第十三章:翳(かげ)りゆく週末、見えないノイズ
金曜日の午後、オフィスに差し込む西日はどこか残酷なほど明るかった。窓際の席に座る麻衣の顔にも、その眩しい光が容赦なく差し込んでいた。あと少しで週末だという解放感と、明日の公園デートへの期待が、麻衣の心を軽やかにしていた。
デスクの隅に置いたスマートフォンの画面が、短い振動と共に光る。高瀬からのLINEだ。
きっと、「明日は何時にどこで?」という、待ちきれない想いが詰まったメッセージに違いない。麻衣はほんの少しだけ口角を上げ、周囲に悟られないよう、そっと画面をスワイプした。
けれど、そこに並んでいたのは、麻衣の期待を無惨に引き裂く言葉の羅列だった。
『麻衣さん、本当に、本当に申し訳ありません。明日の公園での約束ですが、どうしてもキャンセルさせていただけないでしょうか』
心臓が、冷たい水に浸されたように縮み上がる。
読み進めると、そこには彼の痛切なまでの謝罪と、不測の事態が綴られていた。文字を追う麻衣の指先が、わずかに震えていた。
『明日は会社のイベントでバーベキューがあったことを、麻衣さんとの約束が楽しみすぎて、完全に失念していました。幹事の後輩から確認が来て初めて気づき、一度は断ったんです。でも、上司から「次の大きなプロジェクトのメンバーが全員集まるから、ここで親睦を深めておかないと今後の動きに響くぞ」と強く言われてしまい……。転勤してきたばかりの身として、どうしても断り切れませんでした。僕の不徳の致すところです。本当に、ごめんなさい』
文面から溢れ出る彼の焦りと申し訳なさが、画面越しにも痛いほど伝わってきた。それでも、麻衣の胸に広がる落胆は、簡単には消えなかった。
麻衣は、スマートフォンの画面を見つめたまま、しばらく身動きが取れなかった。
指先が微かに震える。
怒りではない。それは、自分の「特別さ」が、会社の「業務」という抗いようのない大義名分に負けたことへの、言いようのない無力感だった。
オフィスの喧騒が、急に遠く聞こえる。周囲の同僚たちは変わらずキーボードを叩き、電話に応対している。この落胆を誰にも気づかれてはならないと、麻衣は必死に表情を取り繕った。
『お仕事ですもの、仕方がありません。気になさらないでくださいね。バーベキュー、楽しんできてください』
画面を叩く指は、驚くほど事務的な言葉を選んでいた。本当は「私を優先してほしい」と、たった一言伝えたいだけなのに、その言葉はどうしても喉の奥に引っかかったまま、外には出てこなかった。
大人の分別。
ここで「嫌だ」「私を優先して」と言えるほど、麻衣は若くないし、愚かでもない。けれど、物分かりの良い大人の仮面を被れば被るほど、仮面の下の素顔は醜く歪んでいく。
周囲の同僚たちは、いつもと変わらぬ様子で仕事を続けている。誰も、麻衣の心の中で今何が起きているかなど、知る由もなかった。この孤独な感情を、誰にも打ち明けられないまま抱え込むしかないことが、麻衣にはひどく苦しく感じられた。
*
翌日の土曜日。
本来なら、今頃は新しいラベンダー色のワンピースに袖を通し、鏡の前で微笑んでいたはずだった。
けれど今の麻衣は、色褪せたスウェット姿で、薄暗いリビングのソファに深く沈み込んでいる。
テレビをつけても内容が頭に入らず、スマートフォンを何度も確認しては、また裏返す。時間だけが、いやに緩慢に過ぎていった。
窓の外は爽やかな五月晴れだった。本来ならこの陽気の中、彼と並んで歩いているはずだったのに。麻衣はカーテンを閉め、部屋の中に自分自身を閉じ込めるように、ソファにさらに深く体を沈めた。
高瀬は今頃、河川敷かどこかの緑地で、賑やかな喧騒の中にいるのだろう。
お酒が飲めない彼のことだ。きっと、甲斐甲斐しく肉を焼き、誰かのグラスに烏龍茶を注いでいるに違いない。
ふと、高瀬が言っていた「幹事の後輩」という言葉が、トゲのように胸に刺さった。
夕方、高瀬から一枚の写真が届いた。
『現場はこんな感じです。麻衣さんと静かに過ごしたかったな、と肉を焼きながら考えています』
その写真には、炭火の上で弾ける肉や野菜と共に、数人の男女が笑いながら写っていた。
その中で、高瀬のすぐ隣に座り、太陽のような満面の笑みを浮かべている一人の女性がいた。写真を拡大すればするほど、麻衣の胸に鉛のような重さが積み上がっていった。
ショートボブの似合う、快活そうな女性。
麻衣よりは明らかに若く、けれど大学生のような幼さはない。
三十二、三……いや、三十代後半といったところだろうか。
彼女は、高瀬の腕に自分の腕を軽く触れさせながら、トングを手にした彼に何かを耳打ちしている。
その距離感の近さに、麻衣は息が止まりそうになった。写真の中の高瀬は、麻衣の知らない、屈託のない笑顔を浮かべていた。その表情の自然さが、かえって麻衣の胸を締め付けた。
写真を拡大し、麻衣は彼女の表情を何度も確認した。屈託のない笑顔。日焼けした健康的な肌。周りの人々との自然な距離感。すべてが、麻衣が失って久しいものばかりだった。
(……この人が、幹事の「後輩」?)
