
「持ってきた転移符! 俺が全員、桐生家に飛ばす!」
転移符。妖魔の干渉を弾き、法陣上の人間だけを指定の座標に逃がす皇家の秘術。齢9歳にして、父に次いで霊力の多い兄ならば、かろうじて全員を転移させることができる。
縁側から放たれた眩い光が、瞬く間に庭全体を覆い尽くす。父も、母も、私も、楓も、兄も、全員が巨大な法陣の上にいる。
――助かった。
そう思った瞬間、限界を超えていた私の意識は、暗い泥の中へと沈み始めた。
気絶する直前、「待て、流唯! お前は――!」という父の叫びと、呆然としたような楓の「なんで……」という震える声が聞こえ――。
光の向こうで、兄がひどく優しい安堵を込めて、けれど少しだけ寂しそうに――笑っていた。
***
オレは今でも、あの瞬間を狂おしいほど後悔している。あの日から10年が経過した今でも、夢に見るほどに。
だから私は、元服を機に皇梓という女を捨てて、皇伊織という男になった。兄貴の代わりに、オレがこの家を背負うために。
母の連れ子であり、皇の血を継いでいない私は。
当時はまだ幼く、『妖魔を弾き、人間だけを安全な場所へ逃がす術だ』としか教えられていなかった私は。
知らなかったのだ。
転移符が――
発動した術者自身は法陣の上にいても転移できないという、残酷な代償を伴う術であることを。
さらに言えば、実は兄貴は純粋な人間ではなく、妖魔の血が混ざった半妖であり。故に、もし兄貴以外が転移符を使用していたとしても、人間だけを転移させる転移符は、兄貴に効力を発揮しないことを。
もしも、私が意識を失わなかったら。
もしも、私が兄貴と血の繋がった、本当の家族であったなら。
兄貴は今も、オレの隣で笑っていたのだろうか。




