あの冬にきみと(1/2)
あちらがメインなはずなのに、こちらの方が長くなっていました(困惑)
一瞬ざまぁが顔を出しますが、そのままお帰りになります。
──ヴィオレッタ・ド・モンタギュー!! 貴様との婚約を破棄する!!
私は信じていた。これで義務だ責任だともっともなことを言って、権力や格式という穢れに塗れた社交界から抜け出せると。
──このアルフォンソ・ド・ラ・ヴァリエールが誓おう! 私と彼女を結びつけるこの絆こそが、運命が導きし真実の愛であると!!
私は夢見ていた。この先に、真に愛する人との輝かしい日々が待っているのだと。
◇
窓の外には、春が満ちていた。
たなびく雲と混ざりあった柔らかな空の青が、心地よい陽だまりを地面におとす。
中庭を染めあげる花々は、西風に吹かれてそよそよと揺れている。
ガラスを一枚隔てたそこ──ラ・ヴァリエール侯爵家の執務室は、季節を逆行したかのような冬に支配されていた。
「まさか、これほどまでに愚かな真似をしてくれるとはな」
ラ・ヴァリエール侯爵は、温度を感じさせない瞳で、長男であった青年を見やった。
青年──アルフォンソが息を吸うと、凍てつく空気は肺の隅々まで流れ込み、その細胞一つ一つを蝕んでいく。彼は身体の震えを抑え込もうとしているようだった。
「商業街整備の利権を失うことがどれほどの損失になるか……はぁ、貴様に言ってもわからんからこそこの状況だったな。我が家の名に泥を塗りおって」
──コン、コン。
侯爵の指が机を叩く。
その無機質な音が、執務室に冷たく響いた。
アルフォンソは何度か口を開きかけ、ようやく絞り出したような声を発した。
「……し、しかし父上……私は」
「やめろ。貴様の考えなどきいて何になる」
侯爵は色も温度も完全に消えた瞳で、ただ野の獣を眺めるかのように、淡々と言い捨てた。
「もう貴様の父ではない。今後貴様がラ・ヴァリエールを名乗ることは許さん。今すぐ出ていけ。ああ、仮にも我が家の関係者がその辺りでのたれ死ぬのも外聞が悪いからな。平民街にあばら屋を用意した、餞別にくれてやる」
侯爵は、目の前の男から視線を外した。
「おい、薬を」
隅に控えていた家令が、アルフォンソの眼前に小さな瓶を差し出す。
「飲め。さもなくば死ね」
アルフォンソは「ゴクリ」と喉を鳴らすと、小瓶の中身を一息に飲み干した。
◇
冬の城から抜け出したアルフォンソは、その扉の前に立ち尽くしていた。
これからどこに行ったらいいのだろう。自身の行く末すら、今の彼にはわからなかった。
呆然とする彼の前に、音もなく影が差す。
「お坊っちゃま、こちらを」
従僕の手には、古臭い旅行鞄が握られている。最低限の荷物だけが詰め込まれたその鞄を、彼はアルフォンソの手へと握らせた。
拒絶する気力も湧かない。アルフォンソは何も考えられないまま、ただ従僕の背中について歩くことしかできなかった。
玄関ホールの大きな扉を抜けると、そこに一台の馬車が待っていた。けれどそれは、貴族が乗るような立派なものではない。塗装は剥げかけ、泥に汚れた、一目でそれとわかるほど粗末な平民用の馬車だ。
理解が追いつかず見つめていると、従僕が静かに言った。
「旦那様が、お坊っちゃまを家までお送りするように、と」
「……そうか」
アルフォンソは力なくそれだけ答えると、促されるまま馬車に乗り込む。
従僕が御者に告げる「それでは、よろしくお願いいたします」という声がどこか遠くに聞こえた。
パチリと扉が閉まり、馬車が動き出す。
侯爵家の屋敷を出てしばらく、粗悪な馬車はガタガタと激しく揺れ続けた。尻に響く硬い衝撃が、アルフォンソの意識を無理やり現実へと引き戻していく。