ほどなくして、高瀬の会社のFacebookグループが公開されているのを、麻衣は執念に近い執着で見つけ出した。
彼女の名前は「和久井奈々子」。三十七歳。麻衣は、まるで探偵にでもなったかのような自分の執着心に、後になって自己嫌悪を覚えるだろうことを分かっていながら、それでもスマートフォンの画面から目を離せなかった。
麻衣の六歳下。
三十七歳という年齢は、四十三歳の麻衣にとって、残酷なまでに「可能性」に満ちた数字に見えた。
まだ出産を望めるかもしれないし、肌のハリも、未来への楽観も、麻衣よりはずっと多く持ち合わせているはずだ。
こんな比較をすること自体が、自分を貶める行為だと分かっていながら、麻衣は止められなかった。年齢という、どうしても覆すことのできない現実が、今の麻衣の心をじわじわと蝕んでいた。
彼女なら、バーベキューの場で高瀬とビールを(彼は飲めないけれど)楽しそうに酌み交わし、屋外の開放的な空気の中で、彼の「男としての本能」を刺激することができるかもしれない。
麻衣はキッチンへ向かった。
予定のなくなった週末を埋めるように、無心に包丁を動かす。
今日の作り置きは、小松菜の浸しと、筑前煮。
いつも通り、丁寧に出汁を引き、野菜の角を取る。けれど今日は、いつものような満足感がどこにもなかった。手順を追うことはできても、心はどこか遠くに飛んでいってしまっている。
包丁を持つ手が、いつもより重く感じられた。まな板の上で野菜が転がる音さえも、今日は耳障りに聞こえる。料理という行為が、いつしか麻衣にとって、心を鎮めるための儀式になっていたはずなのに、今夜だけはその効果が全く感じられなかった。
とはいえ、出来上がった料理をタッパーに詰めながら、麻衣は虚しさに襲われた。
(私は、こんなことをしていて何になるんだろう)
暗いキッチンで、冷めていく筑前煮を眺める。
高瀬は、奈々子のような若々しくて活動的な女性に囲まれている。
一方の麻衣は、静かな部屋で、一人分の地味な和食を作っている。
その対比があまりにも鮮やかで、麻衣は自分がこの恋において、いかに分の悪い戦いを強いられているかを、否応なく思い知らされた。
彼が自分に抱いた興味なんて、ほんの一時の、酔狂な「癒やし」に過ぎなかったのではないか。
水族館の青い闇の中で、手を重ねたあの瞬間も。
ビストロの琥珀色の照明の下で、未来を語り合ったあの言葉も。
この「三十七歳」という鮮烈な現実を前にすれば、すべてがセピア色の幻影のように霞んでいく。
高瀬の優しさは、本物だったはずだ。けれど、優しさと恋愛感情は、必ずしも同じ強さで結びついているわけではない。彼が自分に見せてくれた温かさは、もしかしたら誰にでも向けられる、彼の性分そのものだったのかもしれない。そう考えると、麻衣の中で積み上げてきた確信が、音を立てて崩れていくようだった。
一度疑いを持ち始めると、これまでの記憶さえも別の色に染まっていく。彼の優しい言葉の数々が、今では空虚な社交辞令のようにさえ思えてくる。人の心とは、こんなにも脆く、簡単に姿を変えてしまうものなのかと、麻衣は自分自身の不安定さに戸惑っていた。
「……こんな私を、彼が抱きたいなんて思うわけがない」
独り言が、冷たいシンクに響いた。
和久井奈々子。彼女はきっと、迷わずに彼を自分の部屋へ誘い、その健康的な身体で彼を魅了するだろう。
この年齢の麻衣が、鏡の前で一時間も悩んで出した「慎み」や「戸惑い」なんて、彼女の放つ一瞬の輝きの前では、古臭い道徳のように切り捨てられてしまう。
その夜、高瀬から「今、帰宅しました。麻衣さんの声が聞きたいです」とLINEが来た。
いつもなら、すぐに通話ボタンを押していただろう。
けれど、麻衣はスマートフォンを裏返した。
声を聞けば、きっと「あの女性は誰?」と聞いてしまう。
そんな嫉妬に狂った醜い自分を、彼に見せるわけにはいかなかった。
一度火がついた不安は、止まることを知らない。
暗い寝室で横になりながら、麻衣は昨日までの「幸福」が、どれほど脆い地盤の上に立っていたかを痛感していた。ほんの数日前まで、この上ない幸せを感じていたはずなのに、たった一枚の写真が、その全てを揺るがしていく。
天井を見つめながら、麻衣は自分の呼吸の音だけを聞いていた。規則正しいはずのその音さえも、今夜はどこか不安定に感じられる。眠りへの入り口が、今夜はどこにも見つからなかった。
四十三歳の恋には、もう「無条件の肯定」なんて存在しない。
常に誰かと、あるいは「かつての自分」と比べられ、磨り減っていく。
和久井奈々子という影が、麻衣の心の中の「高瀬」という居場所を、少しずつ奪っていく足音が聞こえるようだった。
眠れない夜の淵で、麻衣は自分の冷えた足を抱えた。
カーテンの隙間から漏れる街の明かりが、天井にぼんやりとした影を落としている。数時間前まで、この部屋には揺るぎない希望が満ちていたはずなのに、今はただ、冷たい孤独だけが麻衣を包んでいた。
彼に、自分の料理を食べてもらえる日は、本当に来るのだろうか。
それとも、この作り置きが傷んで捨てられる頃には、彼はもう、麻衣の知らない誰かの隣で笑っているのだろうか。
冷蔵庫の中でひっそりと並ぶタッパーたちが、まるで叶わなかった約束の残骸のように、麻衣には見えた。
週末の静寂は、死を予感させるほどに深く、重かった。




