物極必反 2
磯崎邸は高台の斜面に沿って形成された瀟洒な住宅街の一角にあった。アグネスのアパートがある川べりの低地界隈と比べると、鼻を通る空気の味自体に格差がある。
塀の陰からうかがう磯崎邸に人の気配はない。が、揺れるカーテンは窓が開いていることを示しているし、駐車場の車もある。家人がいる可能性は高い。
ちょうど帰宅時間帯だから、高校生がうろついていても何の違和感もない。交差点のミラーの下で、暇な若者が雑談しているようにしか見えないだろう。ここで張っていれば、三方向の道を同時に監視できる。
道ゆく車は高級車が多い。たまにすれ違う軽自動車は、運送会社のものがほとんどだ。
「ここはリアル勝ち組エリアだな。香桜の生徒も大勢住んでるじゃないか」と僕ははじめて東京に出てきた田舎者のように、キョロキョロ周囲を見回した。
「……勝ち組、か」
やれやれ、と嘆息する神愛。
「なんだよ」
「私はその勝ち組、負け組という表現に違和感がある。そもそも『組』ってなに? 自分をあるグループに分類することで、自分が孤独な存在じゃないと確認したいのか。負け組と呼ばれる連中は、敗残者になってもなお、みじめったらしく集団からハブられることを懼れているってことだろ。
前に知恵袋で、ババアになりたい女の相手をしてやったことがあっただろう。勝ち組だの負け組だの区別したがる連中は、他人と比べなくては自我の安定を保てない人間だ。他人の価値観に踊らされる、他律の人間だ。
そういう連中は、例え勝ち組だとしても幸福にはなれないだろうよ。幸福は自己実現の過程であり、極めてプライベートな自己満足によって得られるものだ。他人と比べている限り、常に上には上がいる。他人と比べる限り幸福になれないというのは、そういう意味だ」
天下の公道でいきなり小難しい議論を。言いたいことはわかったけど。
「わ、わかったよ。今までそんなこと考えたこともなかった。これからは勝ち組とか負け組って安易に口に出せなくなっちゃったな」
「別に使うなとは言ってない。言葉に秘められた言外の含みを、知った上で敢えて使うのと、何も知らずに使うのとでは、罪の重さが全然違うからな。
けだし、恥ずかしいと思うことはしないのが美学だ。でも、恥を知った上で行うなら、それは自律。アグネスも確か中原中也の詩に触れていたな。『自恃だ、自恃だ、自恃だ、ただそれだけが人の行ひを罪としない』――というわけだ」
神愛の説法、超小難しいんですけど。「けだし」なんて古めかしい表現をリアルに使う女子高生を初めて見たよ。あと僕の目の奥を、そのギラギラ光る眼でガン見するのやめてくれ。何故だか頭の中身をスキミングされてる気分になる。あと瞬きしろ。
やがて。
「いまそかりっ」
アグネスが通りに視線を釘付けにしたまま、後ろ手に手招きする。
「どれ」
アグネスの上に覆いかぶさるようにして、神愛が通りに目をこらした。緩やかな坂道を、ゆっくりしたペースで人影が上ってくる。
あの葬式帰りのような沈鬱なオーラ。遠目でもわかる。
「汀だ」
「おーい……むぐっ」
背後から、長い腕をアグネスの首に巻きつけ、口を封じる神愛。
「ねぎぃっ!?」
アグネスがひねり潰された小動物のような悲鳴をあげる。
「まだだ、もっとひきつけるんだ。逃しようがなくなるくらいに。拉致るのはそれからだ」
などと不穏なことを口走る神愛は、身をひそめた虎? いや、親猫からはぐれた仔猫を上空から狙う猛禽類の表情だ。えっと、これから汀を救出するんだよね、確か。
「そうだ、もっと、もっとだ」
「ぐるじい、たずげでっ」
アグネスが手足をばたつかせる。
「お、おい、チョークやめ。様子がおかしいぞ」
「あ、すまん」
神愛は自分の行動に驚いて手を解いた。アグネスはよろめいて膝をつく。神愛を見上げて呪詛の言葉を吐こうとしたのか、口を開きかけて――アグネスは動きを止めた。
汀がこちらを注目しているのに気がついたからだ。
