5.帰郷③
「もういいや。オマエにそいつやるよ」
少年は身軽にテラスの縁に座ると、弥彦の向こう側を眺めた。
「――⁉」
ふと頭上から影が落ちる。それと同時に上から重苦しい圧力が全身を襲った。
――この、感覚は……!
まさかと思い見上げた。
少年が現れた黒い裂け目。そこからズブリと輪郭が現れる。
中型の猿だ。黒塗りのそれは頭上から甲高い声を挙げ、綺麗な歯並びを見せつける。
明らかに、神獣だ。
弥彦目掛けて落ちてきた。
――!
黒猿にのしかかられ、弥彦はそれに抗えず倒れた。黒猿は弥彦を押し倒した状態で開口した。
「びゃくっ――」
指示するよりも早く白夜は黒猿に牙を向ける。だが、黒猿は白夜の首根っこを握り、弥彦の首元からずるりと引っ張る。
「うわあああ! く、苦しい! 離せえ!」
黒猿がその声に耳を傾ける様子はなく、再び弥彦に向き直ったその瞬間。
「どけ!」
アヴァロカナが黒猿に突進する。黒猿はそれには対応できず向こうへと突き飛ばされた。
体の自由を得た弥彦は痛みに負けず即座に体を起こすが。
「ギャアアアアア!」
すぐに態勢を立て直した黒猿は白夜を置き去りにして真っ黒な目を吊り上げながらアヴァロカナに飛びかかった。
「なっ⁉」
地に磔されたアヴァロカナの片翼を握ると付け根に噛みついた。
「ああぁあ!」
白い体に黒い染みが広がる。ミシミシと嫌な音を立て、黒猿は片翼を噛み千切った。
「アヴァロカナさん⁉」
――そんな、神獣が怪我を負った……⁉
黒い染みはどんどんアヴァロカナの胴体へと蠢いて拡大していく。
「いけない! 白夜!」
アヴァロカナが死んでしまう――! そんな確信が弥彦を駆り立てた。
「ヤヒコ!」
駆け寄った白夜が黒猿に向けた弥彦の左腕に巻き付き口を開く。
異能展開――。
ブレスレットの共鳴石が輝き始める。
「ラッキー、隙はっけーん」
その途端、ルデレが無計画な結果にニヤっと笑い、右手を弥彦に向けた。その掌から水流の音が大きくなっていくのが分かる。
――やばい!
黒の神獣を止めるためには【気絶】の異能を使えばいい。だが、こんなに気の立っている黒猿を止められる確証が持てない。
白夜の神力で【気絶】の異能を増幅させる――これは絶対に必要だ。
――それなら……!
意を決し、弥彦はアヴァロカナとルデレの間に入り、黒猿へと手を向け続けた。
「ヤヒコ⁉」
「いいから白夜!」
「~~~っ!」
一瞬悶える白夜は言いたいことをぐっと堪えて弥彦の異能に神力を乗せた。
真っ白に輝く光は黒猿へと向かう。
飲み込む、その拍子に、背後のルデレの水流が激しい音を立て始める。
(ヤヒコー!)
(いいから!)
背中から激流を叩き込まれてもこの場所から離れない。黒猿を抑制すれば倒れてもいい。
でも黒猿が気絶しないなら、どんなに痛みを伴おうが異能を止めない……!
背中から危機が差し迫る。十分に溜められた水は渦を巻き、ルデレの掌から解き放たれた。
弥彦は痛みに備え、歯を食い縛る。
――来い……!
そう覚悟を決めた時。
「招かれざる客か」
恐ろしく低い声が近くで聞こえた。弥彦は思わず振り返る。
テラスの端。その真下から跳躍した影がひとつ。
外套をはためかせた仮面の男だ。
ルデレもそれに気付き男を驚いた目で追う。その拍子、弥彦に放った水流は軌道を逸らし、間一髪で弥彦の横を掠めていった。
だがそれでも弥彦は仮面の男を凝視した。そうせざるを得なかった。
敵が一人増えた――状況が変わる。
仮面の男はその手に白い短剣を握っていた。それは先ほどリアイゼルが握っていたものだったはずだ。
仮面の男はそれをルデレに投擲した。ルデレは焦りつつも軽い身のこなしで避けた。
「うわっ! あっぶね、殺す気かよ⁉」
「そうだが?」
仮面の男は問答無用で少年に殴りかかった。
風をも唸る打撃に「うわあ!」と叫びながら避けていく。
そんな状況に弥彦は我に帰った。
――好機だ!