「……私は、どうしたらいいのだ」
アルフォンソは旅行鞄を抱え込み、深く頭を抱えた。
こんなはずではなかった。愛するリディアとの輝かしい日々が待っていると思っていたのに、現実は何だ。籍を剥奪され、父に捨てられ、こんな薄汚れた馬車に乗せられている。
そこまで考えて、彼は「あっ」と思い出した。
「……リディア!!」
そうだ、自分は一人ではないのだ。リディアはどうなった。彼女もまた、理不尽な大人たちに責め立てられているのではないか。
アルフォンソは慌てて座席から身を乗り出し、前方の小窓を叩いた。
「おい! クレール男爵家の屋敷を知っているか!? 寄ってくれ!!」
「へ、へいっ!?」
御者は突然の大声に困惑したようだったが、すぐに「わかりました!」と馬車の進路を変えた。
◇
クレール男爵家の小さな屋敷の前に馬車が到着すると、アルフォンソは居ても立ってもいられず扉に手をかける。
これまで扉の開閉などしたことのない彼は、自らの手際の悪さに思わず舌打ちをしそうになった。
やっとの思いで屋敷の門へと駆け寄ると、中から激しい言い争いの声が聞こえてきた。男爵らしき男の怒鳴り声と、聞き覚えのあるリディアの声だ。
「さっさと出ていけ! この役立たずが! 拾ってやった恩を仇で返しやがって!」
「はぁ!? 誰も連れてきてくれなんて頼んでないわよ!!」
「何だとこの小娘が!! せっかく見目の良い母親に似たというのに、駒にもならないどころか負債を抱える羽目になるとは……!!」
男爵の悔し紛れの罵倒に、リディアがあざ笑うような声を被せる。
「はん、ざまあみろ!! 節操もなくメイドにまで手を出すからよ!! この助平ジジイ!! あんたなんか一生奥様の尻に敷かれてればいいのよ!!」
リディアの母親は、この男爵家の元メイドだった。見目が良かったために男爵に手を付けられリディアが生まれた。母親は妊娠が分かった時点で職を辞し、母娘二人で平民街で暮らしていたらしい。
リディアが十三歳の頃に母親が亡くなり、タイミングよく男爵が彼女を引き取った。突然男爵家へ連れてこられ、二年間マナーを詰め込まれた末に学園へ入れられたのだ。
彼女の気の強さは知っていたつもりだったが、まさか父親相手にここまでの啖呵を切るとは、アルフォンソも思わなかった。
「……このッ!! これをさっさと追い出せ!!」
「きゃあッ!!」
男爵の怒鳴り声の直後、リディアの短い悲鳴が響いた。
屋敷の使用人たちに取り押さえられたリディアが、着の身着のまま門の外へと放り出される。彼女は勢いよく地べたへと座り込んだ。
身に纏っているのは裕福な平民が着るような、質は良いが簡素なワンピースだった。
あっけに取られていたアルフォンソは、我に返って慌てて駆け寄った。
「……リディア?」
声をかけるとリディアは、怒りと不安で泣きそうな顔をして声の主を見上げた。
「アルフォンソ様……」
彼を認識した瞬間、彼女の表情が少し明るくなり、瞳に期待が滲む。
「迎えに来てくれたのね……!」
「……その、そうなのだが……」
アルフォンソは思わず視線を逸らし、口ごもってしまった。
そんな彼の気まずさに気づかないリディアは、ぱあっと表情を輝かせる。
「よかった! 家を追い出されちゃって困ってたの……! 早く行きましょう!」
立ち上がろうとするリディア。けれどアルフォンソは、苦い顔をしたままどうしても足が動かない。彼女はその様子を不思議そうに見つめた。
「……アルフォンソ様?」
