遺言には書いていない
二人でひっくり返したお好み焼きは、半分だけ成功した。
父の担当した側は裏返り、叔父の担当した側は元の位置へ戻った。
結果、中央に立派な山脈ができた。
発端は、父の「二人なら、大きくても返せるだろ」だった。
叔父の「そりゃそうだ」が続いた。
そこから検証を経ずに実行したため、こうなった。
「そっち、早い」
「兄貴が遅いんだろ」
「せーの、の『の』で上げた」
「俺は『せーの』が終わってから上げた」
十三年の隔たりには、それなりの単位があった。
「一枚ずつ焼けばいいのに」
祖母が言う。
「僕、スーパーで似たようなこと言った」
父と叔父は、へらを持ったまま、同時にこちらを見た。
それから、山脈を見た。
父が先に笑った。
「親父と同じことしてるな」
「いや、二人がかりだから、悪化してる」
叔父が、盛り上がった中央を押さえた。
じゅっと音がして、豚肉の匂いが広がった。
二種類の肉は、半分ずつ載せていた。
祖母は薄い肉のほうを、叔父は厚い肉のほうを取った。
父はソースを多めにかけた。
僕はマヨネーズを探した。
祖父なら、ソースだけで食えと言った。
だから、少しだけたくさんかけた。
食べると、ちゃんとおいしかった。
ただ、僕の知っているとおり、四角かった。
*
最後の封筒を開けたのは、食器を片付けたあとだった。
『四、わしを真ん中にして、家族写真を撮ること。
全員、満面の笑顔で。
パネルは、このために用意した。』
「謝罪会見のためじゃなかったんだ」
僕が言う。
父は、祖父の顔の大きさを改めて確かめた。
「真ん中に置いたら、人間が入らんだろ」
「顔の面積で相続分を決めるつもりだったのかな」
「財産の話とは別だと言ってた」
叔父はもう、電気スタンドの角度を変え始めていた。
僕はスマートフォンを棚に置き、四人とパネルが入る場所を探した。
祖母だけが、座ったままだった。
「ばあちゃん、そこだと写らないよ」
祖母は返事をしなかった。
その手には、最後の指示書があった。
全員、満面の笑顔で。
祖母の親指が、その一行を押さえていた。
「……今日はね」
祖母が言った。
「笑いなさいって言われるのは、少し嫌だわ」
叔父が手を止めた。
父も、パネルを持ち上げた姿勢のまま動かなくなった。
祖母は紙を見たまま続けた。
「面白かったら、笑うわよ。さっきだって笑ったでしょう」
「うん」
僕は答えた。
「でも、寂しいものは寂しいの。明日の朝もいないんだなって、急に思うの」
祖母は、それ以上言わなかった。
膝の上で指示書を平らにのばした。
少ししわになった紙を、何度ものばした。
祖父のパネルには、まだ、いい光が当たっていた。
それが急に、ずいぶん勝手なものに見えた。
自分だけ、一番機嫌のいい瞬間を残している。
こちらは、その隣へ行くために、今日の顔を持っていくしかないのに。
父がパネルを床に下ろした。
「じゃあ、笑わなくていいよ」
祖母は、鼻をすすった。
「笑いたくなったら、笑うけど」
「うん」
「怒ってる顔でもいい?」
「いいだろ」
「あの人に?」
「そのへんにいるから、どうぞ」
父が祖父を指した。
祖母の口元が、ほんの少し動いた。
僕は祖父の作業机から赤いペンを持ってきた。
『全員、満面の笑顔で』
その一行に、線を引いた。
下に書き足す。
『全員、好きな顔で』
父がそれを見て言った。
「字が下手だな」
「遺伝の選別で落ちた」
「貸せ」
父はそう言いかけて、やめた。
僕の手にある紙を、もう一度見た。
「……読めるから、いいか」
叔父が小さく笑った。
祖母は立ち上がると、パネルの前へ行った。
「重蔵さん、少し端へ寄って」
父が移動させた。
「もう少し」
「ここ?」
「近すぎるわ」
「母さんが寄せろって」
「私との距離じゃなくて、画面の端との距離」
死後もなお、祖父は家族の間取りに干渉していた。
ようやく位置が決まったころには、叔父が汗を拭いていた。
父が白い板を持ち、叔父が光の当たり方を確かめる。
「兄貴、そこ、少し起こして」
「これぐらいか」
「そう。ありがとう」
今度は、どちらも遠慮しなかった。
父が頼まれ、叔父が礼を言った。
数秒のやり取りだった。
僕はスマートフォンの画面を見ているふりをして、それを聞いた。
白い板は画面の外に置いた椅子に立てかけ、父がテープで留めた。
その横へスタンドを寄せる。
祖母と父と叔父が並び、僕のために、父と叔父の間を少し空けてもらった。
「じゃあ、撮るよ。十秒」
タイマーを押して、僕は二人の間へ駆け込んだ。
九、八、七。
父が、少し離れたパネルを見た。
「待て」
「もう押した」