仮面の男がルデレの注意を引いている。これを逃す手はない。
「白夜!」
「いっけえええええ!」
弥彦の共鳴石がより一層輝きを増す。新たな白い波が黒猿を飲み込んだ時、黒猿は絹を裂くような甲高い悲鳴を挙げた。
「な……?」
ルデレはそれが何の声だったのか分からなかった。こちらに驚き反射で視線を送った時に、その表情は焦りに染まった。
「やめろおおお!」
ルデレは仮面の男そっちのけで弥彦に両手をかざす。その時、弥彦の頭上からこぽぽと気泡だつ音が生まれた。
「まさか……!」
頭上を見上げると、それはもう存在していた。
黒い水面――それが簡単に避けられないほど広く展開される。
今までルデレは黒い水を放ってきた――ならばこれは……。
――やばい、落ちて来る……!
嫌な予感は当たった。
それは高所から落ちた瀑布の勢いで降り注ぐ。
白夜は上を向き、口を開く。
だが。
「がっ⁉」
黒猿を抑えていた異能が減退した隙に、黒猿は白夜に片腕を伸ばし、首を握る。
「びゃ――!」
名前を叫ぶ暇はなかった。
瀑布は弥彦たちを飲み込まんとした。
莫大な音が耳を襲う。水飛沫はあちこちへと飛び散り、触れた表面を削る。
痛々しい現状に、だが違和感を覚え弥彦は眼を開けた。
「降ってこない……?」
瀑布が避けた――そんなことをあのルデレがするとは思えず上を確認し、弥彦は言葉を失った。
仮面の男が、その巨体で覆うように立ち、弥彦たちを守った。
「な……⁉」
驚きも束の間、瀑布は桶を逆さまにした水のように収まる。
仮面の男は瀑布を直接受けた頭や背中から血を垂れ流す。
「この体が役に立ったな」
どう考えても重傷だ。背中を中心に赤黒い血がとめどなく流れて出ていく。足元にはもう血だまりが出来上がっていた。
「どうして……⁉」
「今はそれどころではなかろう」
仮面の男は怪我を受けた素振りを見せず、黒猿へ視線を向ける。
弥彦が動揺している間に黒猿は白夜を手放し、跳躍するとルデレの隣に着地した。
いつの間にかルデレはまたテラスの縁に立っていた。ルデレは乾いた笑い声を零すと、狂乱じみた笑顔を浮かべた。
「運がいいな、新しい神獣使い。けど自分の身ひとつ守れないって、笑えるわ」
「……っ!」
自分の未熟さに一番腹を立てているのは自分だ。それを指摘され、弥彦は言葉が出ない。
「知らねえみたいだから教えてやるよ。オレはルデレ、黒猿は相棒さ。今日のは挨拶ってやつ」
「それはいったいどういう……」
「三日後だ」
「……?」
ふと、ルデレの背後に目を見張る。
青空だった空に、いつの間にか雲が多く立ち込めている。
白より灰色に近い。太陽はほとんど隠れ、街を薄ぼんやりとさせた。
そんな状況とは対照的にルデレは生気を吸っているように声を弾ませ、空を指さした。
「三日もあればこの地は〝黒〟に染まる! お前らの言う黒の侵蝕さ!」
「な……⁉」
突然の予告に絶句する。黒の侵蝕は小さな黒い靄が現れてから拡大してく。その出現場所の規則性は判明しておらず、拡大の速さも不規則だ。そうだというのにルデレは絶対そうなると言わんばかりに断言した。
「あ、言っとくけど規模しょぼくねえから」
ルデレは心から楽しいように声を高らかにした。
「止めたけりゃ元凶を叩くんだな! オレはそこで待ってる、また遊ぼうぜえ!」
歯をむき出して笑うルデレはどんどん黒ずむ。全身を真っ黒に染めた時、彼らは闇の空間に閉じ込められるかのように縮小し消えてなくなった。
音は先ほどまでが嘘のように静まり返る。
空は曇天なままで、どこだか空気も重い。