「あっ、ナギサちゃん、待って!」
怯えた小動物さながらのめまぐるしい素早さで、脱兎のごとく逃げ出す汀。
逃げるか。しかし、その反応はこっちも予想している。
「ゆけ、神愛!」
日頃から与えている牛乳の成果を見せろ。
「征かん!」
「…………って、オイ!」
威勢よい台詞にも関わらず、神愛は微動だにしない。
戸惑う僕には構わずに神愛はすうっと息を溜め込み、裂帛の気合で叫んだ。
「親友に知られたくないような道徳は、仮象の道徳だ!!」
汀はピタリと静止する。
道徳、というキーワードで動きを止めるように、悪の組織の手で暗示でもかけられているのか? と疑いたくなる。まあ、そんなことあり得ないんだけどね。
神愛は重々しくたずねた。
「何を悩む」
やがてかすかに汀の声を聞いた。
「自己犠牲」
「厳しい」
「とても」
「対象」
一瞬、汀は僕に視線を投げた。神愛が眉をピクリとさせた。
「助けは」
「不要」
神愛は首を振る。
「独りよがりな殉教者の快楽」
「否。勝りたるもの」
「快楽はうじ虫に与えられると」
「然り」
「自己犠牲の文脈においても幸福とは親和可能」
「怯懦」
「物極必反っ!」
いきなり何を話しているんだこいつら。というか、会話にもなってない。これじゃぶつ切りの単語の寄せ集めだ。ついにこいつらおかしくなっちまったのか?
僕の不安を感じ取ったのか、神愛が疑念を払拭しようと試みる。
「なに、ただの圧縮言語を用いたシンボルの交換だ」
なんだそりゃ。全然安心できねーよ。
「驚いた。いきなり独り言をつぶやきはじめたのかと思った」
「私らをかわいそうな人を見る目付きで見るな。汀は君のために苦しんでいるんだぞ」
僕のために? どういう――。
近くで見る汀は、昨日よりも更にやつれていた。彼女はまるで雌ライオンに囲まれたガゼルのように落ち着きなく左右をうかがっている。なぜこちらを見てくれないんだ?。
いくら触れて欲しくないことだろうとも、親友なら問いたださなければならない。忠言は耳に逆らうもの。それでも、どれどほど嫌がられようと、ウザがられようと、それでも誠実なお人よしに徹するべきだ。汀が信じている、そして僕も大いに共感している普遍的道徳――愛にかけて。
確かに全ては許されている。そして、愛があれば、自分がしたことで自分の心が手ひどいダメージを負ったとしても、自分を許せる。拒絶されたとしても、相手を許せるだろう。愛が全てだ。
「僕が原因なのか? だったら僕に助けさせてくれ。お前の自己満足に手を貸すことが僕の自己満足だよ」
沈黙が流れた。
的違いなことを言っちゃったかと半ば信じかけたころ、汀はスッスッス、と痙攣するように細く息を吸った。
「……ごめんね、自己犠牲に失敗しちゃった。もう心も体もぐちゃぐちゃで、どうにもならないの」
汀がはじめて吐き出した弱音は、心臓に悪かった。『もうどうにもならない』なんて、いつもの汀なら絶対に使わない言葉だろうからだ。
「みんなと顔を合わせるのがこわかった。心配、かけちゃったね」
「そりゃもう、心配したよ。……教えて、くれるんだろ?」と神愛が労わるように言う。
「教えてくれるまで引き止めるぞ」と僕。
「わたし……」
汀はそぐそこにある自宅と僕たちを、交互に眺めた。その眼には、警戒心旺盛なげっ歯類に似た、小狡い光がチラチラと踊る。
汀ともあろうものが、心底からの愛をもってさし出している僕たちの助けの手を、浅ましい利害計算のもとで比較検討していることに、胸が痛んだ。
はっとして我に返った汀は、自分の心の動きを思い出したのだろう、顔を覆って「ううう」とうめいた。
汀の指先をアグネスがそっと握った。
「わいんちに――わいのセーフハウスにおいでよ。ナギサちゃん今にも倒れそうだよ」
涙を拭って、汀はこくりとうなづいた。
儚さが美を際立たせるというが、確かにそれは真実らしい。この瞬間、目の下のクマや乱れた髪は、僕の目に入らなかった。汀は誰よりも美しかった。




