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この春はあなたと  作者: Rain_AI
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3/3

あの冬にきみと(2/2)


 仕事──と彼が呼ぶもの──で疲れ果ててあばら屋に帰ると、アルフォンソは当然のように、リディアが用意した夕飯の席についた。

 出された皿を見て、つい不満が口をついて出た。


「……これだけか? 味も薄いし、随分と粗末だな」


 その瞬間、リディアの我慢は限界に達した。ガタッと音を立てて立ち上がった彼女の瞳には、凄まじい怒りの炎が宿っていた。


「そんなに嫌なら、あの公爵令嬢様と結婚すればよかったじゃないの!!」


「なっ……」


 アルフォンソは言葉に詰まる。

 が、リディアの容赦のない()()は止まらない。


「ふん、今からヴィオレッタ様に縋り付いてみたらいいじゃない! 必死に泣けば、ペットくらいにはしてもらえるんじゃないの?」


「……君だって、あの婚約破棄に納得していただろう!! 今更何を言っているんだ!!」


 アルフォンソが声を荒げて反論すると、リディアは鼻で笑い、さらに激しく捲し立てた。


「はぁ〜? あんなに自信満々だったのはどこのどいつよ!! 『私と彼女を結びつける絆こそが真実の愛だ』? 笑わせないで! 仕事もまともに長続きしないくせに!」


「それは、私に相応しい仕事が──」


「もういい!! 明日から全部自分でやればいいでしょ!!」


 リディアは両手を乱暴に叩きつけると、本当にそれきりアルフォンソの分の家事を放棄してしまった。


 アルフォンソは仕方なく、料理や洗濯を自分でやってみることにした。しかし、元高位貴族の彼にまともな家事ができるはずもなかった。


 市場に行けば平民向けの安価な食材が分からず、勧められるがままに不相応に高い肉や野菜を買ってきてしまう。

 いざ調理をすれば火加減を間違えて食材を黒焦げの炭に変え、洗濯をすれば力任せにゴシゴシと擦りすぎて、数少ない衣類をいくつかダメにしてしまった。


 数日後、散らかり放題の部屋と無残な成果物を前に、リディアの怒りは再び頂点に達した。


「そんなのじゃ、いくらお金があっても足りないわよ!!」


 リディアは頭を抱えて絶叫した。


「も、もう少し練習をすれば必ず──」


 アルフォンソが言いかけると、リディアは冷ややかな目で彼を睨みつけ、スッと目の前に手のひらを差し出した。


「はい、払って。あたしがやるから、手間賃払って!!」


「……っ」


 リディアの剣幕にアルフォンソはただ圧倒され、黙り込むことしかできなかった。



 それ以来、家に帰ってもリディアは冷たい目で一瞥をくれるだけになった。その目が自分を責めているようにしか見えない。

 あばら屋の居心地の悪さに耐えかねたアルフォンソは、なけなしの小銭を握りしめ、平民街の安い酒場に入り浸るようになった。


「こんなはずではなかったのに……」


 濁った安酒を喉に流し込み、アルフォンソはうなだれた。

 愛するリディアと幸せになれると思っていた。あの日、自分たちはたしかに愛し合っていたはずなのに。

 なぜ、こんな目に遭わなければならないのだ。


 その時、隣のテーブルの客たちの騒がしい声が耳に入ってきた。


「おい、知ってるか! モンタギュー家のお姫様、隣の国の皇子との結婚が決まったんだとよ!」

「あ〜! あの商業地区の開発が成功したっていう、あのお姫様だろ!?」

「めでたいなぁ! あっはっは!」


 その言葉を聞いた瞬間、アルフォンソの頭にドッと血が上った。


 自分はすべてを失って、こんな汚い場所で泥臭く生きているというのに。切り捨てたつもりだったヴィオレッタは、自分の知らないところで大成功を収め、他国の王族と結婚するという。


