第5話 スウィートルーム
重厚な鉄の扉が重々しい音を立てて開き、警戒心を剥き出しにした琉生が美月を庇うようにして次の部屋へと足を踏み入れた。しかし、二人の前に広がっていたのは、予想を裏切る拍子抜けするほど『ごく普通の部屋』だった。
柔らかな間接照明に照らされた室内には、ふかふかの大きなソファーと、清潔で真新しいシーツが掛けられたキングサイズのベッド。奥には最新の設備が整ったアイランドキッチンと大型の冷蔵庫まで完備されている。デスゲームの会場とは到底思えない、高級ホテルのスイートルームのような空間だ。
極めつけに、部屋の中央に置かれたガラステーブルには、有名ブランドの高級そうな焼き菓子や色鮮やかなチョコレートが山のように積まれた籠が鎮座していた。甘く芳醇なカカオとバターの香りが、微かに鼻腔をくすぐる。
「なんだここは……休憩室か?」
罠があるかもしれない。琉生は油断なく部屋の隅々まで鋭い視線を巡らせながら、慎重な足取りでテーブルへと近づく。すると、お菓子の籠に立てかけられるようにして、一枚の可愛らしいメッセージカードが置かれているのに気がついた。
『ごゆっくり♡』
そこには、少し丸みを帯びた、独特の癖がある手書きの文字が記されていた。決して達筆とは言えないが、どこか愛嬌のある特徴的な筆致。そのインクの跡を見た瞬間、琉生の動きが彫像のようにピタリと止まった。メッセージカードを手に取ったまま、息をすることすら忘れたように微動だにしない。琉生の異変を不思議に思い、美月が横からひょっこりと顔を出してそのカードを覗き込んだ。
「あれ……?これって、つむちゃんの文字に似てるね」
美月が無邪気な声を上げる。
『つむちゃん』――それは、他でもないこのふざけたデスゲームの主催者であり、別室でモニターを眺めながら興奮している久遠紬希のことである。琉生、美月、そして紬希の三人は、小学生の頃からいつも一緒に遊んでいた幼馴染だった。圧倒的な家柄の違いはあれど、共に多くの時間を過ごし、数え切れないほどの手紙やメモを交わしてきた仲だ。記憶の底にまで染み付いている彼女の独特な文字の癖を、二人が見間違えるはずもない。
まさか。そんなはずはない。でも、この汚くも愛らしい文字を書く人間を、俺は世界に一人しか知らない。
美月の何気ない指摘に、琉生の端正な顔からスッと血の気が引いていく。冷え切っていた前の部屋よりも、さらに冷たい氷が胃袋に落ちたような感覚だった。
「……紬希が、このデスゲームに巻き込まれているのかもしれない」
琉生の脳裏を、最悪の想像が駆け巡る。強く握りしめられたメッセージカードが、彼の震える手の中でクシャリと悲鳴を上げた。
「えっ!?つむちゃんが!?」
事態を正確に飲み込めていない美月が驚きの声を上げるが、琉生の耳にはもう届いていなかった。
愛する人が、自分たちと同じようにどこかへ拉致されている。もしかしたら、先ほどの極寒の密室のような過酷な環境に放り込まれ、一人きりで恐怖に震えて泣き叫んでいるかもしれない。あるいは、すでにこの悪趣味なゲームの主催者の手によって、何か酷い目に遭わされているのでは。
そう考えた瞬間、若手社長としての冷静沈着な仮面は砕け散り、琉生の中で辛うじて保たれていた理性が完全に吹き飛んだ。頭の中が、最悪の想像という名の真っ黒な染みで塗り潰されていく。
そう。彼の愛する人は美月ではなく、紬希だったのだ。
「主催の野郎ッ!紬希に何かしてみろ、絶対に殺してやる!!」
普段の温厚な彼からは到底想像もつかない、殺意に満ちた獣のような咆哮だった。琉生は血走った瞳で部屋の壁掛けモニターを睨みつけると、怒りの衝動に任せて拳を振り上げた。ガンッ! ガンッ! と、高級ホテルのような静かで優雅な一室に、硬い画面を力任せに殴りつける鈍い音が何度も響き渡る。自分の手の甲の皮が破れ、微かに血が滲んでもお構いなしだ。痛覚すらも麻痺したかのように、琉生は狂ったようにモニターを叩き続けるのだった。
一方、別の扉から進んだ伊織と芽依のペアも、同様の部屋へと足を踏み入れていた。
警戒しながら中を窺う芽依の目に飛び込んできたのは、先ほどの極寒の密室とは打って変わった、暖かく快適な空間だった。ふかふかのソファーに、清潔な真新しいシーツが掛けられたキングサイズのベッド。奥には設備の整ったアイランドキッチンと大型の冷蔵庫まで完備されている。
琉生と美月が入った部屋と、全く同じ間取りの部屋だった。部屋の中央に置かれたガラステーブルには、有名ブランドの焼き菓子や色鮮やかなチョコレートが山のように積まれた籠が鎮座しており、甘く芳醇な香りが微かに鼻腔をくすぐる。
なにここ。休憩室、なのかな。
極寒の恐怖から解放され、芽依が戸惑いながらもホッと息をつきかけたその時。先を歩いていた伊織が、籠の横に立てかけるようにして置かれた一枚のメッセージカードを手に取った。そこには、丸みを帯びた独特の筆跡で、こう書かれていた。
『ごゆっくり♡』
ご・ゆ・っ・く・り!?!?ありがとうございます主催者様!!つまりこれは、めいちゃんとこの密室で同棲生活を満喫しろという神からの啓示……っ!!しかもベッドがある!キングサイズのベッドが!!
