守るために
魔塔の書庫の一角。
夜明け前の空気がまだ冷たさを残す中、アゼル・フェンリルは石造りの窓から遠く霞む東の空を見つめていた。
神殿から戻って数日。
マーサの言葉は、心の奥底に深く刺さったまま、抜けきっていない。
マーサが、自分の実の母であること。
そしてミレイアが、ノクシア侯爵夫妻の本当の娘ではなく、かつて一緒に育った幼馴染であること。
アゼルの記憶の中に微かに残っていた、あの小さな女の子の姿が、ミレイアと重なったこと。
何よりも恐ろしかったのは――ミレイアの実の両親が殺され、その娘のミレイアも死んだことになっているという事実だった。
彼女の存在を脅威と見なす者がいて、彼女を消そうとした。
もしかしたら、自分の実の父親が関わっているかもしれないことも、アゼルの胸を締め付けた。
ノクシア夫妻がなぜあれほどまでにミレイアを外に出そうとしなかったのか、ようやく理解できた気がした。
ただの過保護ではなかった。
彼らは、娘の命を守るために、あらゆるものを遮断していたのだ。
彼らは何かを知っている。
……一度、話を聞きにいかなくてはならないな。
ノクシア領に出入りするようになった頃、侯爵夫妻は、
「あの子を表に出すな、世間に知られてはいけない」
と、何度も繰り返した。
その言葉の裏に愛情以外の意味があるとは思っていなかった。
いつしかミレイアを手放したくないと思うようになっていたアゼル。
“彼女を外の世界から遠ざけるための役割”を自ら引き受けていたことに、今さらながら気づく。
思い出すのは、彼女が時折見せた無邪気な笑顔。
その笑顔が誰かに向くのが怖くて、
“恋をすると魔力が暴走する”という恐れを、必要以上に強調して語った。
「他人には近づくな」「他の男は信用できない」と、男たちの悪い噂を伝えたこともある。
学園に行くとミレイアが言い出した時、アゼルは何度も止めようとした。
「まだ領地の外に出るのは危険だ」
「この世界は、思っているほど優しくない」
そう言って、ミレイアの決心を何度も挫こうとした。それでも、彼女を止められなかった。
そのときノクシア侯爵は、静かに頭を下げて言ったのだ。
「どうか、ミレイアを頼む。――治療師として、側にいてやってほしい」
アゼルはもともと、魔塔と学園の連携研究の関係で、生徒として名簿に名前だけが登録されていた。
だが実際は、学園に通うことはほとんどなかった。
魔塔での研究と、ミレイアの魔力調整。それが日々のすべてだった。
今こうして彼が学園に“通っている”のは――ただ、彼女のそばにいるためだけだ。
ずっと、ミレイアが他の誰かと親しくなるのを、心のどこかで怖れていた。
彼女の世界に、自分以外の男が入るのが、恐ろしくて仕方なかった。
けれど今、それ以上に怖いのは――
彼女が再び命を狙われることだった。
神に近い存在だったというミレイアの両親。強い魔力を持っていたのに、暗殺を回避出来なかった。
彼女に真実を話すことはできない。
全てを知れば、彼女は動く。
守られることを望むのではなく、誰かを守ろうとする。
それがどれほど危うい道であっても、彼女は迷わないだろう。
だからこそ、自分は手を尽くす。
できる限りの術を備え、彼女のそばに立ち続ける。
アゼルは机の上に置かれた小さなペンダントに手を伸ばす。
これは、ずっと前に彼女に贈ろうと決めていたもの。
“何かあったとき、自分の魔力が彼女を守れるように”と、特別な結界を組み込んだ護符だった。
だが、これまで渡せずにいた。
ずっと、自分の手元に置いておきたかった。渡してしまえば、本当に、誰かのものになってしまいそうで
静かに手を翳すと、ペンダントに淡い青白い光が宿る。
アゼルの魔力が、穏やかに、しかし確かに流れ込んでいった。
「守らなくては」
アゼルはペンダントを懐に収め、静かに塔を出た。