「……クソッ!!」


 アルフォンソは激しく机を叩いた。

 周囲の客が怪訝そうな目を向けるのも構わず、怒りと後悔に塗れながら、安酒を煽り続けるしかなかった。



 風が日に日に冷たくなり始めていた。


 この貧しい暮らしから抜け出せないままでは、間もなくやってくる冬の寒さを越せる見込みがない。リディアは毎日のようにそう焦っていた。


 そんなある日のことだった。

 あてもなく彷徨う散歩の帰り道、アルフォンソは家の近くでリディアの怒鳴り声を聞いた。


「ちょっと!! なんなのよ!!」


 慌てて声のする方へ向かうと、がらの悪い連中がリディアを取り囲んでいた。そのリーダー格の男がリディアを脅した。


「おい、ねーちゃん。有り金全部出しな」


「はぁ? 嫌に決まってるじゃない!! これはうちの食費なんだから!! あたしたちに飢えて死ねって言うの!?」


 相手が無法者だろうとお構いなしに、リディアは猛然と怒鳴り返していた。


(リディアはいったい何を考えているのだ)


 あんな連中を刺激して、もし危ない目に遭ったらどうするのだ。そんなはした金、渡してしまえばいいのに。

 実家を追い出されてなお、貴族だった頃の金銭感覚が、いまだに彼の頭を鈍らせていた。


「ちっ、この女。黙って聞いてりゃ……」

「ふん、なによ」


 男が手を上げようとしたその瞬間、アルフォンソの身体は勝手に動いていた。


(ああ、くそっ!! 放っておけばいいものを……!!)


 頭ではそう思いながらも、アルフォンソはリディアと男の間に、割り込むように身体を滑り込ませた。


「……私の妻に、何か用だろうか?」


 思わず口から出た言葉に、彼自身も驚いていた。


「なんだてめぇは!!」

「おい、やっちまえ!」



 次に意識がはっきりした時、アルフォンソは冷たい地面にひっくり返っていた。

 秋の終わりを告げる、淡く高い空の青が視界に広がっている。


 身体中が激痛を訴えていた。

 実家を追い出されてから食生活がガラリと変わり、不摂生を続けていた身体は、自分が思っていた以上に力が出なかった。

 それに、侯爵令息の嗜みとして剣術は一通り習っていたが、街の無法者たちを相手にした一対複数の喧嘩では、全く役に立たなかった。もう少し、実戦的な武術を習っておくべきだったと、アルフォンソは今更ながらに考えていた。


「何やってるのよバカ!! 箱入りのお坊っちゃんのくせに!!」


 上から覗き込んできたリディアの顔は、怒りで真っ赤だった。


「……君こそ、無法者どもに怒鳴り返すなんて無謀だ」


 アルフォンソは、いつも通り覇気のない、けれどもどこか淡々とした調子で返した。


「だいたい、妻って何なのよ! アルフォンソ様みたいな情けない男──」


 さらに怒るリディアの言葉を遮るように、アルフォンソは全く脈絡のない質問を口にした。


「……なあ、君はなぜ、いまだに私といるんだ?」


 リディアが訳がわからないという顔をするのも構わず、アルフォンソは言葉を続ける。


「男爵家に入る前、庶子だった君は、もともと平民として過ごしていたのだろう? なら、私がいなくても一人でやっていけるはずだ。そもそも私は、籍も抜かれたうえに断種もされている。一緒にいたって、君には何一つ良いことなどないだろう」


