第八話 女
訓練が始まって数日が経った。
陰嶺の朝は冷たい。五月だというのに、点呼の時は息が白くなる。新入り兵たちが震えている横で、白霜は別のことに頭を使っていた。
槍の、加減が難しい。
強すぎてもいけない。弱すぎると不自然だ。組み手の相手を倒しすぎた翌日は、わざと一度負ける。するとまた別の者が挑んでくる。その繰り返しだった。
「坊主、また手加減したろ」
訓練後、阿寛が水を飲みながら言った。
「してない」
「じゃあなんで昨日負けたんだよ。どう見てもお前より弱かったぞ、あいつ」
「調子が悪かった」
「都合よく調子が悪くなるんだな」
白霜は黙って水を飲んだ。阿寛はしばらく白霜を見ていたが、「まあいいや」とあっさり切り替える。
「そういえば昨日の夜、どこ行ってたんだ」
「城壁の上」
「なんで」
「景色が見たかった」
「…お前、女みてぇだな」
手の中の器が、わずかに揺れた。
(もしかして、気づかれた?)
でも阿寛はもう別の方を向いていた。ただの軽口だったらしい。白霜は息をゆっくり吐いた。
城壁の上から見た陰嶺の夜は、思ったより綺麗だった。山脈が月明かりに白く光って、遠くに街の灯りが瞬いている。鉄嶺荘の山とは違う景色だったけれど、高いところから見る夜は、どこも少し似ていた。
沈燼は夜景が好きだった。
——考えるのをやめた。今は、だめだ。
「兄!」
「なんだよ急に」
「蜜餅まだある?」
「昨日で終わった」
「阿寛兄!」
「おっえー!お前に甘えられても嬉しくねーよ!」
「蜜餅」
「ったく、本当に女かよ」
「阿寛兄はかっこいいな」
「……しょうがねーな。明日、街に買い出しに行くから買ってきてやる」
やれやれ、と頭を抱える阿寛の横で、白霜は少し笑った。
◆
訓練が始まって八日目の朝、点呼が終わった後に孟岩秋が近づいてきた。
「凌博。将軍がお前を呼んでいる」
心臓が、一拍跳ねた。
「…将軍が?なぜですか」
「知らん。来い」
阿寛が「おお」と声を上げた。
「坊主、将軍に目つけられたのか。やるじゃねーか」
「目をつけられたとは限らない」
「いや絶対そうだって。将軍が新兵を呼ぶなんて、普通じゃないぞ」
普通じゃないのはわかっている。白霜は阿寛を無視して、孟岩秋の後を追った。
◆
将軍の執務室は、城砦の奥にあった。廊下を歩きながら、頭の中を整理しようとした。訓練の何かが目についたのか。それとも、別の何かか。
扉の前で孟岩秋が立ち止まった。「入れ」とだけ言って、その場に残る。
扉を開けた。玄鷹が机の前に座っていた。書類から目を上げて、白霜を見る。何も言わなかった。ただ、見ていた。値踏みとも違う、分析とも違う。なんとも言えない種類の目だった。
白霜は入口に立ったまま、その視線を受け止めた。逸らしたら、負けな気がした。
「凌博」
「はい」
「一つ聞く」
玄鷹が立ち上がった。机を回って白霜の前に来る。思ったより、近い距離だった。
「お前は、女か」
世界が、一瞬静止した。
(ばれた)
否定しようとした。でもこの目の前で嘘をついても、意味がない。そういう目をしていた。けれど、ここで易々と認めるわけにはいかなかった。
「…男です」
将軍との関わりなんて皆無なのに。一体、どこでバレたのか。玄鷹の表情からは、何も窺い知れない。
「軍規は知ってるな」
「…はい」
「軍への虚偽報告は、杖刑二十回だ」
杖刑二十回。大の男でも死ぬ可能性がある。自分の体なら——考えたくなかった。
「もう一度聞く。お前は、女か」
「…お、男、です」
玄鷹はしばらく白霜を見ていた。それから、静かに口を開いた。
「では確認させてもらう」
「な、何をっ」
「軍規に書いてある。上官の命令は絶対だ」
一歩、近づいてくる。白霜は後ろに下がらなかった。下がったら、負けな気がした。
玄鷹の手が、ゆっくりと伸びてきた。帽子の鍔に指がかかる。白霜は反射的に手で押さえた。
「…っ」
動けなかった。帽子を押さえる白霜の手の上に、大きな手が重なる。体温が、じわりと伝わってくる。
白霜は前を向いたまま、息を殺した。将軍の顔が、近い。視界の端に、切れ長の目が見えた。こちらを見下ろしている。表情は読めない。でもその目が、静かに、確かめていた。
帽子の下から、後れ毛が一筋、頬に落ちた。玄鷹の指が、それをそっと払う。白霜の心臓が、跳ねた。
(やめて)
声には出なかった。将軍の指が、白霜の顎のあたりで止まった。それ以上は触れない。ただ、見ていた。長い、長い沈黙だった。
やがて、玄鷹がため息をついた。
「…面倒だな」
手が引かれた。白霜は帽子を両手で押さえたまま、うつむく。頬が熱かった。顔を上げられなかった。
「言い張るならそれでいい」
静かな声だった。
「ただし、問題を起こしたら容赦しない。それと——嘘はつくな」
返事ができなかった。玄鷹はそれ以上何も言わず、机に戻って書類を手に取った。もう白霜を見ていない。
「下がれ」
深く頭を下げて、扉に向かった。
廊下に出た瞬間、息を吐く。心臓が、まだうるさかった。頬の熱が、まだ引かない。
(なんだったんだ、今の)
自分に言い聞かせた。ばれていない──いや、普通にばれているだろうけど、追い出されなかった。それだけだ。それだけのことだ。
でも、指が触れた場所が、まだ熱かった。
扉が開いて、凌博が出てきた。
孟岩秋は壁に背をつけたまま、その顔を一瞥した。
頬が赤い。帽子を両手で押さえている。
(…なるほど)
それ以上は顔に出さなかった。
「戻れ」
短く言って、凌博が廊下を歩いていくのを見送った。
槍の型は悪くない。だが本職じゃない。本当に得意な武器は別にある。どこで習ったか——旅の師、では説明がつかない。長い間、武を叩き込まれた体の動きだ。
間者の可能性は、ある。だがそれにしては、隠すのが下手すぎる。
怪しいことに変わりはないが、将軍が判断した。
自分が口を出すことではない。




