コロッケ
貧乏食の王者といえばコロッケだろうか。
おかずにして良しおやつにして良しの手ごろな満腹感と、百円前後という子供の小遣いにも優しい価格設定――私が子供の頃には、たしか70円だったと記憶している。
スーパーの総菜コーナーが充実した昨今ではピンと来ないだろうが、コロッケは肉屋で買うものである。少なくとも子供たちが親に隠れて買い食いするコロッケといえば、肉屋のコロッケだった。
肉屋では主婦が夕食の買い出しに出かける時間に合わせてコロッケを揚げ始める。そのターゲットである主婦たちよりもはやく肉屋の店先に現れるのが、運動系の部活で腹をすかせた学生たちである。
想像してもみたまえ、朝方にはシャッターを閉めて何の香りも放っていなかった肉屋の店先が、一日動き回って夕食も待てないほどの空腹に支配された脳を揺さぶるような香ばしい揚げ物の匂いで満たされているのである、抗えるはずなどなかろう。
子供たちは握りこんだ小銭と引き換えに、輸送から引き揚げられたばかりの黄金色のコロッケを手にするのである。少し心得た店ならばショーケースの片隅鳴り、表に置いた小テーブルなりの上に自由に手に取れるように置いたソースが常備されているが、それにいきなり手を伸ばすのは買い食いの素人、揚げたてのコロッケは何もつけない上程でさえうまいものであると、買い食いの玄人たちは心得ているのだ。
何もつけずに一口め、口中にびっくりするくらいの熱さと衣の香ばしさが広がる。これを覚ますために行儀悪く、「ほふ、ほふ」と呼吸を吹き荒らす。
頃合いを見て歯の間でかみつぶせば、まず感じるのはボリュームあるジャガイモのもったりとした甘み、そして混ぜ込まれた肉から遠慮がちに染み出しながらも存在を主張する肉汁。
「うっま!」
ここから夕飯までを凌ぐ貴重な糧食だと思えば、一口一口がいとおしい。
そうして揚げ物の匂いに包まれて食べる、肉屋のコロッケは、いささかのノスタルジーという脚色を取り払ってなお、今でも味覚の記憶に刻まれて消えぬほどのボリュームと味であった。
ところが、いま住んでいるここは田舎であるためか、小売り形態での肉屋というものが近所にない。
コロッケを買うといえばスーパーの総菜コーナーで、いかにも冷凍コロッケを揚げただけの形良すぎるものを買うしかない。
このコロッケ、決してまずくはないのだが……ご家庭と違って湯音変化の少ない大型のフライヤーで揚げた、ただそれだけでも揚げ物の味というのは全然違う。何より短時間で調理が済むため、油切れ良いサクリとした衣はそれだけでも買う価値がある。
それでも我が家は、コロッケに関しては手づくり派だ。もちろん、ジャガイモを茹でるところから始まるほんとうの手作りだ。
手作りコロッケの拙い点は成形の不格好さにある。特に家では不器用な私が芋を丸めてつぶし、どうにか市販コロッケのような小判型に成形するのだから、どうしても歪になる。
形づくりは難しいが、作り方そのものは簡単、茹でたジャガイモをつぶし、ひき肉と玉ねぎを炒めて混ぜ込み、塩コショウで下味をつけてからよく練り合わせる。
混ぜると練るは紙一重、ぐるぐると味がなじむようにかき混ぜるのではなく、ジャガイモの粘りが絡み合うように練り合わせるのがコツだ。上手に練り合わせればつなぎなどいらない。
これを小判型に成形する、ここが一番難しい。
ジャガイモは固まったように見えても、少し油断するともろっと崩れるものだ。だから無口になり、ひたすらこねこねと不格好な塊を作り上げて行く。
ここにパン粉をつけて、いよいよ揚げようというわけだが、うちではここで小麦粉と溶き卵の代わりにバーター液を用意する(検索用表記:バッター液)。
これによりパン粉の内側にも薄い衣の層が出来上がるわけである。ここにパン粉を絡ませるのだから、柔らかく頼りないジャガイモ部分をしっかりと包み込んで、噛めばサクッとしたを外装を成す。コツさえつかめばお店で食べるようなしっかりと衣の巻いた揚げ物に仕上がるため、ぜひ一度お試しを。
さて、かわいらしくパン粉に包まれたコロッケを油に泳がせるときに注意点が一つ、一度に入れる揚げ物の量は脂の中でゆるりと泳ぐ程度の少なめを心がけること。
揚げ物を上手に作る唯一のコツは油温の管理にある。近年はガスコンロ事態に温度調整の機能がついている者も多く、昔のようにマメに火加減を調整する必要もなくなったが、それでもである。
油より温度の低い具材を入れた時、当然に温度は下がる。この温度の変化を最小限にとどめるためには油は大きめの鍋にたっぷりと、入れるものは少なく、が理想なのである。
それゆえ、我が家では大きな中華フライパンに油を張っても一度にいれるコロッケは二個まで、弁当用の小さなコロッケを揚げる時も五個までが限度と決めている。
我が家は一人が四個のコロッケを食べる計算、しかも残った分は弁当用に冷凍するので、毎回二十個を超えるコロッケを私が一人で揚げる。つまりどうしても十回以上は、油にコロッケを落とし、これを焦がさぬようにきれいに揚げて、油から引き揚げるを繰り返すわけだ。
特に夏場の熱い季節にはじっとりと蒸れるような熱気をあげる油の前に長時間立つという、それだけでも苦行である。それでも子供らはコロッケといえば、スーパーの総菜コーナーのものではなく、私が作るものをねだる。
思えば味の定番というものは、幼少時に体験した味覚に付随する記憶をもとに作られるものなのだろう。
私がコロッケといえば肉屋の店先で、耐油紙の袋に無造作に放り込まれたものを味もつけずにかぶりつく、あの行為を含めて『コロッケ』だと認識しているように、子供たちにとっては台所で大汗をかきながら揚げ物をしているかーちゃんにねだって味見させてもらう揚げたてこそが『コロッケ』なのだ。
そう思えば豊かな味覚というものも豊かな人生経験により形成されるものであるなあ、などという哲学を、油のにおいをゴンゴン音を立てて吸い上げる換気扇の下で、ぼんやりと思ったりするのである。