わいらの故郷
桜は散り、梅はこぼれ、牡丹はくずれる。そして椿はそのままボトッと落ちる。汀がぽつぽつと苦しそうに語ったところによると、汀の椿はまだ落ちてはいないが、もげ落ちる寸前だった。
「ってことはなにか、君の父親はあんなことやこんなことを汀にしたというのか」
『あんなことやそんなこと』の詳細はとりあえず自主規制しておこう。おおまかにいうと、体内でドバドバ分泌される性ホルモンのせいで猛り狂った若い男女が、最後の一線を越える前にヤルようなこと全てだ。アルファ、ベーター、ノット ガンマ。
神愛やアグネスが、一言も漏らすまいと真剣な面持ちで耳を澄ませているのとは対照的に、僕は耳をふさぎたい衝動と戦っていた。
この汀が、清純な汀が……うあああ! 嘘だ!!
僕がガタガタ震えているというのに、女って、いざとなると本当に肝が据わってるよなあ。
「どうしてそんなことされるがままになっているんだ。暴力で脅されているのか?」
「違う……」
「じゃあ、どうして?」
「……わたしが、誘惑したからよ」
「嘘をつけ」「嫌あぁぁっ」「んあわけあるか!」
SF研部員は全員が信じなかった。だって、汀だぜ?
神愛は立ちあがり、汀に詰め寄る。
「『勝りたるもの』なんかを信じている奴が、そんな真似するものか。嘘だと言え、さあ!」
汀がキッと神愛を見上げる。
「嘘じゃないわ。わたしが自分の意思で決めたことよ。父を愛人さんから引き離すために。先週の週末は、あの女の人――ええ、希介君のお母様はわたしの家に来なかった。父が呼ばなかった。呼ばせなかった。わたしが搾り取ってあげたから」
汀はぎこちなく偽悪的な笑いを口元に浮かべた。
この瞬間、僕の顔はたぶんムンク化してたと思う。
僕はざわつく心から、敢えて距離を取って考えた。僕お得意の心の負圧チャンバー始動だ。このことを思い悩み、何度も思い返すのはあとでいい。きっと、眠れぬ夜には思い出して、枕を抱えて悶えることになるに違いないけど。
僕はからからに乾いた喉から声を絞り出す。
「そ、そんな変態いるわけないじゃないか。実の父親だろ……」
でも、汀の告白で思い当たる節がバッチリある。この土日に限って、あいつなぜか携帯片手にカリカリしていた。
汀はぎゅっと目をつぶり、激痛に耐えているかのように、歯を食いしばっている。
「そんなことをして……僕のためなのか? なんてことだよ汀、ああ、ちくしょう」
「父は物事を善悪の彼岸から眺めている人なの。非道を成して、あとで良心の呵責に悩むような人ではないわ。このままでは、希介君、あなたのお母さんはきっと殺されるわ」
「なんでそんなことがわかるんだ?」
「わかるのよ。希介君、あなたのお母様が数年前から生命保険に入っているのを知っている?」
生命保険? そんなものに使う金なんてウチにないよ。
「わたしの父が現金を手渡して、希介君のお母様が支払っているはずよ。何があっても子供たち――つまり希介君たち兄妹の安全を担保できるようにって、お母様に嘘をついて」
「聞いてないよ、そんなこと」
僕は不安が心に忍び寄るのを感じた。生命保険という単語には、重々しい大人の世界のイメージが付きまとう。
「父は結婚する気なんだと思う。希介のお母さんと」
「まさか。じゃあ、じゃあ、僕と汀が兄妹になるってこと?」
『血の繋がっている兄妹なんて兄妹じゃない』、とは一部の特殊性癖の人がのたまう妄言だ。そいつらが夢にまで見る状況じゃんか、これ。
現に妹と暮らしているせいで妹なるものに幻滅しか抱いていない僕に、リアル義妹ができるなんて、なんたる奇跡。チャンスタイム到来か!?。いやいや、落ち着け僕。
「殺る気だな」
「ああ、殺る気満々だよそれ」
神愛とアグネスがうなづき合う。
そうだった。全然チャンスタイムなんかじゃなかったよ。僕はがっかりして肩を落とした。
汀は虚ろな視線を僕に注ぐ。口の端に微笑みっぽいものが浮かびかけて、すうっと消滅した。神愛が次のように過去を明確にしたからだ。
「汀、だからあのとき、あんなに強引にSF研の創設を私に勧めたのか? 希介の母親のことを知ったから。そのとき、希介が母親とぎくしゃくしていることも知ったんだろう?」
