第六話 一生分の鱗
ヴェスタが国境の空を初めて飛んだのは、療養四月目の朝だった。
裂けかけていた翼膜は塞がり、曇っていた銀鱗には光が戻った。慣らしの低空を一周して降りてきたヴェスタは、興奮気味に私の周りを跳ね回り、それから急に神妙になって、鱗を一枚、私の手のひらに落とした。二枚目である。
――ありがとう。それと、ここが好き。
「そう。よかった」
ここでは誰もヴェスタに三連覇を求めない。朝は日光浴をして、昼は若竜たちに旋回の手本を見せて、夕方は自分の意思で房に帰る。先日など、哨戒帰りのバロンを出迎えて、獲れたての山羊を分けてもらっていた。竜の世間で、彼女はすっかり「国境の姪っ子」である。
王都の後日談は、風の噂で届いた。
エセルバートは資格を失った後、実家の伯爵家からも疎まれ、田舎の領地で馬の世話をしているという。馬は竜より寛容な生き物だが、それでも彼が信頼を得るには、鞍を置く前に覚えることが山ほどあるだろう。セリーヌ嬢との婚約は、商会の出入り禁止が決まった週に、先方から解消されたそうだ。聖なる力の切れ目が、縁の切れ目だった。彼女は今、別の街で「星読みの巫女」を名乗っているらしい。星は竜と違って発疹も出ないし、嘘を暴きにも来ないから、なるほど賢い転職ではある。関わる方々が、気の毒なだけで。
ジェムじいさんは、査問での功績で王立竜舎の厩務長に昇進した。新しい竜舎長には、若い誠実な竜医が就き、私に長い手紙をくれた。訓練量の上限規定と、竜医の飛行停止権限が、正式に規則になったという。三十七頭の房に、赤い札が正しく重みを持つ日が来たのだ。
そして、うちの団長のことである。
ヴェスタの初飛行の夜、診療棟の裏の丘に呼び出された。国境の夜空は、王都では見たことのない数の星が出る。
「エルシー。話がある」
ライナス団長は、私の前に立って、深呼吸をひとつして、懐から小さな包みを出した。開くと、細い銀鎖の先に、磨かれた黒い鱗がひとつ。バロンの鱗だ。
「知っての通り、竜は心から信頼した相手にだけ鱗を落とす。バロンが先日、これを落とした。落として、俺の枕元に置いた。『お前が使え』という顔でな。……あの老竜なりの、後押しらしい」
「後押し、ですか」
「俺は竜ではないから、鱗は落とせない。代わりに落とせるものを考えた。考えて、これしか無かった」
団長は、鱗の首飾りを私の手に載せて、まっすぐに言った。
「俺の一生を落とす。あなたのところに。……結婚してほしい。あなたの隣で、あなたの『飛ばせません』と『もう飛べます』を、一番近くで聞いて生きていきたい」
星空の下で、国境一まっすぐな人が、耳まで赤くなっていた。
私は、手のひらの鱗をぎゅっと握って、答えた。
「謹んで、お受けします。……ただ、団長。私からも一つ、診断を申し上げてよろしいですか」
「診断?」
「はい。先ほどから脈が速く、体温が上がり、呼吸が浅い。重症です。生涯にわたる経過観察が必要と診断します。担当は、私が」
団長は目を丸くして、それから、声を上げて笑った。この人の声を上げた笑いを、私はこの夜、初めて聞いた。
「一生、よろしく頼む。主治医どの」
結婚式は、春、国境の岩山で挙げた。
参列席には団の仲間たちと、王都から来てくれたジェムじいさん。誓いの瞬間、バロンとヴェスタが先導して、百二十一頭が一斉に空へ上がり、祝いの咆哮とともに炎を吹いた。花嫁の頭上に広がる百二十一筋の炎の輪は、国境の伝統で「竜の祝福」と呼ぶそうだ。教会の鐘より大きくて、少しだけ煙たくて、世界で一番あたたかい祝福だった。
なお、炎の輪の直後に、空から山羊が一頭降ってきた。バロンからの祝いの品だそうだ。宴の料理長は卒倒しかけたが、竜の流儀では最上のご祝儀である。ありがたく、宴の追加料理になった。
私の首元には、黒い鱗がひとつ。手元の宝箱には、三十七枚と二枚の鱗。
かつて「竜医ごとき」と呼ばれた娘は、今日も国境の竜舎を駆け回っている。作戦会議に席があり、「飛ばせません」に重さがあり、夜勤明けには焼き林檎が出て、隣には、一生を落としてくれた人がいる。
先日、夫が真顔で聞いてきた。
「なあ。バロンとヴェスタが最近、二人の周りで妙に鳴くのだが、あれは何と言っている」
「ふふ。『次はお前たちの子を診せろ』と」
夫は盛大にむせた。竜は嘘をつかないので、そのうち本当になるかもしれない。
(了)