「親父だけ、まだ顔がでかすぎる」
「距離で解決できる範囲を超えてるんだよ」
六、五。
祖母がパネルを少し奥へ押す。
叔父が横から手を伸ばして支える。
四。
「傾いてる」
「笑顔なのに、逃げ腰だな」
「謝罪会見だからね」
三。
祖母が、パネルの祖父に向かって言った。
「次から気をつけて」
父が吹き出した。
二。
叔父が目をつぶって笑った。
つられてうつむいた僕は、父の肩に額をぶつけた。
一。
シャッターが切れた。
*
出来上がった写真では、父が口を開け、叔父が目をつぶり、僕は額を押さえていた。
祖母は、笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
たぶん、両方だった。
祖父だけが、腹の立つほど立派な笑顔だった。
「撮り直す?」
僕が聞くと、祖母は画面をのぞき込んだ。
「これ、ちょうだい」
「でも、僕の顔」
「そういう顔だったんだから、いいじゃない」
父が笑い、叔父がうなずいた。
祖母は、スマートフォンの中の祖父を指で軽くたたいた。
「写真は撮りました。笑うかどうかは、こちらで決めました」
僕は最後の指示書の余白に、そう書き足した。
祖父の遺言を、初めてこちらから書き換えた。
*
叔父は、その晩は予約していたホテルへ戻った。
祖母が泊まっていけばと言うと、「もう部屋を取っちゃったから」と答えた。
父は引き止めなかった。
代わりに玄関で、
「明日、帰る前に寄れよ」
と言った。
叔父が振り返る。
「千円?」
「千円」
叔父はうなずいた。
翌朝、叔父は約束どおりに来た。
父は玄関で千円札を渡した。
叔父は財布から借用書を出し、父へ返した。
「直人、解放だって」
「短い拘束期間でよかった」
父は借用書を見ていた。
祖父の字と、自分の署名。
それを一度だけ折り直して、財布にしまった。
叔父が言った。
「これで、用は済んだな」
いつもの、少し軽い言い方だった。
けれど靴を履く手は、ゆっくりだった。
父が口を開いた。
「飯ぐらい、食いに来ればいいだろ」
叔父の手が止まった。
「……用がなくても?」
「飯を食う用だ」
叔父が下を向いた。
靴のかかとを、指で直した。
「そうだな」
父はうなずいた。
それから、少し迷って、言い足した。
「あと、仕事の写真、送ってくれよ」
叔父が顔を上げた。
「俺の?」
「ほかに誰の仕事があるんだ」
「看板みたいに、ぱっと見て分かるとは限らないぞ」
「聞くよ」
「暗い場面もあるし」
「それも聞く」
叔父は、しばらく父を見ていた。
やがて、
「じゃ、今度」
と言った。
父も、
「ああ、今度」
と答えた。
その約束は、どの封筒にも書いていなかった。
*
一か月後、また四人で夕飯を食べることになった。
父が叔父に連絡を入れ、日取りを決めた。
お好み焼きがいい、と言ったのは叔父だった。
僕が居間で箸を並べていると、玄関が開いた。
「ただいま」
叔父の声だった。
祖母が、台所から顔を出した。
「おかえり。いいところに来た。ソース買ってきて」
「ひどいな。十三年ぶりの『ただいま』なんだけど」
「先月も来ただろ」
父が言った。
叔父は靴を半分脱いだ姿勢で、父を見た。
「先月は、お邪魔します、だったんだよ」
父は黙った。
ほんの少しだけ、黙った。
それから、座卓の上に置いていた財布を取った。
「じゃあ、俺も行く」
「遺言?」
「買い物だよ」
祖母は、二人へ買い物袋を渡した。
「いってらっしゃい」
僕は立ち上がらなかった。
父も叔父も、僕を呼ばなかった。
今度は、二人で行った。
お読みいただき、ありがとうございました。
ものすごく大切なことを伝えるために、ものすごく大がかりな仕掛けを用意してしまう人がいます。
そこまで準備できるなら、普通に一言伝えればいいのに。
たぶん、その一言がいちばん難しいのでしょう。
けれど、難しかったからといって、言われなかった人の寂しさがなくなるわけでもありません。
この物語では、祖父の遺言だけで家族が元どおりになる、という結末にはしませんでした。祖父には言えなかった言葉があり、残された人たちには、自分の口で言わなければならない言葉があるからです。
ただ、話し始めるきっかけが、立派である必要はないと思います。
謝罪会見でも。
千円の借金でも。
ひっくり返し損ねたお好み焼きでも。
最初は笑うためだったものが、いつか、ちゃんと話すための場所になったなら。
その悪ふざけには、少しだけ意味があったのかもしれません。
なお、直人は一度も担保になることに同意していません。
無事に解放されて、本当によかったと思います。