「……その通りよ」と汀。
神愛は目を覆ってうめいた。
「やられたな。完全に君の内的救済能力を見誤っていた」
「希介君のお母さんのことは偶然知ったの。それで神愛ちゃんや珊瑚ちゃんを利用したのよ。希介をお母さん離れさせるために。恨んでくれても、軽蔑してくれてもいいです。自業自得ですから」
「ふん、汀の進言に従うことに決めたのは私の意思だ。利用されていたからといって、君を恨む理由にはならない」と神愛。
そしてもちろん、アグネスも汀を許す。
「ナギサちゃんも全ては許されているので、ありをりはべりいまそかり! わいが何を恨むことがある? 騙されるわい方が悪い」
「そうだったわね。それにわたし、みんなの協力がなくても、わたしはわたしの自由意志で希介のためにやったでしょうね」
哲学は人生を自らに由るものに変えてくれる、形のない魔法の杖だ。それでも、哲学の茨道に深く分け入る魔法使いだとしても――やはり傷つきたくはないに違いない。汀だって本当は傷つきたくないのに、実の父と……。
僕は汀に恐怖していた。
「お前がこわいよ。そこまでしないよ、普通」
打ちひしがれた汀は唇を震わせている。なんだか小動物を虐待しているようで、いたたまれなさが募るばかりだ。
「他に引き離す方法を思いつかなかったもの。男の人って、あの、あれを出してしまえばすっきりするのだと思って……希介君が見せてくれた同人誌を熟読して、充分イメトレして挑んだの。もう希介のお母さんのことは忘れてって、お願いしたわ。その代わり、わたしが処理してあげるって」
だからあんなに真剣な顔をして読んでたのか。まったく、途方もない理由だった。同人誌の性描写は全然一般的じゃないよ。ああ、あんなハードな内容の薄い本ばかり熟読させるんじゃなかった。汀の中で間違った性知識同士が融合して、とんでもないことになってないだろうな!?
「逃げたくなかった。一度決めたことだもの。わたしは自分で決めた自己犠牲を全うして、善を成すつもりだったの。立派な兵士がそうであるように、自ら課した任務を放り出して、この現実という名の戦場から逃げたりしない。逃亡兵には絶対にならない。そう決めていた」
汀はこたつに突っ伏した。
「でも、もう無理。無理なのよ。ぐちゃぐちゃのドロドロになっちゃって。もう昔の、お母さんとお父さんが一緒に暮らしていた頃のようにはなりようがないのよ。最後はわたしが壊してしまったの、決定的に、跡形もなく」
汀は片手で前髪をくしゃりと握り締めた。
「してあげたのに、お父さんは『お前が誘惑するから、お父さんはこんなになってしまった』とか、『男は定期的にこれをしないと、気が狂って死んでしまうんだ、お前はお父さんを殺す気なのか』って、わたしにせがんできたわ。あれをしてくれって。それでわたし、希介のお母様のことを忘れてくれるならと……」
聞ぎだぐないーー! 僕は顔を覆って身もだえした。父親にそんなことされるなんて、信じたくないよ。
「もうそんなこと止めろ!」
僕はたまらず叫んだ。
汀は、冷え切った虚ろな洞窟のように、生気のない瞳を自分の手に固定している。
「わたし、もう……」
蚊の羽ばたきに似たか細い声に聞き耳を立てた。
「なんだって?」
「……わたし、もう死にたい……」
汀は両手を差し伸べて、触れれば消えてしまう花を、そっと包み込むような仕草をみせる。
「自己犠牲に失敗しちゃったの。わたし」
皆が息を呑んだ。
でも、みんな心の底ではわかっていたとおもう。汀がそれを考えていたことを。
神愛は握り締めた拳をプルプル震わせて立ち上がった。
「自分の娘に死にたいと願わせるようなクソ親父は、未成年者に対する強制猥褻で訴えて、目にものせみてやるのが筋だな。地獄に叩き落としてやる」
「やめて、そんなこと。わたしが自分からはじめたことだもの、合意のもとなのよ」
若さほど一本気で、盲目的なものはない。今の汀のためにあるような言葉だ。
「どこが合意だ。合意のもとで抜いてやるような、奇怪な親娘の関係がこの世にあるものか」
激怒しているところ悪いけど神愛さん、たぶんそういう親娘は想像以上にいると思うよ。と僕は冷静に突っ込んだ。
