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ルーナ

 夜、部屋に一人。

 部屋の中は何も変わっていない。前の私は綺麗に使っていたようだった。自分ではない痕跡は見当たらなかった。

 手元には孤児院からの手紙。中身は子供たちからの見舞いの言葉と院長からの労いの言葉だった。子供たち曰く、私は追いかけっこがすごく強いらしい。たしかに自信はあるし、負けないと思うけれど、この手紙に書かれている私は、まるで野生の狼のような速さだった。

 院長からは、記憶が戻ったことへの喜びに加えて、記憶のない私が、私のことをすごく心配してくれていたと記されていた。

 ふと、日記帳を手に取る。特殊な施錠がされている日記帳だ。私が記憶を失う前の出来事が記されている。

「あっ」

 私は思わず声を出す。私が最後に書いた次の頁に、私ではない字で文章が書かれていた。


『ルーナへ。

 水の中に沈むあなたを見つけた私は、手を伸ばした。

 そしたら、奇跡が起きて手を握れたの。

 ルーナが深い悲しみから立ち上がるまでの間、体を借りた。きっとあなたはすぐに立ち上がれる。

 私はルーナのために何もできない。

 私は私のできることをした。もしかしたら、それがあなたを悲しませるかもしれない。そのときはごめんなさい。

 でも、あなたが死を選ぶような原因は壊してやりたかった。

 私は勝手に手を伸ばしただけ。

 今まで通り、あなたは強く生きて。

 氷の天使』


 読み終えた瞬間、ルーナの頭の中にこの文章を書いたときの光景が映し出される。

 しかし、文章を書いているのはルーナではなかった。表情のない女性。姿勢良く椅子に座り、優しく日記帳を開き、文字を書いている。

 ルーナはその女性に見覚えがあった。


 数年前、ルーナが旅先の城下町を一人で歩いていた時のことだった。

 人気のない区画を通っていると、黒いローブを纏った人物とすれ違った。

「あなた、大丈夫ですか?」

 ルーナは咄嗟にすれ違った人物の腕を掴んだ。歩き方から、怪我をしていると思ったからだ。

「・・・・・・なに?」

「どこか怪我してませんか? 手当をしましょう」

「は?」

 ルーナに腕を掴まれた人物は、ルーナを睨み付ける。

「迷惑」

 ルーナの手を振り払おうとしたが、ルーナが手を離さなかった。

「離しません。左の脇腹を怪我していますね。手当をするのでこちらへ」

「・・・・・・意味わからない」

 顔を隠したローブから困惑した女性の声が聞こえる。

「顔は隠したままで構いません。あの辺り、人もいないので行きましょう」

 ルーナはそう言って手を引いて裏路地へ入った。

 女性は諦めたのか、黙ってルーナの手当を受けた。ルーナの読み通り、左の腹部に刺し傷があったので、ルーナは持ち歩いていた応急処置の道具で手当をする。

「これで良し」

「なんでこんなこと」

「あなたが辛そうだったから、勝手に手を伸ばしました」

「変なやつ」

「そうですね。変なやつ、です」

「あなた、割と良い身分でしょ。そんな子がこんな人気のないところで誰かもわからないやつの手当てして、危ないよ」

「でも、あなたは私に敵意を向けていませんでした」

「・・・・・・はあ、私もまだまだだな」

 ローブの女性は大きく息を吐くと、左腹部を軽く押さえる。

「ありがとう。変な人」

「どういたしまして」

「・・・・・・いつか、あなたが困ってたら助けてあげる。殺したいやつとか、そういうのいたら」

「い、いえ、そういうのは・・・・・・」

 困惑するルーナを見たローブの女性はふっと微笑む。

「じゃあ、勝手に手を伸ばして助けてあげる」

「ルーナ様!」

 ルーナは背後から名前を呼ばれ、振り返る。そこには息を切らした使用人のシサヤが立っていた。

「もう、目を離すとすぐにどこかへ行ってしまうんですから!」

「ごめんなさい」

「一人で何してたんですか?」

「え?」

 ルーナが視線を戻すと、そこにローブの女性はもういなかった。



「あの時の人だわ」

 私は日記帳を抱きかかえる。

 あの時の人が、身を投げた私をすくい上げてくれた。

 湖に落ちたあの日、ロクデム様に離れるように言われた私は、この世のすべてを失ったと思った。この世界から消えてしまいたい。もう何もかも放り投げてしまいたい。そう思って身を投げた。

 でも、今、ロクデム様がいなくなった世界で目を覚ました私はちゃんと地に足をつけて生きている。シサヤやメウ、施設の人たち、たくさんの人が私を支えてくれている。

 あなたが引き上げてくれなければ、私はそのすべてから目を逸らしたまま消えてしまった。

 ロクデム様から私を守って、あなたは消えてしまった。

 もしかしたら、まだ私の中で、つい先日までの私のように、眠っているのかもしれない。

 けれども、それを確かめることはできない。


 私は姿見に目を向ける。そこには日記帳を抱えた私がいた。少し涙目の、困ったような顔をした私がいた。

 私は鏡に向かって声を掛ける。


「手を伸ばしてくれて、ありがとう。氷の天使様」


 鏡の中のルーナは、優しく微笑んだ。

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