第1話:夜這い失敗と背徳の夜食
樹海都市プトラセクタの夜は、どこまでも深い。
湿り気を帯びた生暖かい風が木々を揺らし、密やかな月光の下、二つの艶やかな影が寝室の窓枠へと舞い降りた。
「いい、アユミ? 今夜こそ教科書通りの『魅惑の手ほどき』で、あのエルフを骨抜きにするわよ。追試の期限は今夜限りなんだから!」
身に纏うのは、サキュバス養成学校指定の露出度が高い薄絹の勝負服。細い腰のくびれ、スラリと伸びた白い太もも、そして夜風に小刻みに震える漆黒の翼。ユナは紫色の瞳を妖しく細め、自身の豊かとは言えない胸元をこれみよがしに寄せて見せる。
「わかってるってばぁ。エルフの精気って澄んでて極上なんでしょ? あーあ、早くトロットロに蕩けさせてゴクゴク飲み干したいなぁ」
姉のアユミはすでに臨戦態勢……というより、ただの食いしん坊の顔で唇を舌でペロリと舐めている。
「ちょっと、はしたないわよ! サキュバスの真骨頂は、男に『貪られたい』と懇願させる甘美な焦らしにあるの。……見せてあげるわ。私の吐息ひとつで、どんな堅物エルフだって理性を失って獣になるんだから」
ツンと上気した頬を誇らしげに反らし、ユナは音もなくベッドサイドへと忍び寄った。
ターゲットの男エルフ、レイはシーツの上に無防備に横たわっていた。
月明かりに照らされた銀糸の髪、涼やかで彫刻のように整った顔立ち、寝間着の胸元から覗く白磁の肌。ユナは思わず生唾を飲み込み、すぐに首を振って蠱惑的な微笑みを作った。
(ふふ……上玉じゃない。私のフェロモンで、今夜は朝まで眠らせないんだから……っ)
ユナは身を乗り出し、レイの耳元へ熱っぽい吐息を吹きかける。
すらりとした指先を青年の胸板へと這わせ、腰を艶めかしく揺らしながら、吐息混じりの甘い声を紡ぎ落とした。
「ねえ……起きて? あなたの綺麗な身体……私の全部で、トロトロにしてあげる……っ」
相手の理性をドロドロに溶かす、渾身の魅惑術。
――のはずだった。
『ぐぎゅるるるるるるるぅぅぅ――ッ!!』
静寂に包まれた寝室に、地鳴りのような猛烈な腹の虫が響き渡った。
ユナの平坦な下腹部から、一切の情欲を吹き飛ばす爆音の大合唱が轟く。
「……えっ」
「あはは、ユナのお腹、怪獣みたいに鳴ったねぇ」
「ア、アユミのだってさっき鳴ったじゃないのよ! っていうか、なんで今……っ!」
ここ三日、追試のプレッシャーで水すら喉を通らなかったポンコツ姉妹の胃袋が、最も色っぽい瞬間に大暴走したのだ。
時すでに遅し。
青年の長い睫毛が震え、深い森の湖のようなエメラルドの瞳がゆっくりと開かれた。
至近距離で、胸元に手を這わせたまま固まるユナと視線がぶつかる。
(し、しまった……っ! でも、ここで退いたらサキュバスの名折れよ!)
ユナは羞恥で真っ赤になりそうな顔を必死に抑え、うるんだ瞳で上目遣いを作り、唇をわずかに開いてレイをねっとりと見つめた。
これならどうだ、と言わんばかりに、薄絹越しに自分の太ももをレイの脚へと摺り寄せる。
「……んっ、目覚めちゃったかしら? 悪戯な夢魔に身体を奪われる気分は、どう……?」
妖艶に、官能的に、耳朶を甘く噛むようなトーンで囁く。
だが、目覚めたレイは微塵も息を荒らげることなく、キョトンと目を丸くした。
そして、密着するユナの胸元……ではなく、けたたましく鳴り続ける彼女のお腹へと視線を落とし、ふわりと陽だまりのような笑みを浮かべた。
「こんばんは。……ずいぶん可愛らしいお客様だな。お腹が空いて眠れなかったのかい?」
「は……っ?」
色仕掛けが、まるで通じていない。
邪念ゼロ。鼻の下を伸ばすどころか、迷子の仔猫を見るような澄み切った瞳。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 私のこの格好が見えないの!? 男ならもっとこう、ムラムラするとか息を呑むとかあるでしょ!? なんで『お腹空いたのかい』なのよ、意味わかんない!」
悔しさに地団駄を踏み、ツノを真っ赤にして憤慨するユナ。
しかしレイはまったく意に介さず、ベッドから静かに降り立つと、パチパチと火が爆ぜる暖炉へと歩いていった。大鍋の蓋が開けられた瞬間、室内に暴力的なまでの芳醇な香りが充満する。
「夜更かしは体に毒だよ。ちょうど、明日の朝用に角鹿のシチューを仕込んでいたところなんだ。温かいから、食べていくといい」
コトリ、とテーブルに置かれた二つの深皿。
じっくり煮込まれた角鹿の肉、トロトロに溶けた香味野菜、森のハーブと濃厚なミルクが絡み合う黄金色の魔獣シチューから、白い湯気が立ち上る。
「いっただっきまーす!」
「ちょっ、アユミ、馬鹿っ! 私たちは夜の支配者サキュバスよ! こんな安いエサに――」
ユナの制止も虚しく、アユミは木匙をすくって躊躇なく口へ放り込んだ。
その瞬間、アユミの目が丸く見開かれ、頬が蕩けるように緩む。
「んんん~~~~っっっ!? な、なにこれぇぇぇ! お肉が舌の上でほどけて消えちゃう! 濃厚なのに全然くどくなくて、胃袋の奥までじわぁぁって染み渡るよぉぉ!」
「えっ、うそ……そんな大袈裟な……」
猛烈な勢いでシチューをかきこむ姉の姿に、ユナの喉が「ごくり」と鳴る。
レイはユナの前にも木匙をことりと置き、眩しいほどの優しい視線を注いだ。
「君の分もあるよ。冷めないうちにどうぞ」
「べ、別に! アンタに施しを受ける筋合いなんてないんだからね! ……毒見よ、毒見! アユミが倒れたら困るから、一口だけ確かめてあげるわ!」
ツンと顎をしゃくり、ユナはおずおずとスプーンを口元へ運んだ。
舌尖に触れた瞬間――。
「――っっっ!?」
衝撃が、ユナの脳天を貫いた。
角鹿の野性味をハーブが完璧に手懐け、噛む必要すらないほどホロホロに煮込まれた肉から溢れ出す濃密な旨味。空っぽだった胃袋を、優しく、かつ圧倒的な幸福感で満たしていく。
「お、美味……じゃなくて! な、何よこれ、信じられない……っ!」
美味しくないと言いたい。突っ返してやりたい。
だが、震える手はユナのプライドを裏切り、スプーンは二口目、三口目へと吸い寄せられるように動いて止まらない。
「ふふ、口に合ってよかった。まだ鍋におかわりもあるからね」
「だ、誰がおかわりなんて……っ、もぐ……っ、勘違いしないでよね! これはアンタの魔力を測るために……んぐっ、仕方なく食べてるだけなんだからぁ!」
真っ赤な顔で涙目になりながら、皿をあっという間に空にしていくユナ。
男を魅了するはずが、己の空腹と極上手料理の前に完全敗北したポンコツサキュバスの夜は、こうして更けていくのだった。




