↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
さよならの後の余白に、名前をつけるなら  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/13

第十二章:聖域の戸惑い、あるいは鏡の審判

月曜日の朝。

 駅のホームに溢れる人々は、昨日まで麻衣がいたあの青い水底の世界とは、あまりにかけ離れた「日常」をまとっていた。満員電車に揺られながら、麻衣はふと、たった二日前まで自分がいた場所を思い出し、その落差にくらくらするような感覚を覚えた。

 電車の窓に映る自分の顔を、麻衣はぼんやりと見つめた。疲れた通勤客たちの顔の中に混じって、自分だけが、どこか違う光を纏っているような気がした。誰かに気づかれているわけでもないのに、麻衣は無意識に口元を引き締め、表情を取り繕った。

 改札を抜け、いつもの通勤路を歩く。桜並木はすっかり葉桜に変わり、初夏の気配が濃くなっていた。季節が移り変わるように、麻衣自身の内側でも、何かが確実に変わり始めていた。

 オフィスに到着し、いつものようにコーヒーを淹れ、パソコンを立ち上げる。画面に流れる無機質な数字やメールの文面を眺めながら、麻衣の指先は時折、無意識に左手の甲を撫でていた。

 仕事に集中しようとするたびに、脳裏には昨夜の記憶が蘇ってくる。彼の手の温もり、二人で見つめた青い水槽、そして玄関先で交わした短い会話。どれもが、麻衣の日常に新しい色を差し込んでいた。

 あそこで彼が触れた、たしかな熱。

 昼休み、後輩がまた麻衣の顔をじっと見つめてきた。

「佐伯さん、週末なにかいいことありました? なんだかオーラが違いますよ」

「……気のせいだと思うけど」

 誤魔化しながらも、麻衣は自分の変化がこれほど周囲に伝わっていることに、少しの気恥ずかしさと、それ以上の嬉しさを感じていた。

「絶対何かありましたよね。前より、なんていうか、肌の艶が違います」

 後輩はさらに追及してきたが、麻衣は曖昧な笑みを浮かべて話をそらした。この幸福を、まだ誰にも言葉にしたくない。自分だけの秘密として、もう少しだけ大切に温めておきたかった。

 パソコンの画面に向き直りながら、麻衣は今日一日の業務を頭の中で整理していく。取引先への提案資料、月次報告書、そして午後の会議の準備。いつもなら気の重い作業のはずなのに、今日はすべてが、どこか軽やかにこなせるような気がした。

 昼休みの後半、麻衣は給湯室で一人、高瀬に何と返そうか考えながら、コーヒーを二杯目淹れた。誰にも見られたくない、けれど誰かに聞いてほしいような、複雑な高揚感が胸の中で渦巻いていた。

 あの日から、二人のLINEはさらに密なものになっていた。

 朝の「おはよう」から始まり、昼休みにはランチの写真を送り合い、夜にはその日の些細な出来事を報告する。それは、かつての結婚生活でも味わったことのない、細やかで瑞々しい言葉のキャッチボールだった。

 ある日は、高瀬が出張先で見つけたという珍しい駅弁の写真が届いた。またある日は、麻衣が通勤電車で見かけた面白い広告の話に、彼が思いのほか長い返信を送ってきた。他愛のないやり取りの一つひとつが、麻衣の一日の輪郭を、以前よりもずっと鮮やかに縁取っていく。

 ある晩、高瀬から届いたメッセージには、彼が読んでいるという古い推理小説の一節が引用されていた。麻衣はその文章を何度も読み返し、彼がどんな気持ちでその一文を選んだのかを想像した。文字だけのやり取りの中にも、彼という人間の奥行きが、確かに滲み出ていた。

 麻衣もまた、自分が読んでいる本の感想や、通勤中に耳にした音楽の話を、気負うことなく彼に送るようになっていた。かつては誰かに自分の内面を見せることを恐れていたはずなのに、高瀬に対してだけは、その壁が驚くほど自然に低くなっていく。

『麻衣さんの作った「彩り野菜の肉巻き」、本当に美味しそうですね。画面越しに香りがしてきそうです』

 夜、キッチンで作り置きの保存容器を並べながら、そのメッセージを受け取った。

 胸がキュッとなる。この、誰かに見せるためでも、褒められるためでもなく続けてきた麻衣の「日常」を、彼はまるごと肯定してくれる。

(食べてほしいな……)

 その想いは、もはや誤魔化しようのないほど膨らんでいた。

 しかし、その後に続く一歩を想像した瞬間、麻衣の心に冷たい霧が立ち込める。

「うちに、呼びたい」

 その言葉を口の中で転がしてみるが、どうしても飲み込めない。

 四十を過ぎた、バツイチ。

 この年齢で男性を自分の部屋に招くことは、何を意味するのか。

 友人に相談しようかとも思ったが、こんな些細なことで大騒ぎする自分を想像すると、途端に恥ずかしくなった。この歳になって、初めてのお泊まりに悩む十代のような自分に、麻衣は苦笑するしかなかった。