ルデレと言った少年はいったい何者なのか? あの黒猿との関係は? どうして殺しにかかってきた? 様々な疑問が押し寄せるが、それどころではない。
「アヴァロカナさん!」
片翼をもがれたアヴァロカナは、そのまま息を切らし伏せていた。
生きている……先ほど黒猿の影響かその体に染み込んでいた黒色も無くなっているようだ。
だがその翼が回復する様子は見られない。
「鳥類い!」
「わめくな……うるさい……」
白夜はどうやら怪我という怪我がないようだ。そんな白夜の声にアヴァロカナは苦しそうながら片目を開けて睨んだ。
「どうやら……深手というものを負ったらしい……」
「そんな……!」
アヴァロカナの全身が一際輝く。すると、光の粒がアヴァロカナから溢れてきた。
まるでその体を削るような光に弥彦はアヴァロカナを抱き寄せる。
「カナさん! だめです、死なないでください!」
神獣は頑強だ……だが白と黒の神獣は互いに天敵。途中で白夜と立ち向かったが、遅かった。
「やめろ人間……と、言いたいところだが……顔を上げるも辛い……今だけ許してやろう……」
どんどん体が薄れていく。抱えた重さが軽くなっていくなか、アヴァロカナは言葉を振り絞る。
「いいか人間……お前は弱い……守られていることに……嘆く必要はない」
「お前……こんな時になに言ってるんだよ……」
涙を堪え言葉を震わせる白夜。
弥彦は唇を噛み、嗚咽を飲み込む。
「僕が未熟なばかりに……」
「そうだ……お前は未熟だ……せっかく生きたなら……どう開花したいか……得た時間を……生かせ」
「カナさん!」
消えてほしくない、ただその一心で名前を叫ぶ。
だがその希望は虚しく、アヴァロカナは光の粒になって風に消えた。
「こんなことって……」
涙が目から零れる。白い鳥の温もりの残る腕で体を締め付ける。
「酷い邪魔が入ったものだな」
ため息混じりに声を落としたのは仮面の男だ。
「――!」
アヴァロカナの事で頭が一杯になっていた。弥彦は身構える――だが仮面の男は片手で制した。
「警戒を解くがいい。襲う気にならん」
「なにを……」
なにを根拠に――そう言おうかと思ったが、足元に広がる血だまりが依然広がっている。
「守って……くれたんですね……どうしてそんなことを」
「なに、客人が逆賊に襲われれば救うのは当然」
――救う?
一番最初に襲ってきたのは仮面の男であるのだが、それを指摘するほどの心の余裕はない。
「弥彦、無事か!」
動揺していると階段の方からリアイゼルが壁に手をつきながらやってきた。頭から血を流し、よろめきながら歩く姿は痛々しい。
「ゼルさん、アヴァロカナさんが……!」
「……大丈夫だ、それについては分かってる」
異能で知ったのか、それともパートナーとしての影響なのか。声を落として言うリアイゼルに、弥彦は悔しさに言葉を詰まらせた。それを横目に仮面の男は鼻を鳴らした。
「やっときたか。待ちわびていたぞ」
「一階から二階に飛び越える奴に追い付けるかってんだ……て、あんた……!」
その言葉にリアイゼルはやっと仮面の男の惨状に気付く。
仮面の男はただ変わらない調子でリアイゼルに言った。
「城の地下に人がいる。応援を呼ぶといい」
背中から足へと流れる血は止まらない。顔色の見えない男はリアイゼルにその顔を向けた。
「お前たちも休め。私も一度、眠りに就こう……」
淡々と話していた仮面の男は、プツリと糸が切れたように倒れ伏した。
「――! 弥彦、そいつを見ていてくれ!」
「は、はい!」
リアイゼルは血相を変えて、まるで痛みを忘れたかのように走り去る。その後ろ姿はすぐに見えなくなった。




