白い山
「ゲンさん、今日はずいぶんゆっくりなのね」
テンはゲンさんに向かって馬車の中から話しかける。ゆっくり揺れる馬車は揺りかごのようで、目覚めたばかりなのに眠くなった。
「そんなに大きい声をださないでくれ」
ゲンさんは昨日飲みすぎたみたいで、朝からどんよりと曇った顔をしていた。テンはくすりと笑って、黙って目を閉じて二度寝をした。
どれくらい寝ていたんだろう。テンは、大きく伸びをして馬車の中であくびをした。
「なんの、音?」
馬車の中で聞こえてくるのは、いつも馬の蹄が土を蹴る音と、車輪が回る音、それからたまに聞こえるゲンさんのだみ声だったのに。今はそれに、ざざあ、という音が混じって聞こえた。
「お、起きたか。外見てみな」
「外?――わあっ」
それは本当に、わあっという光景だった。
透かしの窓の小さな隙間からのぞくのがもったいないほど素敵で、思わず馬車の戸を急いで開いた。びゅうと冷たい風が入ってくるのも気にならないくらい綺麗な景色だ。
「放り出されるなよ! ……海だ。すげえだろう」
「……すごい」
大きな川と言われていたのに……そこは全く川なんかじゃなかった。暗い青の水が太陽の光をうけてぎらぎらと輝いて、目に映るひたすら先まで大地を覆っていた。
「本当に大きいのね」
「ああ、しばらくはこの景色が続くから退屈かもしれねえが」
「わたし、飽きないと思うわ」
「どうだかな」
ゲンさんは朝より幾分調子がよくなったようで、だみ声に力が戻っている。テンは海から目を離せないで言った。
「ねえ、もっと近くにいって海を見られるかしら」
「そうだなあ、あんまり近くじゃあぶねえけど、もう少し先に浅瀬があるから、そこで昼飯にするか」
テンはまた、わあっと言って、馬車の戸を閉めた。閉めたあとも透かしの窓の隙間から、ずっと輝く海を眺めていた。
昼は話していた通り、海が一望できる浅瀬に馬車を停めて、昨日の残り物の魚を食べた。
魚もご飯もかちかちになって、冷たくなってはいたけれど、海を眺めながら食べる昼食は悪くないとテンは思った。
「そういえば、薬師様は結局戻ってこないね」
「まだ分からねえけどな。このぶんだと帰ってこねえで、お邸のほうにおれたちが先につく方が早いかもな」
「……戻ってこないといいな」
テンはぽつりと言った。ゲンさんは面白がるようにテンに聞いてきた。
「薬師様のこと、嫌いなのか?」
嫌い、と言い切るのとは違うような気がする。薬師様のしたことを許せないけど、その感情に名前をつけることができなくて、テンは別の答えを返した。
「好きではないかな」
「そうか……」
テンはそれ以上この話を続けたくなかった。
「ゲンさん、蟲の知らせって誰でも使えるの?」
「ああ、いや、聞いたことはあるけどよ。実際に見たのはおれもはじめてだ。使い方も知らねえ」
「みんなが使えたら便利なのにね」
「そうだよな……そうしたら手紙なんていらなくなるな」
「ゲンさんは家族に手紙を出したりしないの?」
「しねえなあ、出してもかかあもちびも読めねえからよ」
「そっか。ゲンさんは字をかける?」
「ああ、まあ私学で最初に教わる分だけはな。お前も十一ならちょっとは書けるか?」
「わたし、あんまり勉強が好きじゃなくてさ。すごいな……字が書けるひとは」
「いや、まあでもあれだろ? 嬢ちゃんはこれから医術を勉強するなら字くらいすぐにかけるようになるんじゃねえか?」
テンの顔が自然と下を向く。そうだ、医術を勉強しに行くことになっているのだ。
「そうかもね。 ゲンさんよりも書けるようになっちゃうかも」
テンは顔を上げてゲンさんに向かってしかめっ面をした。ゲンさんもしかめっ面を返してテンに言った。
「へいへい……それじゃ、また出発するか」
そこから先の道はゲンさんの言った通りだった。
ひたすら海の見える道が続く。森や街に入って途切れたかと思うと、そこを出たとたんに果てしない水平線がまた見える。
海の音を聞いて、輝く波を見ているとそれだけで時間と思考は過ぎていった。
その中でテンは色々なことを考える。
蟲に呼び出されて急にいなくなった薬師様。馬車の中で話もせず、見もせずに二人でいるのは息がつまったから、いなくなってくれてよかった。
そして、この馬車。豪華な車だと思った。自分を運ぶために用意したというより、薬師様が普段使っている車をそのまま持ってきたのだろうと、そう思っていた。
でも違った。国からの借り物の車。
そして、わたし。わたしは、薬師様の言葉を借りれば熱病治療の功績が認められて医術を学びに行くらしい。
なにが本当なのだろうか。
自分は罰を受けに誰かお金持ちのお邸で奉公をさせられにいくのではなかったのだろうか。中央の管理とは一体何なのか。
テンはため息をつく。同じ景色がひたすら見えるこの眺めは、同じ考えを何度も自分にさせる、そう感じた。
「見えてきたぞ!」
ゲンさんが嬉しそうな声を出した。テンは、海ばかり見える景色がやっと途切れたことに気が付いていた。
「見てもいい?」
「ああ! 停めるから少し待ってろ」
ゲンさんが馬車の速度を落としていく。テンは、着物越しに、自分の心臓の音が聞こえてくるようだった。
龍京……中央とみんなが呼ぶ国の中枢。その都が今目の前にあるのだ。
「ほら、降りてよく見てみな……これから嬢ちゃんが暮らす街だ」
テンはなぜか震える足を叩いて、馬車から降りた。そして目を見開く。
そこは、白い山のようだった。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
現在の形での物語は、ここで一度区切りとなります。
この先は、これまでの物語を土台に、さらに大きな物語として作り直していきます。
いつか新しい物語として、また皆さまにお届けできればと思っています。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