「──前は、ママが一緒にいたから一人じゃなかったもん!!」


 リディアは突然、叫ぶように怒鳴った。


「あたしだって、突然こんなところに放り出されて、どうしたらいいのかわからないのっ!!」


 そう言って、リディアは子供のようにボロボロと涙を流し、号泣し始めた。


 その情けない、幼さすら感じる泣き顔を見つめながら、アルフォンソはハッとした。


 笑ったり、泣いたり、怒ったり。

 あの笑顔の仮面を貼り付けた貴族社会とは違い、感情をそのまま素直に見せる彼女の姿が、尊くて、愛おしくて。

 だから自分は彼女を好きになったのだ。


 かつて子供の頃に、馬車のカーテンの隙間から見た、感情に溢れた平民街の人々の活気。

 それがずっと忘れられなかった。

 あの時、確かに自分はその光に焦がれたのだ。


「ははは……!」


 アルフォンソは、不意に声を上げて笑い出した。


「な、何笑ってんのよ!!」


 泣きながら、怒りながら、怪訝そうな顔をするリディアの表情は相変わらず忙しい。

 なおも吹っ切れたように笑い続けるアルフォンソに、リディアもやがて困ったように笑い始めた。


 ただ、殴られてできた身体の傷は、やはりひどく痛んだ。





 王都の平民街にある小さな雑貨屋。その店先は、春の柔らかな光に照らされていた。


「おじさん! 頼むからラブレターの文句、一緒に考えてよ!」


 半泣きになりながらカウンターに身を乗り出してきたのは、近所に住む青年だった。

 おじさんことアルフォンソは、少し得意げに顎に手を当てると、すらすらと言葉を紡ぎ出す。


「そうだな……『君の瞳の輝きは、静謐な月夜に煌めく湖面のさざなみのようだ』なんてどうだ?」

「バカ言ってんじゃないわよ」


 横から容赦のない声が飛んできた。エプロン姿のリディアが、呆れた様子で鼻で笑う。


「情熱的な男がいいのなんて、恋愛に夢見ちゃってる若いときだけよ! 結局は、謙虚で誠実な男が一番なんだから!」

「ええ……。おじさん、昔なんかやらかしたの?」


 青年の率直すぎる質問に、アルフォンソはただ苦笑するしかなかった。


「アンタも、小賢しい真似してないで素直に好きって言いなさいよ。まったく、男って奴らはすぐに格好つけたがるんだから!」


 なおも小言を続けるリディアの声を聞きながら、青年は思い出したように手を叩いた。


「あ、そうだ。隣のおばさんがさ、なんか税のやつがよくわからなくて、後でおじさんに聞きに来るって言ってたよ」

「そうか、わかったよ」


 アルフォンソが頷くと、青年は感心したように目を丸くした。


「おじさんって本当に物知りだよな。なんでここで店なんかやってるの?」

「まあ、いろいろな。もともと君たちのために学んだ知識だ。遠慮なく頼ってくれ」

「……ほんと、何者なんだよ」


 青年は不思議そうに首を傾げながら、店を出て行った。


「アルー! ちょっと、こっち手伝って!」


 リディアの声が響く。


「ああ、すぐ行くよ」


 アルフォンソは青年を見送ると、すぐに奥へと入っていった。



 グラニット辺境伯領の領主邸に、穏やかな春の光が差し込んでいた。厳しい冬を越え、ようやく訪れた暖かな季節。

 エレノアは、淹れたての茶を前に、王都の王立学園に通う息子から届いた手紙を読み進めていた。


 その手紙には、近頃の王都の流行や、学生たちの間で交わされる情報が克明に記されていた。


「あら、リカルド。あの子から手紙が届いたのよ」


 エレノアは、向かいに座る夫のリカルドへ視線を向けた。彼は相変わらず険しい顔のまま、けれど静かにエレノアの言葉に耳を傾ける。


「王都にはね、どうやら平民たちが好んで通う、少し変わった雑貨屋があるんですって。あの子は直接行ったわけではないらしいのだけれど、情報として耳に入ったみたいで」


「雑貨屋、か」


「ええ。何でも、その店を営む夫婦がとても評判らしいの。豪胆で快活な奥さんと、物知りで色々な相談に乗ってくれる旦那さん、として近隣の者たちにとても慕われているそうなのよ」


 エレノアがそこまで口にすると、リカルドの緑の瞳が一瞬だけ小さく動いた。

 彼は何かを察したように、低く呟いた。


「……まさか、彼らか」

「ふふ、きっとその『まさか』ですわ」


 エレノアは扇子でそっと口元を隠し、微笑んだ。


 王都に拠点を残している貴族であれば、情報収集の一環として、没落した高位貴族の行方くらいは当然把握している。

 あの卒業パーティーで大騒動を引き起こし、貴族籍を剥奪されたアルフォンソとリディアが、今もなお王都の片隅で、夫婦として共に生きているという事実は、すでに社交界の一部でも知られ始めていた。


 国策を無に帰し、天文学的な損失を出したあの日の言動は、間違いなく愚行だったはずだ。

 けれど、すべてを失った最悪の状況から、今日まで二人で歩み続けてきたその月日は、一体何と呼べばいいのだろう。


(愛と欲の区別なんて、本当に曖昧で、不思議なものだわ)