アルフォンソはぐっと身体に力を入れ、喉の奥に引っかかる言葉をどうにか絞り出した。
「……私も、家を追い出されたのだ」
「え……」
リディアは動きを止め、信じられないというように目を見開いた。その顔に、一気に焦りと不安が押し寄せていく。
「そんな……どうして……!? アルフォンソ様は次の侯爵様になるんでしょ!? なんで……」
「……勝手に婚約を破棄して、家に莫大な損害を与えたからだ」
アルフォンソはため息をつくように言った。父親の、あの温度のない瞳が脳裏をよぎる。
「幸い、父上……いや、侯爵様から、平民街にある家を与えられた。餞別だと」
「え?」
呆然とするリディアの手を、アルフォンソはそっと握りしめた。
「リディア。……私とともに来てくれるだろうか」
沈黙が落ちる。リディアは自分の汚れた服から、彼の顔へと視線を走らせた。
「もちろんよ!」
そう言って安堵したように、ふぅ、と小さく息をついた。
「……リディア!」
アルフォンソはふっと表情を緩めると、彼女の小さな身体を強く抱きしめた。リディアもまた、ぎゅっと彼の背中に手を回した。
◇
馬車が停まったのは、王都の片隅、悪臭と煤煙が立ち込める平民街の路地裏だった。
あばら屋の外観を目にした瞬間、アルフォンソは言葉を失った。木板は歪み、壁の塗装は剥げ落ち、今にも崩れそうだ。
「……これか?」
愕然とするアルフォンソの傍らで、リディアはこれが侯爵家からの「厄介払い」なのだと思い至った。
「中に入ってみましょう?」
野宿よりましだと自分へ言い聞かせると、リディアは割り切ったように扉を押した。
一歩、中へ足を踏み入れる。
「……なっ!?」
アルフォンソは息を呑んだ。これが家なのか。床板は踏むたびにギィギィと軋み、天井を見上げれば隙間から空が覗いている。冗談だろう、と叫びたかった。
しかし、リディアは少し安堵したような声をあげていた。
「……これなら、なんとか雨風は凌げそう。ちゃんと炉もあるわ!」
気丈に振る舞う彼女の声が、アルフォンソの耳にはどこか遠くの出来事のように響いていた。
◇
持ち出せたわずかな資金で、最低限の食料や食器、粗末な家具や服を買い揃えると、それだけで手元のお金は酷く心細くなった。
その日はまともに料理をする道具もなく、街の屋台や庶民の食堂で出来合いの安い飯を食べて済ませた。
二人は、翌日からすぐに仕事を探すことを決めた。
仕事探しの一日目。
アルフォンソは、かつて自分が客として出入りしていたような、富裕層向けの大きな商会をいくつか訪ねた。しかし、返ってくるのは冷たい言葉ばかりだった。
「身分の保証がない方は、当店では雇えません」
「なっ……! 私はラ・ヴァリエ──」
──今後貴様がラ・ヴァリエールを名乗ることは許さん。
脳裏に蘇った父の言葉に、アルフォンソは言葉を詰まらせた。
「いや……なんでもない。失礼する」
夕方、重い足取りであばら屋に帰ると、そこにはすでにリディアの姿があった。彼女は酷く慌てた様子で、アルフォンソに詰め寄ってきた。
「アルフォンソ様! 大変! お金が減ってるの!!」
「あぁ、それなら今日の食事代に、私が少し使ったが……」
「ええっ!? こんなに使っちゃったの!?」
アルフォンソの金銭感覚を目の当たりにし、リディアはあんぐりと口を開けた。だが、すぐに覚悟を決めたような顔をした。
「……アルフォンソ様。平民なら外食するにしても、一日に小銀貨一枚あれば十分なくらいよ」
「そう、なのか……? すまなかった」
初めて知る平民の常識に、アルフォンソは驚くしかなかった。
