第3話:専属サキュバスの就職先
穏やかだった昼下がり、山小屋を揺るがす地響きが静寂を切り裂いた。
「グオォォォォォンッ!!」
プトラセクタの木々をなぎ倒し、現れたのは巨大な黒甲殻を持つ変異魔獣――メガロ・キマイラ。
血走った瞳が、レイの住む巨木の山小屋を捉えていた。
「な、なにあれぇぇ!? 討伐ランクS級の凶悪魔獣じゃない!」
「きゃああっ! 小屋が壊されちゃうよ~!」
アユミが慌てふためき、窓ガラスがビリビリと激しく振動する。
魔獣の放つ濃厚な瘴気と殺気は、ただの落ちこぼれサキュバスが太刀打ちできる相手ではなかった。
(逃げなきゃ……! こんなの、学校の先生だって逃げ出すレベルよ!)
本能が撤退を叫ぶ。だが、ユナの視界の端に映ったのは、静かに立ち上がり、魔獣の正面へ向かおうとするレイの後ろ姿だった。
その無防備な背中を見た瞬間、昨夜の温かいシチューと、今朝のフワとろオムレツの味が脳裏をよぎる。
(――あんな美味しいご飯を作ってくれたエルフを、死なせるわけにいかないでしょ!)
「アユミ、私に合わせなさい!」
「えっ、ユナ!? ちょっと、何する気――」
ユナは薄絹の裾を翻し、小屋の扉を蹴破って外へと飛び出した。
黒い翼を限界まで広げ、魔獣の巨大な眼前の宙へと躍り出る。
「こっちよ、この下品なトカゲ野郎! サキュバスの最上級誘惑術、食らいなさい――『夢幻の夜宴』!」
ユナの全魔力を込めた魅了の桃色燐光が炸裂する。
魔獣の歩みが一瞬だけ鈍った。だが、凶暴な破壊衝動に狂ったS級魔獣の脳を完全に支配するには、ユナの実力ではあまりにも足りない。
「グルァッ!!」
太い尾が一閃、ユナを叩き落とさんと薙ぎ払われる。
空中でバランスを崩したユナは、直撃を悟ってぎゅっと目を瞑った。
(あ、ダメ……っ!)
――だが、衝撃は来なかった。
「僕の大切な居候に、手を出させないよ」
冷徹で、けれど心地よい声が頭上から降る。
気がつけば、ユナの身体は温かな腕の中に抱きとめられていた。
レイだ。
銀糸の髪を風になびかせたレイが、空いた左手を軽く天へと翳す。
その瞬間、森中の大気が澄み渡り、規格外の神聖な魔力が周囲を支配した。
「吹き荒べ――【精霊王の息吹】」
パチン、とレイが指を鳴らす。
それだけで、樹海を揺るがすほどの翠緑の光刃が空間を断ち切った。
防御を誇る魔獣の巨躯が、一瞬の悲鳴すら許されず、塵ひとつ残さず光の粒子となって消滅していく。
「……え?」
ユナは呆然と口を開けた。
S級魔獣を、指先ひとつで消滅? そんなチート、おとぎ話の英雄でも聞いたことがない。
「怪我はないかい、ユナ?」
レイがふわりと地面に着地し、腕の中のユナをそっと下ろした。
至近距離で覗き込まれるエメラルドの瞳。その瞳に浮かんでいるのは、怒りではなく、どこまでも深く優しい慈愛だった。
「無茶をして……僕を庇おうとしてくれたんだね。ありがとう」
大きな掌が、ユナの頭を優しく撫でる。
子ども扱いされた悔しさよりも、胸の奥がきゅんと締め付けられるような熱さが勝ってしまう。
ユナの顔は、ツノの先まで真っ赤に染まった。
「べ、別に! アンタを助けようなんて思ってないんだからね! 借りを返しただけよ! ご飯の借りを!」
ツンと顔を背けて強がるユナ。
そこへ、おずおずとアユミが小屋から顔を出した。その手には、期限を告げて淡く光る通信水晶が握られている。
「あー……ユナぁ。追試の制限時間、切れちゃったみたい。私たち、落第確定で退学処分だよぉ……」
「……っ!」
現実へと引き戻される。
魔力を吸うこともできず、実習は完全な不合格。
もうここにはいられない。魔界へと強制送還され、みじめな落ちこぼれとして生きていくしかないのだ。
「……帰らなきゃ」
ユナはぎゅっと拳を握りしめ、俯いた。
「もう……行かなきゃいけないの。美味しいご飯、ごちそうさま。……美味しかったわよ、すっごく」
寂しさを隠すように背を向けようとした、その手首を。
すっと、温かい指先が引き留めた。
「帰る場所がないなら、ここにいればいい」
「……え?」
振り返ると、レイは困ったように、けれど愛おしそうに微笑んでいた。
「僕は世俗が苦手でね。ずっと森で一人だった。でも……君たちが来てくれて、誰かのために作るご飯がこんなにも美味しいと知ったんだ」
レイはユナの手をそっと包み込み、耳元で囁くように続けた。
「毎日、三食とっておきのご飯を作るよ。おやつもつける。僕の魔力なら、君たち二人で吸っても一生尽きないくらいあるし……好きなだけ搾り取ってくれて構わない」
「なっ……!?」
それは、魔族にとっての最上級の誘惑であり――実質的なプロポーズ同然の言葉だった。
「ユナ、残ろうよぉ! レイさんのご飯毎日食べられるなら、サキュバス学校の卒業証書なんていらないよぉ!」
「ア、アユミは黙ってて!」
ユナの心臓は、破裂しそうなほど激しく脈打っていた。
目の前の美貌のエルフは、底なしの魔力と極上の料理スキルを持つ無自覚チート。
そんな男が、自分たちを必要としてくれている。
(……サキュバスが男に養われるなんて、前代未聞よ。絶対に笑いものになるわ)
けれど、繋がれた手の温もりを、どうしても振り払うことができなかった。
ユナは涙目になりながら、頬を朱に染めてレイを睨み上げた。
「か、勘違いしないでよね……っ! アンタの魔力と手料理が惜しいだけなんだから! いつか絶対にアンタの理性をドロドロに溶かして、完全に骨抜きにしてやるんだからね!」
ツン全開の宣戦布告。
だがその顔は、幸福感で蕩けそうなほど真っ赤だった。
「ふふ、楽しみに待っているよ」
レイが優しく微笑み、ユナの頭をもう一度撫でた。
樹海都市プトラセクタの小さな山小屋。
男を搾り取るはずが、至高の手料理と底なしの優しさに胃袋ごと飼いならされたポンコツサキュバス姉妹の、甘くて美味しい居候生活が、いま始まったばかりだった。
(完)




