Story-5 『翼』
僕の名前は翼。自由に空を舞う鳥のように、雄大でのびのびとした子に育ってほしいという願いをこめて、両親がつけた。
しかし、そんな両親の思惑とは別に、翼こと僕は、いたって平凡な中学生へと成長した。むしろ、勉強もスポーツも苦手で、根暗で友達も少ない僕は、両親の理想からかけ離れているのではないだろうか。
僕は、僕の名前が嫌いだ。気取っていて、名前負けしている。どうしてもっと普通で、ありがちな名前をつけてくれなかったのだろう。テスト用紙に名前を書くたび、そう思わずにはいられなかった。
*
ある日の夜、僕は自室で机に突っ伏していた。
(今日も、嫌なことだらけだった)
一日を振り返る。体育の授業でやった野球の試合で、チームの足を引っ張った。クラスの不良に小突かれて、お金をとられた。先に帰宅していた生意気な妹に、散々馬鹿にされた。
(僕が、全部僕がいけないのか)
情けない気持ちになる。頭が悪いのも、トロいのも、冴えないのも、全て僕のせいなのか。
(嫌いだ。名前も、体育も、不良も、妹も、全部、全部)
手元にあったノートに、パッと思い浮かんだ嫌いなものを、乱暴に書きなぐる。叩きつけるように書き終えると、少しだけスッキリして、再びやるせない気持ちが競りあがる。
(何やってんだろ、僕)
ノートを見れば、書いた張本人すら解読不能な、グチャグチャな文字が連なっていた。
(馬鹿らしい、寝よう)
僕は、ベッドに横になり、電気を消す。暗い部屋の中で、なんとはなしに、思考する。
少し前、ある漫画を原作とした映画が流行した。その物語の主人公は、死神から魔法のノートをもらう。そのノートに名前を書くと、名前を書かれた人間は死んでしまうのだ。
(名前を書くだけで人を殺せるなら、僕だって欲しいよ)
だが、そんなものは漫画の世界の話だ。僕のノートはそこらの文房具店で買った安物のノートだし、死神にも会っていない。
(うらやましいなあ)
僕は、次第にうとうとし始める。いつのまにか、眠っていた。
*
けたたましい目覚まし時計の音で、僕は目を覚ました。また、辛い一日が始まる。
目を擦りながら、時間割を確認する。三時間目に、体育。きっと、今日も、僕は冷たい目でチームに迎え入れられるのだろう。
げんなりしながら着替えをし、洗面台で顔を洗う。もう妹も起きている頃だろう。妹は、朝っぱらあれがないこれがない、ぼさっとしてないでおにいちゃんも探すの手伝ってよ、じゃないとぶつよ、と騒ぎ立てるのだ。
ため息をつきながらリビングに入り、席についている人物を見て、僕は思わず目を丸くした。
「え」
「あら、おはよう。どうしたの、固まっちゃって」
誰? という言葉は出てこなかった。それほどまでに、僕は驚愕していた。
いつも妹が座っている席には、見知らぬ女性が座っていた。二十歳くらいだろうか。コーヒーの入ったカップ片手に、優雅に微笑み、こちらを見つめている。
「ほら、翼、あんた何ボーっとしてんの。早く朝ごはん食べて頂戴」
「か、母さん」
「ほら、早く食べないと遅刻するわよ」
母さんは、この状況を、少しも不思議に思ってないらしい。僕はほとんど縋るように、母さんに問い詰める。
「母さんってば」
「なに、お母さん忙しいの。アンタもつばきみたいに、いいかげん早起きしてくれないと」
「えっ」
今、なんて言った?
つばきは、僕の妹の名前だろう。
「まあまあ、お母さん。私も翼くらいの年のときは、一人で起きられなかったし。ああ、あの頃はつばきお姉ちゃん、ってよく呼んでくれたのに」
だから、つばきは僕の妹だって。
「あっ、私そろそろ大学行かないと。じゃあ、行ってきまーす」
つばきと呼ばれた女性は、はつらつとした笑顔を浮かべて、家を出て行った。僕には、なにがなんだかわからない。
*
僕は混乱の渦の中にいた。
体育は、授業が始まる直前になって、雨が降り出し、野球は中止になった。
クラスメイトを脅しては金をとっていたあの不良は、なぜか学年一の優等生になっていた。
(何が起きているんだ?)