 窓の外、春の陽光に目を細めながら、エレノアは手元の紅茶に一匙の砂糖を落とした。



 王都には再び、あの記憶に深い冷え込みが巡ってきていた。

 平民街の冬の朝は容赦がない。油断をすれば室内の水瓶に薄氷が張るほどの寒さの中、アルフォンソは誰よりも早く床を抜け出した。


 まだ薄暗い部屋の片隅、机の上に置かれた一通の手紙に目を落とす。

 それは、ラ・ヴァリエール侯爵家の現当主──彼の実の弟から届いたものだった。


『──貴様がどこからか送ってくるようなはした金で、我が家の被った損失がどうにかなるわけがないだろう。馬鹿馬鹿しいことに、社交界では今更「あの二人は本当に真実の愛だったのだ」などと手のひらを返したような噂が流れている。せいぜい勝手に真実の愛とやらをやっているといい』


 記憶の彼方にある、弟の呆れた声が聞こえた気がした。


「やはり、金は受け取ってもらえなかったか……。当然だな」


 アルフォンソはぽつりと呟いた。


 それだけのことを自分はしたのだ。

 家を追われた自分とは違い、残された弟はどれほどの苦労を背負ったことか。弟自身のせいでは決してないというのに。


 アルフォンソは静かに手紙を折りたたむと、鉄の棒を手に取り、冷え切った暖炉の前にしゃがみ込んだ。

 灰を慎重にかき分けると、夜の間に残しておいた赤黒い火種が、じんわりと顔を出す。


 それにしても。

 社交界の連中は相変わらずだ。


 紆余曲折はあった。けれど、リディアを愛しているという事実は、あの時と何も変わっていないというのに。

 それを、ある時は愚かだと罵り、ある時は真実の愛だと美談にする。随分と勝手なものだ。


「やれやれ……」


 アルフォンソはただ、小さく息を吐いた。そして、新しい小ぶりの薪と一緒に、弟からの手紙を火種の上へとくべた。

 そっと風を送るとぱちぱちとインクの乗った紙が燃え上がり、小さな炎が薪へと移っていく。


 やはり、あの体裁ばかりの貴族という生き方は、自分にはこれっぽっちも合っていなかった。


 パチ、と心地よい音を立てて火が強くなっていくのを見つめながら、アルフォンソはこれまでのリディアとの生活を思い返していた。

 いつからか、互いを「アル」「リディ」と呼び合うようになってからの、何でもない日々の記憶を。


 あの手痛い喧嘩の直後に迎えた、最初の冬。

 厳しい寒さの中、たった一枚の毛布に二人で身を寄せ合い、寒さに文句を言いながらなんとか暖を取ったこと。


 初めてまともに長続きした職で、小さな褒賞をもらった日。

「これで夫婦の証のアクセサリーを買ってちょうだい!」

 嬉しそうにねだるリディ。


 初めて成功させた、大して美味しくもない料理に。

「成長したわね! これからは料理も分担できるわ!」

 そう言って、口の端をつりあげたリディ。


「数年遅れでもいいから、絶対に素敵な結婚式がしたいの!」

 平民街の小さな教会で白いドレスを着て胸を張ったリディ。


 そして──


「やっぱり今日の夕食は、アルの作ったシチューが食べたいわ」

 そんな小さなワガママを言うリディ。


 思い出の中でくるくる変わっていく彼女の表情。

 そのどれもが、かけがえのない宝物だった。


 ああ、彼女は寒がりだから。

 起きてくる前に部屋を暖めておかなければ。


 強くなってきた炎の真ん中へ、大きな薪をくべた。ごうごうと音を立てて暖炉が爆ぜ、部屋の中にぬくもりが広がっていく。


 朝食は何がいいだろう。

 手作りのジャムをたっぷり塗ったパンに、温かいミルク。もしかしたら、昨日ご近所さんにもらった卵で作ったオムレツも食べたがるかもしれない。



──ガタッ



「おはよう、リディ。今日は何をするんだ?」


 相変わらず欲張りな彼女に、私はいつものように問いかけた。




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