メッセージカードの文字を読み取った瞬間、伊織の脳内で盛大な祝砲が打ち上がった。極寒の毛布密着イベントに続き、今度は高級ホテルのようなスイートルームでの同棲生活。もはやこれはデスゲームなどではない。愛する人との絆を深めるための、至れり尽くせりの新婚旅行だ。
伊織は歓喜のあまり天を仰ぎ、両手で顔を覆ってむせび泣きそうになるのを必死の形相で堪えた。肩が小刻みに震え、口角が限界までだらしなく上がりそうになる。それを、長年培ってきたトップアイドルとしての強靭な精神力と演技力でなんとか押さえ込み、微細な筋肉の痙攣へと変換する。
一方の芽依は、顔を覆ってワナワナと震え出した伊織の異常な様子と、置かれたカードの内容を交互に見て、サァッと血の気を引かせていた。
ごゆっくりって何!?嘘でしょ、ここで休めってこと?この人と一緒に……!?
芽依は、部屋の奥に鎮座する真新しいシーツが掛けられたキングサイズの『ベッド』の存在に気付き、服の下でゾワリと粟立つような鳥肌を立てていた。
芽依の心臓が、かつてないほどのけたたましい警鐘を鳴り響かせる。極寒の毛布密着イベントをどうにか生き延びたと思ったら、今度は甘い香りが漂う密室でベッド付きの同棲生活。悪夢以外の何物でもない。しかし、ここで取り乱して相手を刺激してはいけない。先ほどの毛布の一件で、彼には絶対に力でも立場でも逆らえないと骨の髄まで思い知らされたばかりだ。あからさまに拒絶すれば、この不気味なほど甘く優しい先輩がどう豹変するかわからない。彼女は浅くなる呼吸を必死に整え、引きつりそうになる頬の筋肉に無理やり力を込める。そして、長年アイドルとして培ってきた『素直で純粋な後輩』の完璧な仮面を顔面に貼り付けた。
歓喜に打ち震え限界を迎えている伊織と、最悪の事態を想像して恐怖に震える芽依。甘い焼き菓子とカカオの香りが漂う快適な密室で、二人の盛大なすれ違いはさらに加速していく。
これ以上めいちゃんの愛らしい姿を見ていたら、僕の理性が消し飛んでしまう……!
伊織は一つ大きく深呼吸をして、脳内で荒れ狂う煩悩を無理やり一時停止させた。そして、指先まで洗練された『完璧なトップアイドル』のオーラを纏い直すと、スマートな足取りで部屋の奥にある大型の冷蔵庫へと向かい、静かに扉を開けた。中にはお茶やジュースなどのソフトドリンクから、ビール、高級ワインといったアルコール類がずらりと並んでいる。さらに、卵や鶏肉といった簡単な料理ならすぐに作れそうな新鮮な食材、色とりどりのフルーツやチーズなどのつまみまでたっぷりと用意されていた。
本当に至れり尽くせりのハネムーン仕様じゃないか。主催者には後で金一封を贈らなければ。
伊織は内心でそんなことを真剣に考えながら、冷えたお茶のペットボトルを二本取り出した。そして、ふかふかの高級ソファーへと歩み寄り、ゆったりとした優雅な動作で腰を沈める。そして、未だに部屋の入り口付近で小動物のように硬直している芽依へと視線を移し、甘く優しい、ファンが見れば悲鳴を上げて卒倒するレベルの極上の笑みを向けた。
「花村さん。次のゲームに備えて、少し休もうか」
そう言って、伊織はポンポン、と自分のすぐ隣の空いたスペースを軽く叩いた。そこは、彼自身の太ももからわずか数センチしか離れていない、まさにパーソナルスペースのど真ん中であった。
つづく