 けれど、笑ってばかりもいられない。この感情は、決して軽いものではなかった。むしろ、これほどまでに真剣に一人の相手について悩めることが、麻衣にとっては久しぶりの、貴重な経験だった。

 結婚生活の中で、麻衣はいつしか「悩む」という行為そのものを放棄していた。悩んだところで何も変わらない、そんな諦めが日常に染み付いていたのだ。今、こうして一人の男性のために真剣に思い悩めることが、実は自分がまだ「生きている」ことの証明なのだと、麻衣は静かに気づき始めていた。

 仕事帰り、麻衣はふと立ち寄った書店で、恋愛エッセイのコーナーに足を止めた。かつては見向きもしなかった棚だが、今の麻衣には、そこに並ぶ本の一冊一冊が、まるで自分のために書かれた手紙のように感じられた。結局何も買わずに店を出たが、そこに立ち止まった数分間だけで、麻衣の心は少しだけ軽くなっていた。

 もし麻衣が「私の料理、食べに来ませんか?」と誘えば、それは暗黙のうちに「その後の展開」を許可したことにならないだろうか。

 彼は誠実な人だ。体目当てで近づいてくるような人ではない。それは分かっている。

 でも、だからこそ怖いのだ。

 麻衣は、バスルームの鏡の前に立った。

 お風呂上がりの、何の飾りもない、ありのままの自分。湯気で曇った鏡を手のひらで拭うと、そこに映るのは、化粧もせず、着飾ってもいない、剥き出しの、飾らない姿だった。

 五年間、誰にも触れられていない麻衣の身体。

 二十代の頃のような弾力はなく、重力に逆らえない曲線がそこにある。

 けれど、その曲線の一つひとつに、これまで生きてきた時間の記憶が刻まれているのだとも、麻衣は思う。仕事に打ち込んだ日々、離婚を乗り越えた夜、そして今、また新しい誰かを想う心。若さとは違う種類の説得力を、自分の身体はきっと纏っているはずだ。そう思おうとしても、鏡の前の不安は簡単には消えてくれなかった。

(彼は、こんな私を抱きたいと思うのだろうか)

 もし、部屋に呼んで、美味しい料理を食べて、楽しくお話しして。

 それだけで、彼が「じゃあ、おやすみなさい」と帰っていったら?

 それはそれで、女としての敗北のような気がしてならない。自分には、彼に「一線を越えたい」と思わせるほどの魅力がないのだと、残酷に突きつけられるようで。

 こんな考え方自体が、どこか歪んでいることは、麻衣自身も分かっていた。相手に「求められる」ことだけが女性の価値だという発想は、若い頃の自分がもっとも嫌っていた古い価値観のはずだった。それなのに、いざ自分がその立場に立たされると、同じ落とし穴に簡単にはまってしまう。人間の心の複雑さに、麻衣は苦笑せざるを得なかった。

 だが、いざ彼が自分を求めてきたとき、麻衣は自分に自信を持って応えられるのだろうか。

 準備ができていない。

 心の準備も、身体の準備も。

 五年の空白は、麻衣から「女であること」の滑らかさを奪い、代わりに「生活者」としての硬い殻を植え付けてしまった。

 結婚していた頃は、こんなことで悩んだ記憶などなかった。ただ日々の生活をこなすことに必死で、自分が「女」であることを意識する余裕すらなかったのだ。皮肉なことに、その感覚を取り戻させてくれたのが、たった二回会っただけのこの人だった。

 鏡の前で、麻衣は自分の頬に軽く触れてみた。この手で誰かに触れられることを、これほどまでに意識するのは、本当にいつ以来だろう。恐れと期待が入り混じった、名前のつけがたい感情が、麻衣の胸の奥で静かに渦を巻いていた。

「……バカみたい」

 麻衣は鏡の中の自分を睨みつけた。

 まだ正式に「付き合ってください」と言われたわけでもない。ただ一度デートをしただけで、何をこんなに先走っているのか。それなのに、頭の中は既に、二人で過ごす未来の光景でいっぱいだった。

 冷静になろうと何度も自分に言い聞かせても、心はどうしても浮ついたままだった。まるで制御の効かない乗り物に乗っているような、そんな心地よい戸惑いが、麻衣の日常を支配していた。

 でも、大人の恋には、そんな明確な区切りなんてないことも知っている。

 空気で、視線で、あるいは部屋の湿度で。

 なし崩しに、けれど決定的に変わってしまう瞬間が、すぐそこまで来ていることを本能が察知していた。

 次の週末の約束を決めなければならない。

 麻衣の指は、スマートフォンの画面の上で何度も止まった。何度も文面を打っては消し、また打っては消す。まるで、たった一通のメッセージが、これから始まる関係のすべてを決定づけてしまうかのような、そんな緊張感が麻衣を包んでいた。