部屋の真ん中にある、ガタつく椅子に腰を下ろす。歩き回って疲れ果てたアルフォンソは、いつもの癖で、当然のように彼女へ告げた。
「リディア、温かい茶と夕食を頼む」
リディアは一瞬ぽかんとしたが、すぐに気を取り直して頷いた。
「……え? あ、うん。わかったわ!」
しかし、十三歳まで平民だったとはいえ、全部を一人でやったことのない家事は失敗続きだった。
「う〜ん、これ、ママはどうしてたっけ……」
リディアが台所で四苦八苦している横で、アルフォンソはどこからか手に入れた新聞を読むばかり。
──アルフォンソ様に仕事さえ見つかれば、きっとすぐに豊かな暮らしに戻れるはず。そうすればあたしは、立派な家で旦那さんを待つ素敵な奥様になれる。
リディアはそっと視線を外した。
ようやく出された夕食は、スープともつかない薄い液体のようだった。
「……ごめんなさい、アルフォンソ様。久しぶりだったから上手にできなかったの」
「そうか。なら仕方がないな」
アルフォンソは頷き、その不味い夕食を口に運んだ。
◇
その後、アルフォンソは平民向けの小さな商会になんとか雇われた。しかし、彼の貴族としての思考は抜けなかった。
「上流階級で流行りのこの品を扱えば、もっと売り上げが出るはずだ」
店主がため息をついた。
「うちは庶民向けの品を扱う商会なんだよ。余計なことをするな。うちの経営方針とズレてるんだ。夢見がちなおぼっちゃまになんて付き合ってられないね」
当然のようにクビを言い渡され、アルフォンソはうなだれながら歩いた。
「なぜわからないのだ! 私の言う通りにすれば儲かるというのに!」
次に就いたのは、嫌々ながらの肉体労働だった。しかし、まともに身体を動かしたことのない彼が役に立つはずもなかった。
「おい! なにサボってんだ!」
現場監督の怒鳴り声が飛ぶ。
「……はぁ、はぁ……もう、動けない……」
「はぁ? そんな少しの作業で何言ってんだ!? お前に払う日当がもったいねぇよ!」
「……私に、指示や管理の仕事を任せてくれないか?」
アルフォンソが息を切らせて提案すると、監督は鼻で笑った。
「現場の仕事も理解できない奴に、管理なんてできるわけねぇだろ! もう来なくていい!」
またしてもクビだった。
「……くそっ!! どいつもこいつも!!」
アルフォンソは路地裏で拳を握りしめた。事務や経理の仕事に就けさえすれば、自分なら完璧にこなせるはずだという、根拠のない自信だけが彼を支えていた。
◇
せっかく抜け出した貴族社会に戻るのは本意ではなかったが、自分の才能を生かせる仕事が見つからないのだから仕方がない。
そんな尊大な考えを抱きながら、アルフォンソは侯爵令息だった頃の友人や知人の屋敷を訪ね歩いた。
まずは、伯爵家の友人の元へ向かった。しかし、門番に名前を告げても、冷たく遮られた。
「先触れのない方はお通しできません。当家のご子息に、そのようなご友人はおりません」
門前払いだった。
ならば、かつての取り巻きであった子爵家はどうだと向かってみれば、かろうじて応接室にだけは入れてくれた。
しかし、元取り巻きは困ったような嘘くさい笑みを浮かべるだけだった。
「お力になりたいのは山々ですがね、アルフォンソ様。あなたのご実家やモンタギュー公爵家、ましてや王家に目を付けられるのは恐ろしいのですよ」
最後に、侯爵家の友人を訪ねた。
「真実の愛、でしたっけ? いやあ、傑作だ。我が家で雇用契約を結んだところで、また『真実の愛だ!』なんて言って契約を破棄されたら、たまったもんじゃないですよ」
散々煽られたアルフォンソは、屈辱に震えながら屋敷を後にした。