嘘だろ、と思った。けれど、ならば妹のつばきはどこへ行ってしまったのだろう。今朝、つばきと名乗った女性は、まるで僕の姉のように振舞った。
(《反転》してる)
妹は姉に。体育はなしに。不良は優等生に。完全な反転とは呼べないけれど、本来あるべきはずの物事が、逆に進行している。
(昨日のノート)
昨夜、ノートに記したものだけが《反転》している。そして、そのことに対して、誰も疑問を抱いていない。
(なんだか)
生まれ変わったような気分だった。
(この能力は、僕にピッタリじゃないか)
あの死神のノートを手にした主人公の姿が蘇る。主人公は、他人を殺傷する能力を手に入れてしまったばかりに、自分を神だと勘違いし、結局死んでしまった。
けれど、僕の力は、この地球上にいる誰もが気づかぬうちに、事象を《反転》させるだけ。誰かが苦痛を味わうわけでも、死ぬわけでもない。ただ、逆になるだけなのだ。なんて平和で、誰も傷つけない、すばらしい能力だろう。
*
(姉は飽きたな)
あの劇的な変化が起きてから、一ヶ月が経った。
姉は、両親が休日出勤のときは、かわりにご飯を作ってくれたし、宿題でわからないところを、「アンタってだめね~」とか言いながらも教えてくれたりした。
でもいいことばかりというわけではなかった。
つばきは、やはりつばきだった。僕を見下す目線は一緒だったし、なにより酒癖が悪かった。酔っ払うと、僕にも強引に飲酒を勧め、拒否すると、容赦なく殴られた。「男のくせに」その言葉が、なにより僕の自尊心を傷つけた。
(今日にでも、消してやろう。次は弟がいいな)
そこまで考えて、はたとする。僕は、あのノートに『妹』と書き、次の日、『妹』は『姉』に《反転》した。
ということは、『姉』と書くと、再び『妹』が戻ってきてしまうということなのではないか。
(そんなのはダメだ。本末転倒だ)
あの憎たらしい妹が嫌で書いたのに、《反転》して戻ってきてしまったら意味がない。どうすればいいんだ?
僕は思考する。そして、すぐさま閃いた。
(なんだ、簡単じゃないか)
『つばき』と書くのだ。
今までに何度もやってきたことだ。
『ある』ことは、《反転》して『ない』になる。
姉とか妹とか、そういう話ではなくて、最初からこうすれば良かったのだ。僕は、運命を操る神になったような気分だった。
就寝する直前、自室でノートを開き、シャーペンを持つ。
(終わりだ、これで)
つ、ば。き、と書こうとした直前。
「ただいまあ~!」
姉だ。間延びした口調、異常なまでに高いテンション。泥酔している。ドタドタと二人分の足音。一人じゃない?
「いまぁ、おやいないのお、とまっていってよお」
「マジ? ちょうラッキーじゃん」
酔っ払った姉と、同じく酔っ払った風の男の声が聞こえる。口調から、あまり感じのいい男とは思えなかった。
「この部屋、寒くね? ヤバイんだけど」
「まってて~、今暖房つけるから~」
「バッカ、俺は今すぐあたたまりてえんだよ」
「ん~、じゃああれもこれもつけちゃえ! ホットカーペットとぉ、ストーブとぉ、コタツとぉ~、きゃあ、どこさわってるのよぉ」
「俺は今すぐあたたまりてぇ、って言ったろぉ」
「も~気が早いんだから」
あまりにも品がない会話に、僕は激しい嫌悪感を抱き、シャーペンを持ち直す。
(あとは、き、だけだ)
僕の、き、の書き方は、ちょっと変わっている。二本の横棒より先に、一番長い、あのにょろにょろした棒から書くのだ。
かみ締めるようにゆっくり。僕にとっての一画目を書く。にょろり。二画目。上のほうの横棒。すっ。
「バイバイ、つばき」
ブツン!
鋭く、短い破裂音。驚いて、思わずシャーペンを取り落とす。
次の瞬間、視界が暗く閉ざされた。階下から、二人の悲鳴が聞こえてくる。
僕は一瞬混乱したが、なんてことはない、ただの停電だ。恐らく、姉が許容範囲を超えた電力を使用したせいで、ブレーカーが落ちたのだろう。僕は席を立ち、暗闇のなか、ケータイを探した。明りがなければ、続きが書けない。数歩歩いたところで、ベッドの脚に、足の指を思いっきりぶつけた。痛みに、姿勢が崩れる。
「あっ」
何も見えなくても、自分が後ろ向きに倒れていくのは分かった。後ろには、机が。
そう思ったときには、机の角に頭をぶつけていた。
鈍い音。次いで、全身を激しく打ちつける痛みが走った。
(だ、だれか…)
口を動かしても、うめき声しかでてこなかった。言葉にならない。まるで返事をするかのように、パッと部屋が明るくなった。視界に、転がっているシャーペンが入る。
(あれ?)
僕は、ちゃんと『つばき』、と書いただろうか。つ。ば。
「!」
ドッと、冷や汗が背を伝った。まずい!
僕は、もがくように、手足を動かそうとする。しかし、僕の意思とは逆に、四肢はピクリとも動いてはくれなかった。
(イヤだ、イヤだ!)
叫んだつもりでも、唇から漏れるのは地の底から這い出るようなうめき声だけ。
ぶつけた箇所が、ズガン、ズガン、と視界を揺さぶる。耐え難い痛み。少しずつ閉ざされていく視界。
(待って、待って!)
僕の抵抗をあざ笑うように、全ては闇に包まれた。
*
僕は夢を見ていた。
夢の中で、僕は鳥になっていて、どこまでも広がる青い空を、力強く羽ばたいている。
少しだけそのとき、『つばさ』という名前も、悪くないなと思った。
END
こんなノートあればな(笑)
使いかた次第では、かなり――(*^。^*)