じゃなかったら、やおいモノやBLモノと並んで、これほど近親相姦モノに需要があるわけないだろう。潜在的には、どんな立派な父親だって、娘に鬼畜なことをしたいという欲望を抱く瞬間があるんじゃないかな。そして、ごく稀にだけど、妄想を現実化する奴がいるものだ。そういえば、ギリシャ神話なんか、ほとんど近親相姦みたいなものじゃん。
「この変態エロ希介。私はパパのモノなんか見るのも嫌だし、風呂のお湯ですら共有したくないぞ!」と神愛がシャウトする。
風呂のくだりは僕も妹に言われたことある。アストラル・サイドのダメージでかいなあ。
「でもでも!」
アグネスが真剣な面持ちで僕の袖を引いた。
おお、そういえばこいつは外見はロリ中学生だけど、中身は天才だ。天才的な着想を披露してくれるかもしれないぞ。
「ある意味わいらの故郷だよ、タマタマって」などと、あっけらかんとのたまうアグネス。
貴様――さすがだな。発想が斜め上45度をイってるよ。
「あんな汚いところが故郷――」とつぶやいて、神愛は鉤爪のように曲げた自分の指先を眺める。
そして僕は、あの女の卵巣からポコンと飛び出した卵が故郷なわけだ…………いかん、考えないようにしよう。
それはそうと。
汀の悩みは、高校生には、もうどうしようもない領域なのではないか? 汀の父親が逮捕されたとして、汀の生活はどうなる? 香桜学園の学費は安くない。
汀よ、と神愛は重々しく切り出した。
「わざわざ死を考えるに及ばない。死の方で勝手に我々のことを考えてくれているんだから。時が来れば、税金と同じくらい確実に君の命は徴収されるだろうよ。生きることには本質的に価値がなくとも、死ぬことにも同様に価値はない。我々がやるべきことは、この無意味な世界でどうやって自己満足して死ぬか、という一点にある。哲学ってのは、結局どうやって死ぬかを学ぶ学問。そうだよな」
「そうね。いつも忘れてしまう。生きることは死ぬこと、だったわね」
「わいだって、死にたいやつを死なせるほどお人よしじゃない。なにしろ悪徳哲学を信奉しておるからして。徹底的に邪魔してやる!」と高言する。
汀は涙を拭って、むしろ快活に振舞う。
「ごめんね。死にたいっていうのは冗談。そうだ、希介君の家も、わたしのお父さんからお金が渡らなければ、もう学園には居られないよね。身勝手だけど、一緒に県立高校に転校できたら最高だね」
汀は笑顔をみせた。彼女自身も信じていない未来を語って。
――守りたい。
汀を守りたい。SF研をこのまま空中分解させたくない。やっと見つけた心地よい居場所を、失いたくない。
やってやる。身勝手だろうがなんだろうが、許されてる。完全に許されてるさ。僕の願いを僕が許している。
とはいえ、どうすればいい?
このまま汀を父親のなすがままにさせて、破滅するのをボンヤリ眺め、あとは天の裁きが下ってクソ親父が地獄に落ちるのを待つ? とんでもない。
地獄なんてものは、悪が悪のまま贖罪もせずにあの世に逃げ切って、ドヤ顔で逃げ得をキメられるのを認めたくない人々が、思い描いた妄想に過ぎない。地獄とは、善良な人々が望んだからできたのだ。
何か方法はないのか。汀を親父の魔の手から守りつつ、学園に通い続けることを可能にするような奇蹟の手が。
……ある。あるね。あるが……。
アグネスの顔をちらりと見やる。彼女は眉間に皺を寄せて腕を組んでいた。
こいつの神様――ええと、そう、アブラクサスなら、どのような有難い託宣をしてくれるだろうか。
アブラクサス様――善悪を併せ持つ一つの神性――王蟲とリングワールドに具象化せし、ねっとりした怪しさ満点の邪教の神様。ねえアブラクサス様、僕、許されてるよね。
よし、決めた。
ドドン。
とりあえず、自ら気迫満載のサウンドエフェクトをつけてみた。
「僕に、考えがある」
溜めに溜めた間の効果か、僕の言葉には、闇夜を切り裂く稲妻と同じ効果があった。
アグネスと神愛が息を呑む。
「なんかカッケーな、キスケ」「どうするんだ?」
神愛が身を乗り出すと、貧弱なこたつの足がミシリと悲鳴をあげた。
僕は簡潔に答えた。
「汀を殺すんだ」