『今度は、私の家で夕食でもどうですか?』

 そう打っては、消す。

『週末、またどこか外でお会いしませんか?』

 そう打っては、また消す。

 外で会いたい。もっと彼の目を見たい。

 彼の瞳に映る自分が、どんな顔をしているのか。

 居酒屋の時のような「暗い人」ではなく、水族館の時の「情熱的な人」でもなく、ただの自分のことを、彼はどう見ているのか。

 もう一度外で会って、その「視線の熱量」を確かめてからでなければ、自分の聖域であるこの部屋の扉を開けることはできない。

 考えれば考えるほど、答えは同じところに行き着いた。まだ、家に招くには早い。けれど、会いたい気持ちを抑えることもできない。ならば、外の空気の中で、もう少しだけ二人の距離を測ってみたい。それが今の麻衣にできる、精一杯の妥協点だった。

 自分でも、その慎重さが少し滑稽に思えることがあった。四十三歳という年齢は、時に大胆さを許してくれるはずなのに、麻衣の中の臆病さは、若い頃よりもむしろ強くなっているようだった。それだけ、この関係を大切にしたいという気持ちの裏返しでもあるのだろう。

 失うものが少なかった若い頃は、傷つくことを恐れずに済んだ。けれど今は違う。この年齢まで積み重ねてきた自分の人生、自分の誇り、そのすべてを賭けているからこそ、一歩一歩が慎重にならざるを得ないのだ。それは弱さではなく、経験を重ねた者だけが持つ、成熟した愛し方なのかもしれないと、麻衣は思い直した。

 翌日、スーパーの帰り道。

 麻衣は、夕暮れ時の赤く染まった街を歩きながら、高瀬にLINEを送った。

『高瀬さん。今度の週末、もしよければ……少し静かな公園か、テラスのあるカフェでゆっくりお話ししませんか?

まだまだ高瀬さんの「旅の話」の続き、聞きたいんです』

 送信。

 送ってから、ふっと溜息が出た。

 情けない自分。臆病な自分。

 でも、これが今の麻衣の「誠実さ」なのだと思う。

 数分後、スマートフォンの震え。

『いいですね。ちょうど、最近見つけた眺めのいい公園があるんです。そこで、麻衣さんの「これからやりたいこと」の続きも、ぜひ聞かせてください』

 彼の返信は、いつも麻衣の逃げ場を塞ぐことなく、優しく包み込んでくれる。

 抱きたいと思われる魅力があるかどうか、そんな不安にさいなまれる自分を、彼はいつも「言葉」で抱きしめてくれているのかもしれない。

 スマートフォンの画面を閉じ、麻衣は小さく息を吐いた。まだ何も解決したわけではない。けれど、少しずつ、確実に、二人の間に積み重なっていくものがある。それだけで、今夜は十分だった。

 ソファに深く腰掛け、麻衣は窓の外の夜景を眺めた。遠くのビルの灯りの一つひとつに、誰かの生活が息づいている。その中の一つの光の下で、今、高瀬もまた同じ夜を過ごしているのだろうか。そう考えるだけで、遠く離れているはずの距離が、少しだけ縮まったような気がした。

 テレビをつける気にもなれず、麻衣はしばらくの間、ただひっそりと座っていた。かつては耐えがたく感じていた一人の時間が、今夜は不思議と穏やかだった。誰かを想いながら過ごす孤独は、以前のそれとはまったく違う質感を持っていることに、麻衣は気づき始めていた。

 麻衣は夜のキッチンに戻り、また無心に包丁を握った。

 いつか、この料理を彼に食べてもらう日のために。

 そしていつか、この硬い殻を彼に脱がせてもらう日のために。

 麻衣はもう少しだけ、自分という輪郭を丁寧に整えていこうと思った。

 まな板の上で野菜を刻む音が、静かなキッチンに規則正しく響く。この繰り返しの作業が、麻衣の心をいつも穏やかに整えてくれる。焦らなくていい。少しずつでいい。そんな当たり前のことを、麻衣は包丁の音に教えられているような気がした。

 水を張った鍋を火にかけ、出汁の香りが立ち上るのを待つ間、麻衣は自分の心の中を静かに整理していった。まだ言葉にならない身体への不安、そして高瀬への想い。それらすべてが、今の自分を形作る、かけがえのない感情なのだと、麻衣は少しずつ受け入れられるようになっていた。

 四十三歳の夜は長い。

 それでも、かつてのような冷たい静寂ではない。

 そこには、週末の風を待つ、微かな熱が確かに宿っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。